息づく初恋

るな

第1話

「先生」


 そう言って私は両手を突き出すように先生へ向かって差し出す。先生はしょうがないなぁという様に苦笑して、するりと私の腕の中へ潜り込んでくれた。

 先生が使っている整髪料の香りが、私の鼻先を掠めて、私は息を大きく吸い込んだ。先生が腕の中にいる間に、先生の匂いで肺をいっぱいに満たしたかった。

 資料準備室はいつものように埃臭くて、カーテンの隙間から漏れる光が反射して埃がちらちら光って見えた。

 私たちはいつも、人が来ないこの教室で、秘密の逢瀬を重ねていた。


 始まりは、私から声をかけたことだったと思う。高校三年生だった私は、社会を担当している先生の授業で分からないところがあって、放課後よく先生に質問をしに行っていた。その頃は、恋愛感情なんてものはまだなかったと思う。

 先生はよくこの資料準備室で、世界地図を広げていたり、よく分からない昔の文献を読んだりしていた。こんな部屋で、変わった先生だな、なんて思っていたことをよく覚えている。

 だんだんと、資料準備室で会う回数が増えていき、私は質問するだけではなく、資料準備室で他教科の課題などもするようになっていった。


 ある日、資料準備室を訪れた時、先生はまだ来ていなかった。

 私はいつものように部屋の隅っこに置かれた机の上にその日の課題を出し、一人で勉強を始めていた。今日は職員会議がある日だから、先生が遅くなるのは分かっていた。先生がいなくても、この埃っぽさと、わずかだが先生の匂いが残ったこの部屋は、私にとってとても居心地がいい部屋だった。


「ねぇ、起きて」

 いつの間にか、私は眠っていたらしい。

 先生に肩を揺すられて、私は机に突っ伏していた体を起こした。眠い目を擦っていると、先生がおかしそうに笑う。

「寝癖ついてる」

 そう言って先生は、私の方へ指を伸ばしてきて、私の顔の横の寝癖がついた髪をなおしてくれた。

 その時、先生の指が私の頬を掠めて、その指がひどく熱かったのを覚えている。

「先生」

 そう言って私が先生をみつめると、先生は困ったように苦笑した後、私の唇に触れるだけのキスをしてくれた。

 それが、始まり。


 それから、いったい何回唇を重ねただろう。

 今まで通り、資料準備室で勉強だけする日もあれば、勉強をしないでずっと先生と唇を合わせるだけのキスをしたり、だっこをしてもらうだけの日もあった。

 先生は優しいキスと私を抱きしめるだけで、それ以上のことはしてこなかった。

 私だって思春期の女で、好きになった異性同士がこの後どうなるのか、何をするのかは知っているつもりだった。

 私はいつその時が来てもいいように、一生懸命色のついたリップクリームを塗ったり、体中の毛を剃ったりした。

 それでも、先生はいつも困ったように笑って、私をぎゅっと抱きしめて、優しいキスをするだけだった。


 その日はバレンタインデーで、私は先生に手作りのチョコレートを手渡した。それは前日の夜、母親に散々注文をつけながら一緒に作ってもらったものだった。

 先生はありがとう、と朗らかに笑って受け取ってくれた。

 そうして先生からも、私はチョコレートをもらった。ホワイトデーにしては早すぎないですか、と私が笑うと、先生は何か言おうとして、でもその言葉を飲み込んで、そうだねとだけ言って笑った。

 先生が笑った時の、目尻に入る笑い皺が、私はとても好きだった。

 それから、私たちはお互いのチョコレートを食べさせあった。

 私が作ったチョコレートは、とても美味しいとは言えなかっただろうに、先生はとても美味しいよ、と言って笑ってくれた。

 先生がくれたチョコレートは、高校生の私でも聞いたことがある、有名パティシエのブランドのものだった。それは苦いチョコレートを噛み砕くと、とろりと甘く柔らかなチョコレートがとろけ出して、とても美味しかった。

 チョコレートを食べ終わった後、先生はぎゅっと私を抱きしめてくれた。私が先生の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいると、ふいに先生の大きな手が、私の下腹を触った。

 驚いた私が動けないでいると、先生は制服のシャツをめくって、私のお腹を直に触ってきた。

 その手がひどく熱くて、私はどうしていいか分からなかった。

 やっと先生との関係が次へ進める、抱きしめてもらう以上のことができる。私はそう思っていたけれど、先生は私のお腹の肌を撫でるばかりで、その手がそれ以上、上へ進むことも下へ進むこともなかった。

「先生……?」

 少し落ち着いた私が先生におそるおそる尋ねると、先生は私の首元に顔をうずめたまま、笑った。

「ここに、さっき食べたチョコレートが入ってるんだなぁと思って」

 先生はそう言って、また私のお腹を撫でた。

 じれったいその手つきに、私の心臓はどくどくと早鐘のように脈をうっていた。この音が先生にも聞こえてしまっているんじゃないだろうかと私が心配した、次の瞬間だった。

「もう卒業かぁ、会えなくなるの、寂しいなぁ」

 その言葉は、浮かれていた私に頭から冷水をかけるように、私の中へと染み入っていった。

 私は、卒業してからも先生に会えると思っていた。卒業したら正式にお付き合いして、結婚して、なんて今思えば夢のようなことを、馬鹿みたいに本気で考えていた。

 けれど先生は、その場限りの関係だと思っていた。卒業してから会う気はないと、面と向かって言われたようなものだった。

 思えば、さっきくれたチョコレートだって、私がホワイトデーにはもう学校にいないからだ。それを先生は言おうとして、さっきは言い淀んだのだ。

 さっきまであんなに熱かった自分の身体が、急激に熱を失って冷めていくのを感じた。

 それでも、私のお腹を撫でる先生の手だけは、大きくて柔らかくて、いつまでも熱く感じていた。


 それから、私は卒業までの短い間、資料準備室へ行くのをやめた。

 会わなくなっても先生の態度は変わらず、また私も変わらなかった。

 不思議と涙は出なかった。

 そうして私は卒業の日を迎えた。

 卒業式の後、先生と廊下ですれ違った時に卒業おめでとう、と言われたけれど、私はありがとうございます、と小さくお辞儀をしただけで、それ以上の言葉は出てこなかった。



 大人になった今思えば、あの時先生に詰め寄ればよかったのに、と思った。

 先生に詰め寄って、泣き喚いて、この恋を手放したくないと騒いでもよかったのだ。

 それでもきっと、先生との関係が続くことはなかっただろうけれど、それでも、こんなに初恋が心に残って鎖のように引きずることはなかっただろうと思うと、昔のいい子ちゃんだった私を殴りたくなってしまう。


 あれから私は大人になり、何人かの男と寝た。何人か、というのは少し過小評価かもしれない。片手の指ではおさまりきらない人数だ、と同僚に言ったら結構やるねぇと揶揄われたから。

 男の人と身体を重ねる時に、私はよく胸でも陰部でもなく、お腹を撫でてもらうのが好きだった。

 セックスの最中でも事後でもいい、一息ついた時にお腹を撫でられると、身体中が疼いて、特に下腹部の奥の方がじんと熱くなった。

「お腹撫でられるの好きなの?」

「うん、好き」

「なんで? 別に気持ちよくないでしょ?」

 恋人に声をかけられて、私は困ったように苦笑する。

 気持ちいいかと言われると、そうでもない。

 けれど、お腹を撫でられると、バレンタインデーのあの日、先生にお腹を撫でられたことを思い出すのだ。

「気持ちいいんだよ、泣きたくなるくらい」

 私がそう答えると、恋人はえっと驚いた顔をしていた。



 私のお腹には、あの日の初恋がまだ熱を帯びて息づいている。

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息づく初恋 るな @Runa21

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