愛する人と別れる時は、変顔で。(世界平和に向けて、その④)
月猫
君を笑わせると約束したね。
五階のエレベータボタンを押す。
これほど、重く暗い気分でエレベータに乗ったのは初めてだ。
503号室のドアの前で、気持ちを入れ替える。
家族の前で、こんな顔をしちゃいけない。
そう自分に言い聞かせた。ドアを開けて、いつものように「ただいまぁ~、パパ様のお帰りだぞぉ」と大きな声をかける。
二歳になったばかりのオレーナが「パパ、おかえりなちゃい」と満面の笑みを浮かべて走って来た。小さな両手を広げて、トコトコ走って来る。
(転ぶなよ)と、僕はハラハラしていた。同時に可愛すぎて目が離せない。
近くに来たオレーナを抱き上げ「ただいま」とキスをする。
オレーナを見守るように追いかけて来た妻は、僕の顔を見て泣き出した。僕たちは、オレーナを間に挟んで強く抱き合う。
家族三人で、このアパートで過ごせるのは、今日が最後だ。
何も知らないオレーナは、「ママ、どちて泣いているの? いたい、いたいなの?」と妻を気遣っていた。
戦争の足音が、すぐ近くまで迫っている。僕は、愛する家族を守るためにここに残る。妻とオレーナは、田舎にある妻の実家へ戻ることになった。
最後の晩餐は、みんな笑顔がいい。
僕は、オレーナを笑わせようとジョークを連発した。昔、コメディアンを目指していた僕は、ジョークには自信がある。
ありったけのジョークをオレーナと妻に浴びせた。もちろん、二歳児にも伝わるジョークで。
コロコロ笑っていたオレーナに、今度は変顔をしてみせる。渾身の変顔は、オレーナの笑いのツボにはまったようだ。お腹を抱えて、大笑いしている。
「オレーナ! そんなに大きな口を開けて笑っていたら、パパがオレーナの口に吸い込まれちゃうじゃないかぁ」
「パパがオレーナのお口に入ったら、毎日パパと
オレーナの言葉に、思わず僕は泣きそうになった。妻も涙を堪えている。
(あぁ、このまま時間が止まってくれたらいいのに……) そう思わずにはいられなかった。
翌日、オレーナと妻は国が用意してくれたバスを待っていた。オレーナには、おばあちゃんの所に遊びに行くと伝えている。パパは、遅れて行くからと。
いつもと変わらぬ笑顔でオレーナを見送っているつもりだった。だが、僕の軍服姿・母親のひきつった笑顔、緊張した周りの空気、それらを感じ取ってオレーナの顔が歪む。
「そんな顔しないで、オレーナ。さぁ、笑って」
そう声をかけた僕に、オレーナは大きく口を開けた。
「パパを
オレーナが真面目な顔で、僕を吸い込もうとしている。堪えていた涙が、堰をきったように溢れ出した。
(駄目だ! 駄目だ! 最後に見たパパの顔が、泣き顔じゃ駄目だ!!)
僕は涙と鼻水を拭って、昨日以上の変顔をした。全身全霊の変顔だ。
「オレーナ、パパの顔をよぉーく見てごらん。こんなにカッコいいパパは世界中探したっていないだろ?」
オレーナが、きゃっきゃっと笑ってくれた。妻も、泣きながら笑っている。
「あなたったら、こんな時にそんな顔……」
「だって僕は、一生君を笑わせるって神さまの前で約束したからね。だから、僕は死なないよ。生き抜いて、もう一度君たちを笑わせなきゃ!」
「そうね。約束よ。また、その変顔で私とオレーナを笑わせて!」
「さぁ、時間だ。バスに乗って。お義母さんに宜しく。オレーナのこと頼んだよ」
僕はバスが見えなくなるまで、変顔をしていた。それは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの汚い変顔だった。
それから一か月後。僕の体に銃弾がぶち込まれた。
僕は薄れゆく意識の中で、泣きそうな顔をした天使を見たんだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「また、助けられなかった……」
ミカエルが悔しそうに呟いた。助けたい命が、ポロポロと掌から零れ落ちていく。
助けられないことが、歯がゆくて悔しくて、不甲斐ない自分に怒りさえ込み上げる。それでも、ここに留まっているわけには行かない。
戦禍の中で、これ以上被害が広がらないように、自分にやれることをやるだけだ。
ミカエルは、そう自分に言い聞かせ羽ばたいた。
愛する人と別れる時は、変顔で。(世界平和に向けて、その④) 月猫 @tukitohositoneko
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