後払い

鯨ヶ岬勇士

後払い

 彼は恐れていた。数え年、88歳の誕生日。めでたいことだが、それでも恐れていたのだ。


 夕方、日が沈みゆく中で、ぼんやりとしたブラウン管の中に映し出されたニュース番組を見た瞬間、背筋に冷たいものが突きつけられた感覚がした。


「栃木の殺人事件について続報です。裁判所は68年に発生した殺人事件に違憲判決を——」


「父さん、今日は米寿の祝いだね」


 息子がニュースをかき消すように後ろから話しかけてくる。彼は声を震わしながら、それに応えるが、顔を見ずとも息子がどんな表情をしているのかはわかる。


「それにしても88歳を漢字に直して米寿と呼ぶって面白い考え方だよね。人生米作りと同じ、時間をかけた分、最後にそれが返ってくる」


「お祝いしてくれるのはありがたいが——」


「ストップ」


 弱って杖が必要な足で振り返ろうとした彼を息子が制止する。それから背中越しでもわかるほど彼を正視し、静止した。


 ぎゅっ、ぎゅっ、と皮膚が擦れる音が聴こえる。それはどこか不自然さがあり、何かに引っかかるような違和感があった。


「父さん、昔、僕が手のひらを骨折したこと覚えてる?」


「あ、あ、あ」


「あれ以降、うまく拳が握れないんだ。お医者さんは骨折してすぐに病院に来てくれればって言ってたよ」


「あれは悪かったよ」


 背中に感じる冷たいものが、どんどんはっきりと実像を伴ってくる。服の上から何か薄く尖ったものが彼の皮膚を擦る。それからそれはゆっくりと突き進み、背中に熱い痛みを残した。


 彼はそのまま倒れるが、息子はすぐに駆け寄り、話を続ける。


「もう十分人生楽しんだろ?僕も母さんもそのために十分苦しんだんだ。その分のツケ、今払ってもらうよ」


 薄暗い部屋の中で彼は88歳の誕生日を迎えた。


 

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後払い 鯨ヶ岬勇士 @Beowulf_Gotaland

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