88歳のお祝い

霜月かつろう

第1話

 車を運転するのは記憶を辿っても最後が思い出せないくらい久しぶりで、不安で仕方ない。子どもの送り迎えで幾度も通った道だけれど、しばらくしているからか、ちょっとずつ見える景色が違って困惑する。


「悪いねぇ。車出してもらっちゃって」


 後部座席で義母ははがこちらを見ずにつぶやくように話しかけてくる。もしかしたら、運転している緊張が伝わってしまったのかも。


「いえいえ。いいんですよ。久しぶりのお出かけですもんね。お祝いですから気にしないでください」


 まるでお祝いじゃなければこんなことしたくないと聞こえたかもしれないと思って不安になる。


「ありがとうよ」


 でも、素直にお礼が返ってきてホッとする。考えてみれば義母はずいぶんと丸くなった。結婚した頃はこんなことを言えばすぐに嫌味混じりの答えが返ってきていたような気がする。


 米寿だもんなぁ。


 義父ちちが亡くなってからというもの元気がなかった義母はつい先日88歳の誕生日を迎えた。盛大に米寿のお祝いだと子どもたちも駆けつけてくれた。


 義母はわいわいとしているそのお祝いの場で驚くべき言葉を口にした。


「私は死ぬまでにスケートを習ってみたいね」


 義母の言葉に全員がポカンとしてしまった。全員が我に返るまでそれなりの時間を要した。


 それからはやんや、やんやの大騒ぎだ。夫は危ないからと反対したし、子どもたちは考えなしに賛成だ。一回転びでもしたら骨折してしまうかもしれない。そんなことにでもなったら一大事だ。ただでさえ足腰が弱っていて歩くのもつらいと言っているのだ。下手したら寝たきりになりかねない。


「でもねぇ。久しぶりに滑りたくなったんだよ」


 その言葉に旦那と私の言葉が詰まったのは間違いない。一度だけなら。そう旦那が折れたのもわかる。それ以上何が言えようか。


 スケート教室なるものをネットで検索して、要項を調べる。当然だけれどどこにも年齢制限なんて書いてはいない。ここでも諦めさせることができなかった。


 とはいえ、連絡もせずに88歳を連れて行ったら驚かれるだろうし、あらかじめ確認をしておいたほうがいいだろうと書いてあった電話番号に連絡した。


『前例がないのでなんとも言えないんですが来ていただければできることはあると思います』


 真面目そうな若い声の男性が出たと思ったら返答も真面目だった。そりゃそうなんだけどさ。もうちょっとプロから危ないですよとひとこと言ってもらえたら説得する材料が増えたとになと思う。


 じゃあ、お世話になります。そう言うしかないなかった。そんなことを思い返していたら小さいドーム型のアイススケート場が見えてきた。


 案の定慣れない駐車にしばらく戸惑ったあと、義母を車から降ろす。歳の割に足腰はしっかりしていると思う。手を貸す必要もなくひとりで歩いていく義母の背中は頼もしさすらある。


 確かに滑れちゃうかもなぁ。なんて思わせられる。


 受付を済ませてからしばらくして、若い男性が近寄ってくるのを見て年甲斐もなくドキッとしてしまった。


 仕方ないよね。と誰に言うでもなく言い訳をする。こんなにかっこいい人をリアルで見たのは初めてだと言ってもいい。テレビの中にしかいないような人が目の前にいて、それも近寄ってきているのだ。ドギマギしないほうがどうかしてる。


 電話に出てくれた彼かしら。そうしている間に男性は目の前に止まって。


「あの」


 名前を確認してくる。義母のことで話があるらしい。


「お義母様なんですが、ちょっと我々だけでは見きれない部分もあるので、よろしければ一緒に氷の上に乗っていただければ思うのですが……」

「えっ。私がですか?」


 予想していなかった提案に困惑する。子どもが遊んでいたのを眺めていたことはあっても滑ったことなんて一度もない。


「大丈夫です。お義母様とおんなじコースですから」


 要は特別コースを作るのにひとりでは成り立たないからということだろうか。レッスンするにしてもひとりでは割に合う料金を徴収できないからかもしれない。


 とはいえこちらからお願いしていることだし、なにより義母のお祝いで来ているのだ。断るわけにもいかない。


「ええ。お願いします」


 記憶に自分が氷の上を滑っているものなんてない。子どもたちが遊んでいるのを眺めていたことはある。しかし、幾度も理由をつけて断り続けていた。正直不安でしかない。でも、義母より滑れないことはないだろうとその時は思っていた。


 しかしそれもすぐに後悔へと変わる。


 まるで生まれたての子羊みたいにプルプルすることしかできない。そのことに悔しさがばかり湧き出てくる。義母の88歳のお祝い。それは意外と高く付いたみたいに思えてくる。


 しまいにはだ。目の前を平然と顔をして立っている義母が目の前を横切る。そしてどうやっているのかわからないが止まった。


「大丈夫?あなたは見ててもいいのよ?」


 家では見せたことのない笑顔を見せる義母の様子に悔しさがこみ上げてくる。スケートリンクを囲っているフェンスにしがみつきながら、スィーっと滑りながら離れていく88歳をただ眺めるしかできない。恐怖もないのか清々しい表情だ。最初からこうなることがわかっていたんじゃないかと思うくらいだ。


 それにイケメンコーチにマンツーマンでレッスンしてもらえてご満悦な様子ですらある。そっちが狙いだったなんてことないよなと、余計な想像すら頭を過って。してやられたと思い、不思議と嫌味をいうきにもならず。必死に陸の上を目指した。

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88歳のお祝い 霜月かつろう @shimotuki_katuro

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