羊の水炊き中華風

玉椿 沢

羊の水炊き中華風

 人が消化しにくいものに「時間」があるのだという。


 現場仕事が多い者にとって、手待ち時間というのが、それらしい。


「夜食でも作ろうか」


 そんな提案をする老爺ろうや杉本すぎもと時男ときおも得意とはいい難いのだが、何の提案もなく座りっぱなしというよりは幾分、マシというものだ。


「何か作れますカ?」


 同僚の矢野やの彩子あやこが椅子に座ったまま、立ち上がった時男の顔を見上げた。待機所にはキッチンスペースと小さな冷蔵庫があるが、一般家庭の残り物以下のものしかない。


「鍋がよかろう。何でも使える」


 残り物の処理といえば聞こえが悪いが、鍋料理は誰もが遠慮せずに食べられるし、野菜も肉もバランス良く作る事ができる。


「いいですね、いいですね」


 彩子と時男が教育係になっている新人スタッフの山脇やまわき孝代たかよも、そういいながらパンパンと手を叩いていた。


「どれ……」


 冷蔵庫を開ける時男。冷蔵庫は共用であるから、特に名前でも書かれていない限り、食べれる食材は自由に使ってルールがあった。


「おお、肉があるぞ」


 とはいえ、牛肉や豚肉のいい肉ではなく羊だったが。


「ラム肉ですカ?」


 悪くはないが、悪くないだけの肉だと、彩子は眉間に皺を寄せていた。


「そういうの気にするタイプだったんですか?」


 孝代は目を丸くし、


「食材の良し悪しより、誰が何を作るかとか何を作るかって方を大事だと思うタイプだとばかり……」


 それは誉めているのかいないのか判断が難しいところであるから、彩子は鼻を鳴らして黙るしかない。


「羊もうまいよ。筋や膜を丁寧にとって、細切りにしてやれば柔らかくできる。おお、意外と色々と残っておるよ」


 端物であるが、白菜、ネギ、香菜シャンサイを見つけた時男は、ホクホクという表現そのままの表情を浮かべる。


「あ、冷凍庫に、ちょっと前にお昼に使おうかと思っていたスープ餃子も残ってると思いますよ」


 孝代がそういうと、時男は顔だけを彩子と孝代へ振り向かせる。


「なかなか、いいのができるぞ」


 鍋に入れるのはスープの素。


 羊の肉は煮るとクセが出てしまうのだが、それを抑えるのが野菜の役目だ。


「香菜がいいんじゃよ」


 じっくり煮込んでいくと、野菜の香りが羊のクセを消してくれる。


「名付けて、羊の水炊き中華風……かの。さて、煮ながら食べるとしよう」


 カセットコンロをテーブルに置いた時男が配る取り皿には、しょうゆ油だれやごまだれはない。


「調味料は色々とあるからの、思い思いに作ってみるといい」


 キッチンスペースから持ってくるのは、しょう油、ラー油、味噌に、変わったところではエビ油やラオ油といった中華の調味料もある。このスープの素も、中華スープの素だった。


「じゃあ、私はラー油としょう油で辛めにしますね」


 取り皿に自分でタレをほ調合した孝代は、湯気の上がる鍋に箸をつける。


「まずはお肉……と見せかけて、白菜!」


 いい感じに煮えている肉があるのだが、それを避けて白菜を取った。


「ほう」


 時男が浮かべる微笑には、若干の挑発的な光がある。


「このお鍋、実は野菜が美味しい鍋でしょう?」


 それを見抜いた孝代は、煮えている鍋に亜子をしゃくった。


「煮立った鍋に細切りにしたお肉を入れると、それだけでお肉の旨味をスープの中に捨ててしまうことになる。そして煮てしまうと、お肉はどうしても硬くなるから、脇役になる」


「あぁ、肉の旨味が染み出たスープは、野菜が吸収してしまうという訳だネ」


 孝代の見立てに、彩子も頷く。


「それに、白菜は有名な詩があったネェ……」


 白菜を取りながら、彩子が諳んじるのは――、


「白菘類羊為、冒土出熊掌」


「何ですか? それ」


 中国語だというのは分かったが、それ以上の事はわからない孝代は首を傾げる。


「白菜は子羊の肉にも似て、土から生じた熊の掌だという意味だヨ。宋時代の詩人が残した詩の一節だネ」


 彩子はフンと得意気に鼻を鳴らすと、孝代へ「勉強したまえ、大学生」と若干の皮肉を交えた視線を送っていた。


「書、画に優れ、音楽にも通じていたそ・東坡とうばという中国の偉人の詩じゃな。雨後の菜園を行くと和訳されておる」


 これは大学など出ていない時男でも知っている有名な詩だった。


「いやぁ、私は理系なので……」


 孝代の顔は、笑って誤魔化しているとしかいえないものだったが。


「しかし、トンポーローといえば、知ってるダロ?」


 だからこそ彩子が追撃したのかも知れない。


「ああ、中華料理の、豚肉の煮込み料理。知ってますよ。作るのは……時間がかかるから作った事ないですけど」


「そのトンポーローを考案したのは、蘇東坡だといわれているんだヨ」


「へー」


 唸る孝代に対し、


「どーでもいい事が気になるのが山脇サンじゃなかったのカイ?」


 ククっと喉を鳴らす彩子は、野菜と肉を交互に食べつつ、


「ま、蘇東坡という人は、大変な才人だったという事サ」


「美味しいものを作れるなら、それだけで十分ですよ。ご飯は力になります」


 孝代の言葉は逃げの一手にすぎないのだが、うまく纏められたと時男は笑う。


「たとえ龍の肉であっても、嫌々食べれば狗の肉にも劣る。しかし旨ければ何でもよかろうな」


 三人が笑い合ったところで、メッセンジャーソフトの鳴動が手待ちの終了を告げた。


「よし、行くか」


 立ち上がる時男。


「鍋は、そのままにして戻ってきた時の楽しみとしよう。冷める時に味がもっと良く染みこむから、白菜やネギがより旨くなっておるよ。〆にうどんでも入れようか」


 時男と孝代は立ち上がり、彩子は支援のためブースに入る。


 腹拵えで、仕事も万全の体勢だ。

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