勉強やスポーツかできてもお笑いは難しい

カユウ

第1話

 僕の視線の先で、初老の男性がぱたりと倒れる。見ているのは僕だけじゃない。百人以上の人が見ている先で、うつ伏せになるように倒れた。


「ひっ!」


 近くから息をのむ音がした。もしかしたら、自分かもしれない。倒れた男性から目を離せずにいると、ふっと倒れた男性を照らしていた証明が消える。そして、頭上からゆっくりと緞帳が降りてくる。と同時に太鼓の音が聞こえてきた。ドロドロドロドロと、まるで出ていけと言われているような太鼓の音だ。


「はい、追い出しが流れたのでみなさん出ますよ。事前に伝えた通り、一時間後にホテルのロビーに集合です」


 緞帳が降りきり、引率の先生の言葉で精神が現実に帰ってくる。割れんばかりの拍手喝采が降りた緞帳に向かって注がれていた。

 中学二年の芸術鑑賞で来た寄席。見る前と後で、こんなにも落語に対する印象が変わるとは。


「落語、すごかった」


 本日のトリは、六代目 五佑亭苑夕ごゆうていえんゆうによる演目『死神』。最後の場面は、本当に死んでしまったんじゃないかと思うくらい、鬼気迫るものがあった。

 落語家さんたちが大喜利をやる日曜日夕方のテレビ番組を見てた。けど、テレビでの姿と、今目の前で演じられた姿が一致しない。これが、落語家さんなんだ。


「やってみたいな、落語」


 ぽつりと出た言葉に、我ながらびっくりした。だが、落語なら長い時間挑戦し続けられる可能性があった。

 となれば、やることは一つ。弟子入りだ。ホールから出ていくお客さんの流れに乗って他の生徒から離れ、こっそりと楽屋につながる裏口に回った。


「苑夕師匠、ぜひ弟子にしてください!」


 お弟子さんに先導されて出てきた苑夕師匠を見るや否や、出待ちをしていた他のお客さんに先駆けて頭を下げる。


「ふむ。お前さん、まだ中学生だろう?そうだな、偏差値75以上の高校に入学したらここに連絡しといで」


「あ、ありがとうございます!」


 再び深く頭を下げ、苑夕師匠からいただいた名刺をしっかりと懐に入れる。

 それからというもの、僕は人が変わったように勉強に集中した。この変化には両親も驚いていた。


「いよっしゃー!合格ぅ!!」


 苑夕師匠に言われた通り、偏差値75以上の大学付属高校に合格した。ポストの前で合格通知を開け、両手を挙げて喜んでしまった。きっとご近所さんに見られていただろう。ちょっと恥ずかしい。


「苑夕師匠に弟子入りさせていただきたくまいりました。佐藤俊朗と申します」


 高校の入学式終了後、その足でいただいた名刺に書かれていた住所に向い、受付で来訪目的を伝える。しばらく待つように言われて待っていると、苑夕師匠が現れた。


「お前さんかい、弟子入り希望ってのは。で、どうして弟子入りしたいんだ?」


「はい。佐藤俊朗と申します。弟子入りしたい理由は、師匠の『死神』に衝撃を受けたからです。命乞いをする男と対峙する死神。やり取りが面白くて、ずっと笑ってしまってしました。そして、サゲの倒れる姿。本当に師匠が死んでしまったんじゃないか。そう思ったんです。僕も、師匠のように落語を演じたいんです。お客様に笑っていただきたい、心に衝撃を受けてほしいんです」


 深く頭を下げる。


「偏差値75以上の高校に入学してきました。ぜひ、弟子入りさせていただけないでしょうか。」


「ぷっ、あっはっはっ」


 師匠は噴き出すように笑いだすと、バシバシとソファの座面をたたいていた。


「思い出した。思い出したよ。二年くらい前に寄席の裏口で弟子入りしたいって言った中学生だね」


 笑いすぎて目じりに浮かんだ涙を手拭いでふいた師匠は、僕の目を見る。


「うん、合格。ただし、親御さんの許可は得なきゃいけない。来週以降で親御さんと一緒に来られる日を弟子に連絡しておいてくれ」


「はい、ありがとうございます!」


 その後、スケジュール管理をされているお弟子さんを紹介され、両親のスケジュールを確認した後に連絡することを伝えてから、帰路についた。

 両親の許可を得て、僕は前座見習いとして落語家人生を始めることができた。


 弟子入りから十年。二十五歳にして、真打に昇進することが決まった。それもこれも、すべて師匠や先に真打に昇進されていった兄弟子たちのおかげ。

 高校二年の終わり際、前座に昇進。高校卒業したら落語に集中しようと思っていたのに、東京大学レベルじゃないと弟子を続けさせないという師匠の言葉で予定変更。高校三年生になってから東京大学レベルの受験勉強を開始することになるとは思いもよらなかった。大学卒業と同時に二ツ目昇進。そこから三年間、営業で飛び回り、各地の寄席に出させてもらい、その合間にネタ作りをする。そんな大忙しの日々を経て、ようやく真打に昇進することができた。過去を振り返りながら、寄席にかけられた真打披露興行の文字を見上げていると、師匠に声をかけられた。


「おう、苑俊えんしゅん。今日から真打披露興行だな。今日は何を演じるんだい?」


「あ、師匠。今日は『死神』をやらせていただきます」


「やっぱり『死神』か。ま、楽しみにしてるよ」


 高笑いしながら裏口に向かっていく師匠の背中を見送ると、もう一度真打披露興行の文字に目を向ける。ここで終わりじゃない。ここから始まるんだ。

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