モウロクデモナイ

ハヤシダノリカズ

モウロクデモナイ

「モウロクデモナイ」と、菅澤昭はポツリと呟いた。

 菅澤昭が入居しているこの老人ホームで月に一度行われる川柳・狂歌の会で披露する句を練っているのだ。「もう、ろくでもない」と「耄碌もうろくでもない」をかけた五七五七七を捻り出そうと先ほどからウンウンと唸っている。手に持った小さなメモ帳は少し手汗で湿っている。


「あきらさん、今日はいいお天気でいいねぇ」

 話しかけてきた女性職員の宮川静子の声は届いたのかどうか。窓辺の椅子に腰かけて焦点の定まらない目で窓ガラスの向こうを眺めている菅澤昭はピクリとも反応しない。

「あきらさん、あきらさん。今日はいいお天気ね」

 宮川静子は入居者の自尊心を損ねる事に繋がりかねない言葉……「聞こえてるの?」だとか「大丈夫?」なんてワードを極力使わないように、なおかつ入居者の体長の変化をすばやく察知できるようにと、菅澤昭に近寄って耳元で再度話しかけた。


 そして、菅澤昭の「もう、ろくでもない」という呟きは、宮川静子の耳に入る事になる。宮川静子が菅澤昭の友人なり親族であったなら、その呟きが自身に向けられた侮蔑だと勘違いしたかも知れないが、宮川静子は違った。「あきらさんの心は壊れかけているのかも知れない」と、宮川静子は判断した。


「あー!そうそう!この間の検査、私が粗相しちゃって、カルテが濡れちゃってね。ちょっと読めなくなった箇所があるのよ。ごめんなさいね、二度手間になっちゃうけど、あきらさん、先生のトコロにこれから一緒に行ってくれない?」

 宮川静子は努めて明るく、嘘も方便と菅澤昭を医務室へいざなう。菅沢昭の川柳・狂歌創作への集中はようやくそこで途切れた。いつも明るく仲良くしてくれている職員さんのミスをなかった事にするのはオトコとして、年長者としてやるべき事だと菅澤昭はその提案を受け入れた。


 ところが、医務室での医者の態度がどうにもおかしい。物忘れが無いとは言わないが、まだまだ認知症と診断される事はなかろうと思っている菅澤昭に、優しすぎる口調で昼食の献立を聞いてきたり、昔話をさせようとしてきたり、最近のこのホーム内での出来事を聞いてきたりした。菅澤昭は「ここで怒ったりしたら、それこそ認知症と診断される。ここは穏やかに冷静に話さねばなるまい」と思ったが、その感情を抑えようとするほど、頭に血が上って行く。抑えきれない感情はそして、急に途切れた。


 菅澤昭が意識を取り戻した時、薄暗い灰色の中でぼんやりと立っている自分を自覚した。

「ここは、どこだ?」

 そう発声して、続けて辺りを見渡す。

「お疲れ様でした」

 不意に声がして、菅澤昭はその声の方に向き直る。すると、さっきまで誰もいなかったハズのその場所に一人の男が立っていた。


「菅澤昭さんですね。えーっと、享年82歳、脳溢血で倒れて……と。なるほど」

「何がなるほど、だ。そして、今、享年と言ったか? ワシは死んだのか? そして、オマエがお迎えの……死神、なのか」

「えぇ、有り体に言えばそうです。まぁ、しがないサラリーマンですけどね」

「死神で、サラリーマンなのか。給料の出所はどこなんだ?」

「まー、人間社会のように預金額の数字が増減する訳ではないんですけどね。まぁ、働かないと色々とわびしい事になって、そのわびしく寂しく哀しい顛末の果ては消滅ですから、サラリーマンと似たようなもんです」

 菅澤昭にはその説明がおかしなものに思えたが、知らない世界にも自分の見知った世界との共通点があるのだと嬉しくも思えた。


「そんなものかね」

 菅澤昭は軽くため息をつきながらそう言って、

「どこの世界も世知辛い」

 と続けた。

「えぇ。まったく。それでは、ご案内します。参りましょうか」

 死神はそう言ったが、菅澤昭は死神に冷静に話しかけた。

「時に、死神くん。先ほど、享年82歳と言っていたが、ワシはまだ81じゃ。さっきワシに話しながら見ていたあの手帳、そこには82歳と書いてあったんだろう? 81歳のワシを連れていったら問題になるんじゃないのかね?」

「え?マジで?」

 死神は狼狽えながら手帳を確認する。

「えぇ、ここには享年82歳と書いてあります。え、菅澤さん、81歳なんですか?」

「あぁ、証明しろと言われても、保険証さえ手元にはないがな」

 菅澤昭は堂々と言い放つ。

「え、マジかよ。また管理部の手違いかよ……。いや、菅澤さん、嘘なんてついてませんよね?」

「ほぉ。おそらくは肉体を離れているこの、……精神世界、とでも言ったらいいのか、ここでは嘘をついたりできるのか? あと、そうだな。気になるのは、認知症が進んでその先に死んだ人間は魂だけになっても認知症の振る舞いをするのか? 嘘や脳の機能障害なんてものは肉体があればこその悪貨じゃないのか?」

 菅澤昭がそう言うと、死神は「なるほど」といった表情を浮かべ、

「確かにそうですね。脳溢血ですから、まだ回復の目はあります。ちょっと早く来過ぎたのかも知れません。出直します」

 そう言って死神は菅澤昭の前からかき消えた。


 数か月後、晴れて退院してきた菅澤昭は念願の川柳・狂歌の会にいた。

 壁に貼り出された毛筆の作品群の中の自身の作品ばかりが目に入っているその様は誰の目にも明らかだ。菅澤昭はご満悦といった表情を浮かべている。

「あきらさん、楽しそうね。あきらさんの作品はどれなの?」

 宮川静子が笑顔で問いかける。

 満面の笑みを浮かべて菅澤昭が指し示した先には【耄碌か もう、ロクでもないのか このワシは 今年八十 来年九十】と達筆で書かれた句があった。

「へー、これがあきらさんの書いたものかー。ちょっと字余りだね」

 と、宮川静子は笑って答える。

「あれ?あきらさん、もうすぐ83歳とかじゃなかったっけ?」

「あぁ。よく覚えてくれてるんじゃな。そう。ワシは今、82で、あとひと月もすれば83じゃ」

「今年八十、来年九十って、大胆なサバの読み方ね」

「あぁ、この歳になったら、年齢なんぞ適当でいいんじゃ」

 菅澤昭はそう言ってガハハと笑った。


 そのすぐ傍に、死神は仕事を外れて様子を見に来ていた。仕事を離れてやってきている彼は誰にも認識されることがない。今日の彼の挙動は誰にも知られないし、現世に影響を及ぼす事もない。だが、現世の様子を観察する事は出来た。そして、憎々しげに言った。

「モウロクデモナイ」と。

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モウロクデモナイ ハヤシダノリカズ @norikyo

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