さよならの言い方

瀬尾 三葉

さよならの言い方

 初春の西日を受けるマンションの一室に二つの影があった。

「なぁ、腹減らね?」

 シングルベッドの上でだらだらとくつろぎながら、一人の男子高校生が言った。

「別に」

 もう一人が無愛想に答える。空腹の訴えよりも、手の中の漫画雑誌に気を取られているようだ。

 雑な返事にむっとしながら、それでもなお訴えは続く。

「なーなー腹減った!」

「うっせーな」

「なんか作って」

「ポテチでも食ってろ」

「もうない」

「じゃあ我慢しろ」

「無理」

「無理じゃない」

「作って」

「嫌だ」

「シェフ~」

「シェフじゃない」

「お願い」

「やだ」

「なんでもするから」

「うるさい」

「ねぇ」

「あー、もう!」

 不毛な攻防に根を上げたのは漫画雑誌を熟読していた方だった。もう少しで読み終わるところだったのに。乱暴に雑誌を放り投げて、茶髪の頭を掻きながら立ち上がる。

「わかったよ、作ればいーんだろ」

「やったー。ありがと」

「棒読み」

「心から感謝してる」

 駄々をこねていた方はベッドから起き上がり、目を輝かせて喜んだ。頭の後ろで寝癖がぴょんと跳ねていた。

「ただし」

 茶髪がドアの前で振り返って言った。人差し指を顔の前でまっすぐ伸ばし、寝癖は幼子のようにつられて背筋を伸ばした。

「作ってるところを見るな」

「えー、なんで」

「なんでも」

「見たらどうなる?」

「いいから見るな」

「なんかこういう昔話あったよな。中を覗いちゃダメなやつ。なんだったっけ」

 的外れな思考を巡らせ始めた寝癖を置いて、茶髪は部屋を出た。

 数十分後。

「わぁ……めっちゃ美味そう!」

 南向きのダイニングルームに香ばしい匂いが満ちていた。四人掛けテーブルの上に乗っているのは、表面をこんがり焼かれた食パンである。二枚に重なっていて、その間には何かが挟まっているのがわかる。寝癖は視覚と嗅覚に空っぽの胃を刺激されて、急いでお皿の前のイスに腰かけた。

「サンドイッチ?」

「まぁ食べろって」

 いただきます、と律儀に手を合わせてから、寝癖は六枚切りの厚いトーストが合わさったサンドイッチにかぶりついた。

「うんめ~」

 まさに染みる、といった美味に寝癖は破顔した。

 カリッと軽やかな音を立ててパンに齧り付くと、バターのまろやかな香りとふんわりした小麦の食感に包まれる。その中に挟まれた具材はシャキッとしたレタス、厚めのハム、そして目玉焼きである。味付けは塩だけ。このシンプルさが絶妙に具材の存在感を引き立てる。温かい具材の歯ごたえが柔らかいパンとの相性を引き立て、腹ペコの脳と体を満たす幸せな味だった。

「それはよかった」

「すんげぇうまい。店出せるよ」

「大げさだな」

「いやほんとだって。俺が名前考えてやる。ハムと卵とレタスだから… …HTLサンド?」

「卵は日本語なのかよ。eggだからHELじゃね?」

「それだ。……あっ、半熟だ!」

 喋っている間にもサンドイッチを食べすすめていた寝癖は、目玉焼きの黄身が半熟なことに気がついた。しかも、熱々である。あちっ、と熱さに苦戦しつつ、半熟なので黄身が垂れないように試行しつつ、その美味しさに手を休めるという選択肢は浮かばないようだ。

「あー、やっぱ食べにくいか。おい、一回置けよ」

「いや、俺半熟派だからめっちゃ好き。美味い。全然食べる」

 茶髪はふっと笑った。片肘をついて、真正面から自分の作ったものを頬張る寝癖を見つめる。

 指に垂れた黄身を丁寧に舐め取って、目の前の料理を堪能する寝癖を見ていると、茶髪まで満たされたような気分になるのだ。

 あっという間に半分以上を胃に収めた寝癖が、あれっと声を上げた。

「なんか普通のトーストと違う気がする。なんだ?」

 その発言に、茶髪の眉が少し反応した。

「というと?」

「んー、なんか味が違う……なんだろこの味」

 小さく唸りながら、寝癖はまたサンドイッチを口に入れる。そして、閃いたように目を見開いた。

「わかった!オリーブオイルだ!」

「あー、バレたか。てか飲み込んでから喋れよ」

「ごへん」

 茶髪は頬杖を解き、イスに深く背を預けた。見破られるとは、俺の読みが甘かったか。

 咀嚼を終えた寝癖が首を傾げて問いかける。

「バレた、ってなに、秘密だったの?」

「いやまぁ、そういうわけでもないけど」

 予想外の出来事に弱いのが茶髪の難点である。頭の中に思い描いていた計画が崩れ、丸腰になった状態で雰囲気だけは余裕を醸し出している。

「美味い?」

「美味い」

「お前、よくわかったな」

「わかるよ。だってこれ、前によく作ってくれたやつだよね?」

 茶髪の瞬きが止まった。こいつ、そこまでわかってたのか。

 驚きを隠せない茶髪にお構いなしで、寝癖は喋り続ける。

「この目玉焼きもさ、フライパンに油多めに敷いてほぼ揚げる!って感じで両面焼いたやつだろ?俺が一番好きなやつ」

「うっ……わかんのかよ」

「パンもトースターで焼くんじゃなくて、目玉焼きの残った油で焼いたやつな。表面カリカリになって、ちょー美味い。あとハムもそう。レタスは冷たいのじゃなくて、ちょっとぬるいやつだよな。シャキシャキが死なないくらいの」

 茶髪はため息をついた。完敗だ。俺はこいつをみくびっていたらしい。

「そうだよ。お前、こんなのよく覚えてたな。作ってたのけっこう前だぞ」

「覚えてるよ。俺、このサンドイッチすんげえ好きだし」

「それはどーも」

「目玉焼きはこれじゃないと物足りなく感じるようになっちゃった。白身の縁はカリッカリで、でも黄身はとろとろの半熟。冷たいレタスが挟まってるサンドイッチだと食べた時ちょっとびっくりするし、ベーコンはこのくらい厚くて焼いてあるのがいい。パンもトースターで焼くのとフライパンで焼くのじゃ全然違うし、味付けはバターと塩で十分」

 淡々と自分が作るサンドイッチへの愛を語られて、茶髪は眉をひそめながら笑った。精一杯の照れ隠しだった。

「そうなのか」

「そうだよ。知らなかっただろ」

 どことなく神妙な顔で、寝癖は残りのサンドイッチを綺麗に平らげた。

「今日も美味かった。ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

 パン屑ひとつない皿を片付けようと茶髪はテーブルに身を乗り出した。

 気持ちいいくらいの食べっぷりだ。まるで自分そのものを認めてもらえたかのような充実感に、茶髪は思わず頬を緩めた。

「あのさ」

 寝癖が言った。茶髪が手を伸ばした白い皿にじっと目を落として固まっている。

「なんだよ?」

 茶髪は手を引っ込めた。逆再生のようにイスにすとんと腰を下ろし、怪訝そうに寝癖を見つめる。

「ほんとに家出んの」

 時の流れる音がいくつかした後、寝癖が重そうに口を開いた。ぴょんと頭の後ろで跳ねた髪が揺れた。新しいオリーブオイルを買っておこう、と茶髪は思った。

「なんだよ今さら」

「いやなんか、実感湧かないっていうか」

「今まで毎日のように顔合わせてたからな」

「うん」

「出るよ、家。一人で暮らす」

「うん」

「心配しなくても、ちゃんとやってけるから。お前と違って」

「うん」

「なんだよ?」

 さっきまでの笑顔は何処へやら、茶髪に反論する気力もない様子の寝癖は俯いたまま相槌を打っている。茶髪も、目の前で静止するつむじの回転を目でなぞって沈黙に従った。

「……いいじゃん」

「あ?」

「出ていかなくてもいいじゃん」

 寝癖が突然、語尾を荒げた。予想外の言葉に茶髪は一瞬たじろいだ。

「何言ってんだよ」

「なんで出てくんだよ。こっから通えばいいじゃんか」

「もう家も決めたんだぞ。今さらそんなこと言うな」

「わかってる、わかってるけど」

「じゃあいいだろ」

「兄ちゃん」

 寝癖が顔を上げた。茶髪を縋るように見つめるその目はうっすら涙の膜が張っていた。茶髪は何も言えなかった。

 二人は腹違いの兄弟なのである。

 第一子の出産後すぐに夫を亡くした母が再婚したのは、兄が三歳の時だった。朧げな記憶の中で、遠くから見る新しい父の横顔は優しく微笑んでいた。弟が生まれたのは、それから一年経った頃だ。

「……俺のせい?」

 絞り出した声は掠れていた。それでも、二人きりの部屋に響くには十分だった。

「違うよ」

「嘘だ。俺がいるから、俺がいると窮屈だから出て行くんだろ」

「違う」

「ほんとのこと言って」

「違う」

「嘘つくな」

「嘘じゃない」

「ほんとに?」

「本当に」

 弟の目から、一粒の雫が落ちた。

 しょっぱいだろうな、と兄は思った。

「兄ちゃん」

「なに」

「兄ちゃんは俺のせいでこの家に居づらいんじゃないかって思ってた。俺がいるから、兄ちゃんは自分のこと仲間はずれみたいに思ってるんじゃないかって、いつも怖かった。俺がいなきゃ良かったのかなって、ずっと考えてた」

 弟の告白した本心を、兄はずっと前から知っていた。

 幼い頃から、弟は常に兄の心情を気にかけていた。兄だけ父と血の繋がらない家族、という単純ではない家庭環境が、弟に過大な責任感を追わせていたのだろう。自分が家族を繋がなくてはと必死になった弟は、場を和ませるための明るさと気配りを身につけた。

 何をするにも兄の後ろをついて回り離れない弟という関係は傍目から見れば可愛らしい兄弟の姿ではあったが、それは子どもながらに構築された気遣いや献身の現れだったのだ。自分のせいで兄が一人になってはいけないという、必要以上に健気な優しさを弟は持たざるを得なかった。

「兄ちゃん、俺のことどう思ってんだろって、気になるけどわかんなくて……。でも俺は兄ちゃんといるの楽しいし、一緒にいるとおもしろいし」

 思考がまとまらず弟の体は語尾とともに萎んでいく。兄はゆっくり口を開いた。

「あのさ」

「うん?」

 顔を上げた弟のまっすぐな目に見つめ返されて、兄は言葉を詰まらせた。自分の思いを素直に伝えるのは苦手なのだ。

「あー、なんていうか、俺、別にこの家が嫌で出て行くわけじゃないぞ。これは、本当に」

「……うん」

「もちろんお前が嫌で出て行くわけでもない。これも、本当」

「うん」

「俺は、俺のやりたいことをしに行くんだ。それが、料理だ」

 兄はこの春、調理専門学校を卒業し、イタリアンのレストランに料理人として就職することが決まっている。それを機に、家を出て生活する決断をしたのだ。

「あ、あのな。俺、料理の仕事やりたいって思ったの、お前がきっかけみたいなところあるから」

「え?」

 今度は兄の告白に、弟が驚いて目を丸くした。料理に熱心なことは十分知っていたが、その熱意の火種に自分がいるとは思いもしなかった。

「そうなの?え、そうなの?」

「うるさい。あー言うつもりなかったのに」

 しょぼくれていた弟の声量が上がり、兄は眉間に皺を寄せて仏頂面を作ってみせる。しかしそれがただの照れ隠しだとわかっているから、弟は余計に声を上ずらせるのだった。

「ねぇどういうこと?なんで俺なの?」

「だからうるさいって。どうせお前は覚えてないだろうけどな」

「覚えてるから!何?ねぇ何?」

 身を乗り出して先を急かす弟に押されながら、兄は遠い日の出来事に思いをはせた。

 まだ二人が小学生だった頃。

「兄ちゃんのサンドイッチめっちゃうまい!」

 初めて母に教わりながら作った料理のままごとを、満面の笑みで口に詰め込む弟の姿が兄の胸にはある。

 人見知りで学校のクラスによく馴染めなかった頃。家庭の事情をうわさされている気がして教室がとても窮屈だった頃。浮かない顔の兄の気分転換になればと、母はキッチンへ兄を誘った。「一緒に作る?」

 トースターで焼いたパンに市販のハムとチーズを乗せただけの、簡単なサンドイッチだったが、弟は喜んで平らげた。

「うまかったぁ。兄ちゃんすげーなぁ」

 明るく人懐こい性格の弟は友達も多く、学校帰りはランドセルを置いてまたすぐ家を出るのが日課だった。そんな弟が羨ましかった。だけど、弟は俺を「すごい」と言った。

 体の奥の奥の方で震えがした。嬉しいという感情を体で感じたのはこの時が初めてだった。

 それから、兄は母にくっついてキッチンに入り浸った。大きくなって一人で火を扱う許可が母から降りると、色々な料理にチャレンジした。夕飯の支度を任されることや、自分で弁当を作ることも増えた。兄は家族の食事に役割を担うようになった。

「俺が料理するようになってお前は美味そうに食うし、母さんは喜ぶし父さんは感心するし、良い事だらけだったんだよ」

 けどやっぱり、サンドイッチを作るのは特別だった。

 よほど気に入ったのか事あるごとにサンドイッチをねだる弟のリクエストに応えるうち、今の形が出来上がった。

 弟が中学に上がり、兄が高校生活に忙しくなると徐々にその頻度は減ったが、このサンドイッチは兄にとって思い出深い一品となった。

 自分の技術が少しずつ進歩していく手応えや、努力が形になる面白さが、料理にはあった。いつしか、この道に邁進したいと思うようになっていた。

「高校卒業したらどうするかって本格的に考えた時さ、やっぱりちょっと迷ったんだよ。料理の道で手に職つけるって、すごいことだけど簡単じゃないだろ?周りはみんな進学する奴ばっかりだったし」

 自問自答を繰り返す中で、浮かんできたのはあの時の弟の笑顔だった。初めて料理をした時の、嬉しさと達成感が手の中に蘇った。

 料理を仕事にする、と決めた。

「俺が家族にできることを見つけたのも、一生をともにする仕事を決めたのも、夢中になれることに出会えたのも、お前がいたからなんだよ」

 二人の間で白い皿が伸ばす濃い影が、夜がだんだんと近づいていることを告げている。

 弟は静かに兄の話を聞いていた。両目に溢れる涙に遮られながら、真っ直ぐ兄を見つめている。

 兄は今初めて明かす過去を、口下手ながらに一生懸命喋った。自分の言葉を弟が求めているとわかっているから、照れ臭くても隠さずに伝えようと思った。

「だからな、俺はお前がいなければ良かったなんて思ったことはないよ。これからもない。俺に未来をくれたんだ。お前がいて良かったに決まってる」

 兄は深く息を吸った。弟の瞳が飴細工のように光っていた。

「ありがとな」

 この瞬間を、兄は決して忘れないだろうと思った。柔らかな光を宿す双眸が柔らかに決壊していく美しさを。

 きっと、俺は料理をやめられない。こんなにも美しいものがふいに訪れるなら、その刹那のために数多の痛みを乗り越えてしまう。

 弟は声を漏らして泣いた。それにつられて一粒だけ兄の目から雫が零れた。それを知るのは、二人の間に鎮座する白い皿だけである。

 絶望にも近い希望を抱いて、兄は深く息を吐いた。

「あーあ。本当は黙ってサンドイッチ作って、やっぱ俺の作るもんはうめえって思わせて終わりだったのになぁ」

「……兄ちゃんそんなこと考えてたの」

「お前があのレシピ覚えてると思わないだろ?だからお前好みの味をちょっと進化させて、俺のすごさわからせてやるつもりだったんだよ」

「それでオリーブオイル使ったんだ」

「そうだよ。計画台無しだ」

「兄ちゃんは昔からずっとすごいよ」

「……それはどーも」

「また作ってよ」

「作り方わかるなら自分で作れ。自分で作るときっと一段と美味いから」

「うん」

 まだ鼻を赤くする弟の頭を乱暴に撫でて、兄は席を立つ。

「ほら、片付けるぞ」

「うん」

「夕飯お前も手伝え。さっきなんでもするって言ったろ」

「げっ。覚えてたんだ」

「当たり前。ほら、何作る」

「サンドイッチ」

「今食っただろうが」

 二人がキッチンに並ぶ。窓の外では月が静謐な光をたたえていた。その周りには、いくつもの星が寄り添うように散りばめられている。食器の音に混じって、二人の笑い声が響き渡る。

 兄は明日、この家を出て行く。

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さよならの言い方 瀬尾 三葉 @seosanpa

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