知らない彼

🥀

　三年前の四月。

　およそ十四年間をともにした愛犬が亡くなって、一週間が経った日のことだ。

　私は生まれつき重度の身体障がいがあるため、車椅子に乗っていて、高校を卒業してからは介助職員常駐のグループホームで生活している。

　県外にある実家までは、高速で二時間半。家族の手を借りなければ、帰省は難しい。

　そんなふうだったから、愛犬の危篤を知ったときも、駆けつけることができなかった。

　数日前からどうにか枕を濡らさずに眠れるようにはなったけれど、ふとした瞬間に頭を巡るのは、最期を看取れなかった後悔と、片道二百キロという事実に対する恨みばかり。

　こんなのもう耐えられない。気を紛らわせたい。

　そう思った私は、少し前からハマり始めた芸能人――言わば「推し」について語り合える仲間をSNSで探そうと考えた。

　その推しは、年の離れた妹を介して知り、以来一緒に応援していたが、彼女に会うのは半年に一度帰省したときくらいだ。

　妹と語り合うみたいに盛り上がれたら、多少は気が晴れるかもしれない。

　さっそくTwitterで推しの名前を検索すると、一番上に出てきたのは陽気そうな男性のツイート。推しのラジオの感想を画像つきで載せていた。

　なんだか軽そうな人だなと思ったけれど、推しの話ができれば相手は正直誰でもよかったので、とりあえずツイートにいいねを残す。

　数分後、フォローが返ってきた。こんなにうまくいくとは。

　私もあわててフォローバックし、プロフィールに飛んでみると、他にも推しの画像ツイートが複数上げられていた。

　リプライで挨拶を――と思ったが、あまりマニアックな会話を晒すのは抵抗があったので、DMを送ってみる。

『こんにちは。フォローありがとうございます。推しの写真たくさん見られてうれしいです！』

　――本当は著作権違反なんだけどね。

　作家志望の私はねちっこくそんなことを思いながらも、ここは相手に合わせておく。

　すると、驚くことにこれにもすぐに返信があった。

『はじめまして！　こちらこそフォロバありがとうございます！　任せてください！　これからもバンバン載せちゃいます笑笑』

　感嘆符や絵文字、顔文字がいっぱいの、ハイテンションな文面。

　――うわ～……やっぱこの人チャラそう。無理だわぁ。

　第一印象は最悪だったものの、自分から始めた手前、自分で終わらせるのも気が引けたので、返信が途切れるまで適当にラリーを続けた。

　どうせすぐ離れるだろうと思っていたのに、翌日もその翌日も彼からの連絡は続いた。

　そのうち日課のようになり、タメ口で話すようになって。私よりひとつ年下で、誕生日は一週間違いだと分かった。

　でも、彼が送ってくるのは一言二言の短文ばかり。当然ながら推しの話が中心で、訊いたことには答えてくれるけれど、彼から質問してくることはまったくと言っていいほどない。調子を合わせているとちっとも会話が広がらない。

　しかたなく相手してくれてるとかだったら、切ってくれていいのになぁ……と思いながら関係はだらだら続き、気づけば一年以上が過ぎていた。

　詳しい流れは忘れたのだが、あるとき、私がやり取りの中で『体にいろいろ抱えてるし、長生きしても迷惑かなぁって……』とぼやいたことがあった。（プロフィールにはっきりと記載していたので、彼も私が車椅子であることは知っていた。）

　すると彼は言ったのだ。

『迷惑だったかなんて、最後まで生きてみないと分かんないよ』

　はっとすると同時に、私の中の彼が一気に色を変えた。何かが芽生えた。

　思えば彼は『推しと結婚したい！』なんて冗談でも言わないし、私の野望丸出しの夢も、けっして馬鹿にしたりしない。それどころか、推しが映画で作家役を演じたときの役名を出して、あんなふうになれるよと背中を押してくれた。

　彼は私が思っていたよりもずっと大人で、深みのある人なのかもしれない。

　彼に対する印象が徐々に変わりつつあったちょうどその頃、当初は毎日続いていたやり取りは、数日や数週間に一回と、彼に合わせた気まぐれなものになっていて、ヤキモキさせられることが増えた。

　ツイートはしているくせに、私への返信は来ない。しばらく放置していたくせに、落ち込んでいるときに限って突然現れて、前向きで優しい言葉をかけてくれたりする。

　ずるい。

　私も気まぐれになってしまえばよかったのかもしれないけれど、性格上できなかったし、何より、返信が来るとほっとして、なんだかうれしくて。ついすぐに反応してしまう。

　苦手だったはずなのに、今は彼がいなくなることを想像するだけで、寂しいとさえ感じる自分がいる。

　この気持ちを、恋なのかも、と思うことはあった。

　だけど、顔も本名も声も、彼のこと何も知らないのに、好きだなんて。

　都合よく美化しているだけなんじゃないだろうか。精神的に辛かったときに現れたから、ちょっぴりときめいているだけなんじゃないだろうか。

　ひとりで考えていても埒が明かなくて、質問掲示板に書き込んでみたり、生年月日を知っているのをいいことに、占いに頼ってみたりもした。

　占いなんて、信じないタチだったのに。年下男子なんて、今まで対象外だったのに。

　どれだけ考えても調べても、答えは見つからなくて。

　ついに私は、付き合いが長いグループホームの職員に現状を打ち明けた。

　いきさつを聞き終えた彼女は、声のピッチをワントーン上げて興奮した様子でこう答えた。

「からももさん！　それは恋だよ、恋！　心がピンク色になってるよ！」

　でも……と葛藤を話す私に、彼女はなおも続ける。

「いい？　好きにもいろいろあるんだよ？　それもひとつの形なの！」

　そう言われてもなお、彼への想いを認められないまま、知り合って二年半ほどが経った。他にも推しを通して仲良くなったフォロワーはいたけれど、途切れ途切れとはいえ、ここまで長期間やり取りしているのは彼だけだった。

　そんなある日。プライベートでトラブルが続いたせいか、私は突如、断捨離の一環としてTwitterのアカウントを消そうと思い立った。

　実は一年ほど前にもうひとつ創作アカウントを作っていて、推し専用になった元アカウントはほとんど彼とのやり取りにしか使っておらず、返信も二ヶ月来ていない状態だったのだ。

　――いい機会だし、さよならしよう。

　黙っていなくなることもできたのだが、長い間仲良くしてもらったことだし、とアカウントを消す旨と今までのお礼を送っておいた。離れがたい気持ちもあったと思う。

　――きっと『そうなんだ。じゃあねー』とかで終わるんだろうな。

　そう、思っていたのに……

『えー！　そうなの!?　びっくりだよ！　でもこれからも一緒に推しを応援しようね！」

　なんて、ものすごく驚いた感じの返信がすぐに来た。二ヶ月の空白はいったい……

　――えっ、これからも一緒に？　まだつながっていたいってこと？　私のほうがびっくりなんですけど。

　結局、創作アカウントでつながる流れになってしまった。

　普段は素っ気ないのに、離れようとすると引き止める。

　まるで猫じゃないか。

　彼はいつもそうやって、無自覚に私を翻弄する。

　翌日。

　この際だからと、面倒に思いながらしかたなく相手をしてくれているのでは、と感じていたと伝えると、

『いやいや、そんなことないよ～。悩み聞いてもらったりして、すごく助けてもらってるんだよ！』

　彼の返答は、これまた意外なものだった。

　社会人になるにあたって不安そうにしていた時期があり、少し相談に乗ったことがあるのだ。

　綺麗事だったかと反省していたのだが、彼には刺さっていたらしい。

　いつだったか、メンタルは弱いほうだと自分で言っていたし、案外繊細な面も持ち合わせているようだ。

　強そうに見えるのになぁ……

　明るく振舞うことで、自身を守っているのかも。陽キャに見せかけた陰キャ、といったところだろうか。

　彼もある意味では、私を必要としてくれているのかもしれない。

　少し自信がついた私は、ようやく恋心を認め、複数の職員に相談の上、彼にLINE交換を持ちかけようと決めた。

　推しが所属していたグループのライブで会えたら一番自然だったのだろうが、お互いのタイミングが合わなかった。推しはもう在籍していないし、そうでなくても、コロナ渦の現状では厳しいものがある。

　とはいえ、Twitterの枠を超えなければ、先へは進めないのだから。

　――それもひとつの形なの！

　一時の浅い夢なんかじゃない。きちんと段階を踏めば、これだって立派な恋になり得る。

　よしっ！

『突然なんだけど、Twitterだとこの前みたいにいつどっちがやめちゃうか分からないし、なかなかタイミングが合わなかったりもするから、よかったらLINE交換しない？　もちろん抵抗あるなら今のままでも大丈夫だよー』

　大丈夫。どんな結果でも、後悔しない。

　数時間後、彼から送られてきた返答は――

『返信遅くてごめんねー。自分的には今のままのほうが気が楽なんだよね。Twitterじゃないと、普段の自分になっちゃいそうで』

　いつもと変わらない、感嘆符や絵文字、顔文字がいっぱいの、彼らしい文面。

　文章だけのやり取りでよかった。この落胆を悟られなくて、彼の深層心理を悟らなくて済む。

　心を落ち着かせながら、あらかじめ小説投稿サイトのエディタに下書き保存しておいた返答の、断られたほうのバージョンをコピペする。

『そっかそっか。了解だよー。警戒させちゃってたらごめんね』

『今さら警戒とかはしないよー。しかもこれからも仲良くしてほしいし！』

　こんなときばっかり、返信が速い。

　――そこで「しかも」の接続詞を使うのはおかしいと思うけどね。

　作家志望の私は、やっぱりねちっこくそんなことを思ってしまう。

　――あ～あ。なんだよ。

　彼が私の中にちゃんと実在してくれれば、「好きです」って言えたのに。「ごめんなさい」って言われることもできたのに。

　彼は私に、振られる自由さえ与えてはくれなかった。

　＊＊＊

　彼はあくまで現状維持を望んでいたようだったけれど、結果としてその気持ちには応えられなかった。

　だってもう、あなたに対する私の感情は、色も形も、出会った頃とはあまりにかけ離れているから。

　あの後、一時的に週一程度のラリーが続いたこともあった。でも、無理をしていないか訊いたせいか分からないが、しばらくするとまた気まぐれ返信に戻ってしまって。

　彼の負担にはなりたくなかったけれど、都合のいい相手でいるのも嫌だった。かといって、それこそ彼女でもないのだから、返信を催促するなんてできない。

　不毛で、不完全燃焼な恋に浸るのは、もうやめた。

　そう思い、今年の二月に入ってすぐ、私から関係を切ってしまったのだ。

　今度こそ何も告げずに相互フォローを解除し、DMでのやり取りもすべて消した。

　ブロックできなかったのは、後ろめたさか――それとも未練か。

　ひょっとしたら彼は、いまだに私がいなくなったことに気づいていないんじゃないだろうか。

　最近参考にしている占いによれば、私は「やんちゃな恋にハマる星」と「好きな人を追いかける星」を持っているらしい。

　きっと、また同じくらい好きだと思える人が現れるまで、彼を忘れることはできないと思う。

　一日七百字書けたら上出来の私が、四千字を超えるこのエッセイをたった二日で書き上げたことが、いい証拠だろう。

　……と思ったが、このエッセイを書くにあたって、唯一メールに残されている彼からのDMをいくつかざっと読み返してみても、全然心が動かなかったので、意外に吹っ切れているのかもしれない。

※本作の情報は、2022年3月時点のものです。