一瞬の愛は無限の感情を呼び起こす。

かずみやゆうき

第1話 一瞬の愛は無限の感情を呼び起こす。

「あのね、私、もう二度としなくてもいいんだけど」


 ある夜、妻に言われた時は、正直ショックだった。

 五十歳を過ぎたとはいえ、まだまだ現役なんだと俺は思っていた。結婚して約三十年。共に過ごしてきた中で、他の夫婦と同じように、ケンカもしたし、離婚の危機もあった。でも、その都度、ダブルベットに一緒に寝ることで、それらを乗り越えてきたのではないか……。少なくとも俺はそう思っていた。

 

 だが、妻は違っていたようだ。


 俺と夜の営みをすることは、『苦痛だった。今だから言うけど……』と言いにくそうに、それでもしっかりと俺の目を見て、妻は言葉を発した。

 その瞬間、妻は俺にとって、から、ただのとなってしまったのだ。


 それから三年、妻とはこれまで通り一緒に生活をしている。

 たまにケンカもするが、共にテーブルで食事をし、洗濯や掃除も妻はこれまで通り手を抜かずやってくれている。ただ、一つだけ変わったことがあるとすれば、あの日から、俺たちは、キスをすることは勿論、手で肩を触ったりなどのボディータッチさえ一切していない。

 ただ、そういうことをしなくても、俺たちは普通に生活が出来る術を持っていた。あくまで共同生活をする為のパートナー。そういう関係なのだと思うようにしていた。

 

 正直、最初は、妻の浮気も疑ったが、時間が経つにつれそういうことは微塵も思わなくなった。妻は、永らくフルタイムで働いているが、毎日時間通りに帰宅するし、休日は、俺と買い物に行くなどしか出かけない。

 これと言って趣味がないというのが口癖だった妻は、愛猫と戯れ、ソファーに寝ながら読書をするのが、もっとも心地良い時間だといつも言った。



 しかし、俺はまだ五十歳代。

 性欲は人並みにある。だから、そういうときは、妻が風呂に入っている時に自分で済ませるなど、まるで中学生のようなことをして対処してきた。だが、中学の時に初めて一人でやった後に感じた罪悪感と違い、この年になって一人でやった後に襲ってくるのは、何とも言えない無限の寂しさだった。しかも、それは日に日に大きくなっていくのだ。

 

 俺は、仕事に集中することで、その寂しさを埋めようとした。

 地方に点在する営業所を統括する部長という職にいる俺は、休日も関係無く、積極的に仕事の予定を入れていったのだ。



 二月の札幌訪問は久しぶりだった。

 今年の札幌は大雪が続いていた。だいたい札幌には、雪はそんなには積もらないのだが、今年は歩道に約二メートルに達するであろう除雪された雪が壁のようにそびえ立っていた。

 俺は、その雪に足を何度も取られながら漸く着いたホテルに入るとフロントでチェックイン手続きをする。


「本日より、二泊ですね。シングルの部屋をご予約いただきましたが、ダブルのお部屋へアップグレードさせていただきました。どうぞごゆっくりおくつろぎ下さい」


 俺は、受付をしてくれた可愛らしい女性に礼をいうと、エレベーターに乗り込み十五階のボタンを押す。羽田からの移動に少し疲れた俺は、十五階の部屋のドアを開けると大きなベットの上にバタンと寝転ぶとそのまま眠ってしまった。


「ピンポーン」


 突然鳴った部屋のチャイムに驚き目が覚める。

 誰だろうと思いドアを明けると、見知らぬ若い女性が立っていた。


「はい?」と俺の頭の上には、大きなクエスチョンマークがでている。しかし、その女性は、「カナエです。写真指名をしていただいてありがとうございました」と言いながら、部屋に入ってくる。


 俺は、正直パニックになっていた。新手の美人局?もしくはドッキリ?など、冷静に考えればあり得ないことを考えている。

 すると、女性は「では、今日は八十分なので二万円いただきます」と言った。


 そこで、俺は、漸く現状を理解した。

 このホテルの誰かがこの子を部屋に呼んだのだろう。そう、多分、この子はデリヘルと言われる店の子だ。しかし、こんなに若くてスレてもない本当にな女の子がこういう仕事をしているのかとついつい全身を見てしまう。すると、細身とは似つかぬ胸の膨らみに目が行き、はっと目をそらす。そんな俺を見てその子はクスッと笑った。


「ごめん。多分、部屋を間違ってるよ。少なくとも俺は依頼してないから」

「えっ?本当ですか?ちょ、、ちょっと待って下さい。あっ、、えーっ。階を間違ってました。す、、すみません!!失礼します」


 そう言うと、彼女はすぐにドアを明けて外に出ようとする。

 俺は咄嗟にその彼女に声を掛けた。


「俺も君を呼びたいんだけど、どうすればいい?」


 何故、そんな言葉が出たのか、正直自分でも訳がわからない。だが、確かに俺はこの『カナエ』という女性と話をしてみたかったのだ。


「えっと、ごめんなさい。今日はもうこれであがっちゃうんです。で、明日は夜の九時から出勤します。今の所全く予約入っていませんから……。えっと、店の電話番号はこれです。では、お待ちしています。おやすみなさい〜!」


 そういうと彼女は、営業スマイルなのかとても眩しい笑顔を俺に向けて部屋から出て行った。

 

 残された俺は、自分でもクスッと笑う。この年になるまで、風俗で遊んだことは正直一度も無かった。だが、今、自分が置かれている立場を考えると、一人より二人でスッキリとした方が良いのではないかと考えたのだ。

 そう、あの無限の寂しさを埋めることが出来るのかもしれない……。



 次の日は、何故か心が軽く、一日仕事に集中することが出来た。現地のスタッフからも、「今日の部長はいつもよりキレキレッですね」などとお世辞を言われたが、確かに、これまでより楽しく仕事が出来ていたような気がした。

 そう、今日の夜九時、俺の泊まる部屋へカナエという女の子が訪ねて来てくれると思うだけで心が躍るのだ。

『まだ、話もしたこともないのに……』とても不思議な感じだった。


 早めに仕事が終わったので、現地スタッフと食事をしていると午後八時を過ぎていた。俺は、伝票を持って立ち上がると、「ここは俺がご馳走するから、二次会はお前らで楽しんでこいよ」と一万円を置いてレジに向かう。

 居酒屋を出た俺は、何故か急ぎ足になる。雪道は夜の冷えこみでアイスバーンとなっており、昼間の何十倍も歩きにくい。転けそうなるのを必死で堪え、そして急ぐ気持ちを抑えつつ、少しずつホテルへ向かった。


 部屋へ入ったのは、午後九時まであと五分少々の時間だった。

 俺は、部屋の中をそわそわと歩きながら自分を落ち着かせようとするが、それに反して鼓動はますますスピードを上げていく。


 その時、昨夜と同じように「ピンポーン」とチャイムが鳴った。

 俺は、ドアを開けると昨夜見た清楚な雰囲気を持つ普通の女の子が立っていた。


「カナエです。昨日はごめんなさい。そして、今日は出勤時間から予約してもらってありがとうございました。あの、いいんですか?三時間も?料金もすごく高いけど……」

「あ、、いいんだよ。俺、君のことがとても気に入ったんでね。だから、ちょっと長めに取ってみたんだ。というか、こういうの初めてだから、何分で頼めばいいのか分からなかったというのもあるけど……」

「そうなんですか?えー。初めてなの?じゃあ、私がお客様のファーストデリヘルなんだね。なんか、嬉しい〜〜」

 そういうとカナエは俺の腕にしがみつき、俺の顔を見上げると目を閉じた。俺は、どきどきしながらもゆっくりと小さな顔に近づき、そして口づけを交わす。


「じゃあ、シャワーしましょう〜!」


 そういうとカナエは、恥ずかしげも無く服を脱いでいく。

 俺は、ただただ、ぽかーんとその姿を眺めていただけだった。



「ほら、洗えてないところない?大丈夫?」

「う、、うん。大丈夫」

「はい。じゃあ、先に上がっていて」

「う、、うん」


 きっと二十代前半であろう娘のような女の子に完全に主導権を握られていた。まるで幼稚園児が母親と風呂に入っているような感じだ。

 人から身体を洗ってもらうなどいつ以来だろう。そんなことを考えながら風呂場を後にする。


 ベットに腰掛けて、冷えたミネラルウォーターを飲んでいるとカナエが俺の横にぴったりと座ってきた。


「部屋のライトは明るい派?それとも暗い派?」

「いや、、、普通は暗くするのでは?」

「まあ、、そうだけどね。ふふっ。じゃあ暗くしようか」


 そう言いながら、三つのつまみを器用に動かすと部屋のライトは、カナエの顔が薄らと分かるくらいまで落とされた。


「さあ、楽しみましょう……」


 そう言って、カナエは俺の首に両手を巻き付けて最初はゆっくりと、そして徐々に激しい口づけをしてきた。

 俺は、久しぶりの熱い口づけに頭がぼーっとなる。俺の右手はカナエの身体をゆっくりと彷徨っている。

 もうどうにでもなれ……と思った俺はカナエをベッドに押し倒した。





「ほんとにいいの?これで?」

「いいんだよ。だって、しょうがないじゃんか」

「まあ、いいけどね。私、お客様のような人好きだな。うん。凄く好きかも」

「本当か?まあ、俺もそう思いたいから、素直に聞いておくよ」

「えー、信じてくれないの!?やっぱり、もう一回チャレンジだね!」


 そういいながら、俺の股間に手を伸ばすカナエ。だが、その手を掴むと、俺はただ裸のカナエをぎゅっと抱きしめた。


 結論から言えば、俺はやれなかった。

 そう、頭と身体は、やはり不思議な線で繋がってるんだなと我ながら思った。

 でも、それでも俺はとても充実していた。こうして、一人の女性を抱きしめるだけで、その温もりが俺の乾いた心に芳醇な潤いを浸していくようだった……。


 俺はきっと寂しかったんだと思った。

 その寂しさをカナエという女の子が見事に埋めてくれたんだ。


 デリヘルのお店は全国に何千、何万とあるのだろう。そこで働く女の子はそれこそ数万、いや数十万人いるかもしれない。昨日まで、風俗で働く女性は、そんなに金に困ってるのだろうか?などと上から目線で考えていた。

 だが、その女性に埋めてもらった俺の心の傷は、しばらくはその形を保つのかもしれない。だったら、彼女達と比べて、俺の方が何倍も下にいるじゃねーか。



「じゃあ、また札幌に来たら呼んでね。ありがとう!」

「うん。俺の方こそありがとう。最高だったよ」


 そうして、カナエは部屋を出て行く。

 ドアが閉まる前に、「またね」と小声で呟くとエレベーターホールへと消えて行った。


 今日は二月十四日。

 ベットにはカナエから貰った小さなチョコが無造作に置いてある。

 さっきまで、確かに俺はカナエの愛に包まれていた。それが偽りであったとしても……。


 そう思った瞬間、折角補修されていた俺の心が、音を立てて崩れていくような気がした。


 寂しい……。


 一筋の涙が、俺の頬を流れ落ちた……。







終わり











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一瞬の愛は無限の感情を呼び起こす。 かずみやゆうき @kachiyu5555

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