私、忘れないよ。

澪標 みお

ぜったいぜったい、忘れないよ――。

 まだ、終わりじゃない――。

 幼かったあの日のわたしには、なぜかそれが分かっていた。


 恐ろしい揺れだった。

 鉄筋コンクリートでできている小学校の校舎が、がくんがくんと大地に揺さぶられる。机の下に隠れようにも、その時はちょうど、ゆうちゃん――転校してしまう親友のお別れ会をやっていて、机も椅子も全部教室の後ろに下げてしまっていた。何度も点滅する蛍光灯が落ちてこないことを祈りながら、誰もが頭を両腕で覆って、今にも崩れそうな床に這いつくばることで精一杯だった。

 わたしはこのまま死ぬのかな、なんてぼんやりと考えていた。悲鳴を上げて右往左往している先生や友だちとは裏腹に、不思議と冷静な自分がいた。


 何十秒も続いた揺れがようやく収まって、わたしたちは生き残った。みんな安堵の息をついて立ち上がった。どうにか死なずに済んだ。鉄筋コンクリート造りの頑丈な校舎は、荒ぶる大自然に打ち勝ったのだ。偉大なる人類の勝利だ。


 ――そう思ったのに、何故か納得できなくて。


 今さらのように避難した校庭は、ただでさえ乾ききっているのに、後で知ることになる長周期地震動のせいで地割れのように深くひび割れていた。曇り空の下で座り込む小学生たちに、いつもの元気は流石になかった。


「津波だ!」

「津波が来るぞ!」


 不気味なサイレンが街中に鳴り響きはじめる。赤い帽子を被った運動着姿のわたしたちは、つなみって何なのだろうと思いながら、酷く青ざめた顔をした先生たちの後ろについていった。

 ゴォオオオッ──。

 地球の奥底から伝わってくる不気味なうなり声をはっきりと聞いてはじめて、わたしの足は急に震えだした。


 高台の上にある小さな公園に、訳もわからないまま駆け上がった。背中に何か巨大なものが迫ってくるのを肌で感じながらも、一回でも振り返ってしまったら何もかもが終わってしまう気がして、ひたすら石段を上り続けた。こんな時だというのに、わたしは今生きているんだって、強く実感した。


 そうしてやっとたどり着いてふもとを遥かに見下ろしたその時、わたしたちがさっきまで居た学校は、黒々とした何かにちょうど呑み込まれてゆくところだった。まだ入学して二年しか経っていなかったけれど、そこにはわたしの、わたしたちの想い出がたくさん詰まっていて。


「ゆうちゃん……っ」


 隣で座り込んでいる、春から東京に行ってしまう親友に、わたしは涙を流しながら抱き着いた。三月の冷たい風の中、小刻みに震える小さな体から発せられている彼女の体温だけが暖かかった。


「私、忘れないよ」

「え……?」

「あーちゃんのことも、皆のことも……そして今日のことも、ぜったい」


 家が、車が、木が町が、そして人が、何もかもが呑み込まれてゆく。これが津波っていうものか、とわたしはようやく分かった。見ちゃダメよっ、と先生が叫んだけれど、わたしはそれはどこか違うような気が無性にして、幼い網膜にその光景を焼きつけた。何年も後で聞いたところによると、その思いはゆうちゃんも同じだったのだという。何百、何千もの人が藻掻もがき苦しみながら冷酷な海に流され、巨浪きょろうの中に引きずり込まれて命を喪ってゆくその姿を真っ直ぐに見つめられたのは、きっとわたしたちがまだ小さな子供で、大人たちの哀しみを本当の意味で想像出来なかったからかもしれない。


 でも、だからこそ。


「わたしも忘れないから。ゆうちゃんのことも今日のことも、ぜったいぜったい、忘れないよ──」

 

 二人で抱き合いながら、わたしたちは必死に見つめ続けた。こごえる指先を恐怖に震わせ、大自然が引き起こす理不尽な破壊に恐れおののきながらも、それでも見つめ続けた。わたしたちは絶対にその光景から目を背けてはいけないのだと信じて。きっとこれからもこの町に残るだろうわたしも、一か月後には東京へ行くだろう彼女も、変わってしまった今と、それでも続いてゆく未来を生きるために。


 あれから十一年が経った今でも、離れ離れのわたしたちは時々会っては、幼き日の誓いを固く守り続けている。それがわたしたちに歌うことのできる、たった一つの鎮魂歌だと思うから。



  〈了〉

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私、忘れないよ。 澪標 みお @pikoma

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