ゲラのお客

碓氷果実

ゲラのお客

「怖いっていったら、そりゃ客が笑わないのが一番怖かったよ」

「いやいや、怖いってそういう意味じゃないですよぉ」

「まあ聞けって。ちゃんと怖い話になるから」

 そう言ってTさんは話し始めた。


 Tさんは以前一緒に仕事をしたフリーのデザイナーで、デザイナーになる前はお笑い芸人だったという異色の経歴の持ち主だ。妙に馬が合い、たまにこうして飲む仲になった。

 さすが元芸人だけあって、当時のエピソードを面白おかしく話してくれるのだが、じゃあ芸人時代の怖い経験はないですか? と問うた答えが冒頭の台詞である。

「俺らがコンビ組んで……二年経たないくらいかな? そのくらいからファンっていうか、毎回俺らの出るライブに来てくれるようになったお客さんがいたんだけどさ。その人が、いわゆるで」

 ゲラ――ゲラゲラとよく笑う客のことだろう。

「とにかく毎回どのネタでも、他のお客さんはややウケ、くらいなのに、ひとりでドッカンドッカン受けてくれるの。全然オチてもない、変なタイミングでも笑うのはちょっと困ったんだけど」

「ああ、たまにいますよねそういう人。映画館なんかで遭遇するとゲンナリします」

 僕がそう言うとTさんは苦笑した。

「まあ、それでも俺たち全っ然売れてなかったからさ。ひとりでも固定客がいてくれるのはありがたいなーと思ってたんだ」

 以前聞いた話だと、Tさんは結成三年目でコンビを解消し、芸人の道を諦めたらしい。三年間鳴かず飛ばずで限界を感じたと言っていた。

「でも終演後にチケット手売りするときとかは、その人絶対来ないんだよ。だから一度も喋ったことはなくて、ただステージから遠目に見える風貌ふうぼうと、特徴的な笑い声しか知らないままだった」

「どんな感じの人だったんですか?」

「うーん、普通のおっさんって感じだったよ。いつも後ろの方の席に座ってるから顔まではわからないけど、普通のシャツ着て、特にハゲてたりもせず、俺らのネタの時だけのけぞって笑ってる。こんなふうに」

 Tさんは正面から鼻の穴が見えるほどに上体をのけぞらせて、


 うひゃっへあはああ、ひひいいいいい!


 と、文字ではこういうふうにしか表せないような、悲鳴じみた引き笑いをした。

「……ものすごく独特ですね」

「だろ。他の人のネタではその笑い声は聞かないし、だから俺ら目当てで来てるんだと思ったんだけど。しばらくしたら地方営業でもその人見かけるようになったし」

 テレビにも出ないような芸人を地方まで追いかけるとは、かなり熱心なファンなのではなかろうか。僕は芸能人の追っかけ的なことをしたことがないのでわからないけれど。

「で、いつだったか相方にその人の話をしたんだよ。たしかその日は俺のボケに例の、変なタイミングの笑いがモロかぶりしちゃって。それで愚痴混じりに言ったんだ。最近よく来てくれるお客さん、ありがたいけどボケにかぶせて笑うのは勘弁してほしいわって。そしたら相方、」


 ――お前、何言ってんだ?


「そんなやついなかったってさ。俺、さっきの笑い声の真似もして、こういうふうに笑うおっさん、ここ三ヶ月くらいいつも来てるだろ? って言ったんだけど、全然話通じないのよ」

 なるほど、ちゃんと怖い話になるというのはこういう意味だったのか。今ひとつパンチに欠ける気はするが、たしかに奇妙な話である。Tさんだけに見えていた、実在しないゲラのお客。

「これだけだとちょっと不思議な話だな、って思うだろ?」

 僕の心中を見透かしたようにTさんが言う。ほんのすこしギクリとしつつ、

「まだ先があるってことですか?」

 と聞いた。

 Tさんは神妙な顔をしてうなずいた。

「打ち上げで飲んでるときにさ、またあの笑い声がしたんだ」


 うひゃっへあはああ、ひひいいいいい!


 飲み屋の喧騒けんそうの中にその奇妙な引き笑いが聞こえた気がして、思わずきょろきょろと辺りを見渡す。どのテーブルも、こちらを見もしない。

「それから、ライブ以外でも時々あのおっさんの声を聞くようになった。姿は見たり見なかったり。居酒屋とか喫茶店とか、町中とか、どこでもするんだよ、あの笑い声が」

 コッコッコッコッコッコッ。Tさんの指先が神経質そうに机を叩く。

「楽屋で聞こえたときにはさすがに参ったね。もちろん俺だけだ。もうね、ノイローゼだよこっちは」

 コッ。指が止まった。

「でさ、俺気付いちゃったの。あのおっさんがなんで笑ってるのか。何を笑ってるのか」

 Tさんは自分の口元を指差した。

「俺、滑舌かつぜつ悪いだろ?」

「え、そうですか?」

「うん、がうまく言えないんだよ、ほら」

 ラ、リ、ル、レ、ロ、とTさんが声に出す。

 確かに、言われてみればダヂヅデドと聞こえなくもない。だが、普通に話している分には気にならないし、よく通る声をしているので話の内容はむしろ聞き取りやすいくらいだ。

「子供のころ、ちょっとそれでいじられて、こっそり発声練習とかしてたことがあるんだよ。おかげでだいぶマシになって、中学に上がるころにはすっかりいじられなくなってさ。俺自身忘れてたよ。なんたって芸人になって人前でネタやろうってくらいなんだから」


 それを、あんなふうに笑うなんてなあ。


 ほとんどため息のようなその言葉に、僕は思わず想像する。客席の奥の暗がりで、身体をのけぞらせて笑う中年の男。

「変なタイミングで笑うのも、俺がラ行の言葉を言ったからだったんだよな。ネタの内容なんて関係ないの。俺がちゃんと発音できないのを腹抱えてあざけってたんだよあのおっさんは。最後の方は自分ちでひとりごと言ったときにも笑われてさ。なんか、ものすごい悪意を感じたよ」

「……それで、そのあとどうしたんですか」

「もう耐えられなくなって、おはらいに行った」

 そしたら治った。あまりにケロリと言うものだから、僕は拍子抜けしてしまった。

「あのおっさんがなんだったのかは結局よくわかんなかったけど、とにかく笑い声はぱったり止んだよ」

「はあ、でも良かったじゃないですか」

「でもさあ」

 Tさんは遠くを見るような目をしていた。

「これまで毎回聞こえてた笑い声がなくなって、それでなんか心折れちゃってさ」

 それで結局芸人やめたんだよ俺、と笑う顔がなんだか空っぽに見えて、僕はなんと言葉をかけていいかわからなかった。

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