ミッション:お笑い/コメディ【KAC20224お笑い/コメディ】

雪うさこ

ミッション:お笑い/コメディ




「ねえねえ。聞いた? 二階の北側のトイレ。そこで稀にトイレットペーパーに文字が書かれている部分に出くわすことがあるんだって。もし、そのトイレットペーパーのミッションをクリアすることができたなら、報奨インセンティブは計り知れないけれど。万が一にもクリアできなかった場合は、地獄の底に堕とされる――って都市伝説があるんだって~」


「うっそ~。そんなの、誰か引いたことあるわけ?」


「さあねえ。そのミッションって他言無用らしいよ。誰かに洩らしたら、それもまた地獄行きだってさ」


「またまた~」


 部下の女子社員たちが、お弁当を食べながらそんな話をしている。おれは、聞き耳を立てているわけだが……。


「え、うっそ~。本当? マジ? マジ?」なんて聞けるわけもなく。ただ黙々と無表情で弁当を頬張った。


 今年四十八歳。地方から出てきて、早三十年。彼女なし。妻なし。子なし。友達なしの孤独の代表みたいな生活をしているおれ。いや、別に、誰かと群れたいわけではない。


 どうせ仕事は忙しい。医療機器メーカーは、年がら年中忙しいのだ。朝は九時に出勤。帰宅は深夜を回ることも多い。そんな生活だ。別に他人と交わる時間もないし、必要もなかった。


 今日は腹の調子が悪い。朝、賞味期限切れになっていた牛乳を飲んだのがまずかったのだろうか。乳製品はまずい。周囲が昼食中に、先にトイレにでも行っておいたほうがいいだろう。そう判断をして、弁当も途中に席を立った。


 ——二階のトイレに……トイレットペーパーに……。


 彼女たちの会話が耳から離れない。おれはいざなわれるように二階北の男子トイレに足を踏み入れた。奥の個室トイレに入り、便座に座る。用を足す前に、やっぱり気になるのは、トイレットペーパーだ。鼠色の再生紙でできているその紙を引っ張ってみる。


 ——なんだ。なにもないじゃないか……。


 なにも書かれていないと思った紙に、もやもやと黒い文字が浮かび上がってきた。


 ——な、なんだ……と!?


『お笑い コメディをぶちかませ!』


「な、なんだって!?」


 眼鏡をはずし、目を擦ってから、再び文字に視線を落とすと、それはまるで嘘のように消えて行った。


「見間違いなのか? いや。確かにここに書かれていた。お笑いだと? コメディってなんだ。おれが、そんなことできるわけないじゃないか。無視だ。無視。無視に限る——」


 しかし、彼女らの言葉が再生された。


「クリアできなかった場合は、地獄に堕とされる。うう。なんなんだよ。これは!」


 トイレで用を足すことなんて、もうすっかり頭にない。胃がキリキリと痛む。職場では真面目堅物キャラで通っているのだ。女子社員たちは、業務関係以外で声をかけてくる者はいない。男子社員だってそうだ。


「課長ってとっつきにくいですよね」


 裏でそんなことを囁かれているのは知っている。そんなおれが、まさかのお笑いだと!?


 お笑いってなんだ。漫才なんてできないぞ。コメディってなんだ。ボケみたいなことを言えというのか? ダメだそんな。だって、突っ込み役がいないじゃないか! 


 ——ここは、あれしかない。あれしかないんだ……。


 お腹を押さえながら自分の席に戻ると、事務所の雰囲気が違っていた。


「あ! 課長。探したんですよ」


 部下の一人、森村が血相を変えて駆け寄ってきた。


「すみませんでした! おれのミスです。おれが発注ミスをしたので……N病院の人工呼吸器の発注が納品日を大幅に遅れるというんです!」


 本来であれば、かなり深刻な案件だ。だがしかし——おれの頭はミッションでいっぱいだ。ああ、そうだ。ここでかませ。おれのお笑い。おれのコメディ!


!」


 おれの声は事務所内に響き渡った。一瞬。空気が凍りつくのがわかる。しかし、そんなことはお構いなしだ。


だよ! 森村くん。さてどうするかだね」


「あ、あの。課長……すみませんでした。おれが、おれが悪いんです。ついうっかり、やったつもりだったんですよ」


「森村くん。昼飯はちゃんと食べたのか?」


「え、でも。そんな、そんな場合では……」


「ダメだ。いいか。そういう時だからこそ。慌てない、慌てない。ひとやすみ、ひとやすみ、だぞ! ——腹が減っては戦はできぬ。おぬしらも、しっかりと飯をしあがれ!」


 もうヤケだ。泣きたい。帰りたい。哀れみの視線と失笑を受けながら、おれは椅子に腰を下ろした。


 ——ああ、もうダメだ。下手なシャレは止めな


 N病院で発注していた人工呼吸器の型番号を確認する。大丈夫だ。これなら、心当たりがある。別会社にいる担当者に連絡を入れる。ちょうど、その機種が一台、予備が空いているという。おれはさっそくそれを譲ってもらうことにした。


 仕事だと、こうして人との関係性を円滑に回せるというのに。電話中も、部下たちの視線が痛い。ああ、終わった。なんだこのミッションは。お笑いじゃないからダメなのか? 親父ギャグじゃ、お笑いやコメディにならないというのか? おれが堕とされる地獄とは一体なんなんだ。


 受話器を置いてから、おれはゆっくりと部下たちに視線を向けた。


「予約が取れた」


 すると、森村が不意に手を叩いた。それに釣られて、他の職員たちもだ。いつの間にか、事務所は拍手で満たされている。


「か、課長。課長はです!」


 彼はおれのところに駆けよってくると、おれの手を両手で取った。


「森村……くん?」


「おれ。親父ギャグって言うのに憧れていて。でも。この職場。誰も言わないじゃないですか。それなのに、課長はすごいです。勇気があると思います! 課長がそう言ってくれると、おれたちも安心して、親父ギャグが言える――! なあ、みんな」


 森村の声に、後ろにいた男子職員たちは歓喜の雄叫びを上げた。


「布団がだ。トイレに行っ


「らくだは~。言い訳して


「ハゲをましましょ!」


「酒は肝臓にい!」


 おれはたちまち、みんなに囲まれた。女子社員たちも「やだあ、課長って、結構、身近~」なんて言われて。


「よーし。今晩は課長を囲む会だぞ! いいですよね? 課長」


 森村の言葉に、「お、おう。今晩はビールをあぜ!」と言った。事務所内が一気に湧く。


 これがトイレットペーパーミッションの力だというのか? 孤独でいい。一人で十分。そう思っていたおれが。たった数十分で職場の人気者になったのだった。


 もし親父ギャグが思いつかなかったら――おれはどうなっていたのだろうか。あれから、何度か二階北のトイレに入ってみたのだが、文字が書かれたトイレットペーパーに出くわすことはなかった。







―了—

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ミッション:お笑い/コメディ【KAC20224お笑い/コメディ】 雪うさこ @yuki_usako

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