第十四話 愛する人へ。

 第十四話 愛する人へ。

 

 僕自身がこの場に存在するということを証明することは非常に困難だ。

 なぜなら、この世界が紛れもなく存在しているという証拠自体がないからだ。

 しかし、それはあくまで肉体や肉体の外側の話である。

 つまり、僕の肉体が存在していることを証明することの難易度は高いが、僕の精神が存在することの難易度はそれほど高くないという。

 簡単に砕いて言うと、自分が本当に存在するか否かについて疑問に思う、ということ自体が僕の精神が今この場に存在することの証である。

 結論として、僕の精神はあるのだから僕は存在している、というわけだ。

 さて、頑張って自分なりに解釈をしてみたけれど、果たして本当にこれがデカルトの言葉である【我思う。故に我あり】ということなのかというとちょっと自信がない。

 そもそも、この解釈自体も僕自身が導き出したものではなく、風間さんに教えてもらったものを自分の頭の中で咀嚼した結果に過ぎないのだから。

 けれど、今のところはこの前提に立って語ろうと思う。

 風間さんは本当に、今この瞬間もあの店舗にいるのだろうか。

 これは物理的な話ではなく、精神的な話だ。

 もし、あの写真の女性――佐々原真澄さんの生きていた頃をずっと想っているのだとしたら。

 そうだとしたら、風間さんは現在はあの店舗にいないということになる。

 いつまでも過去に捕らわれたまま、抜け出せずに苦しんでいるのだ。

 愛した人を失うつらさ。そのつらさを僕はまだ知らない。

 僕の大事な人たちはみんな、まだ生きているからだ。

「だからといって、今のままでいいわけがない」

 もし彼が過去に捕らわれたままなのなら、それは実はあまり健全なことではないのだと僕は思っている。

 青臭い若者の思想だと笑われるかもしれないけれど、人は未来を向いて歩むべきなのだ。

 だからこそ、風間さんにも未来を見て欲しい。ちゃんと未来を。

「……よし」

 僕はひとつの決心をする。

 たぶん僕ひとりでは解決することなんてできないだろう。誰かの協力が必要だ。

 誰に協力してもらえるだろう、と考えた時、候補はふたり浮かんだ。

 ひとりは小早川さんだ。風間さんの親戚で、あの様子だと事情も知っているふうだった。

 もうひとりは鳳さん。風間さんとも佐々原さんとも知り合いで、ふたりのことをよく知る人物。

 仕方がないな。

 僕ひとりでは手に負えない。そう判断し、助力を求めることにした。

 誰に? 件のふたりにだ。

「――というわけで、協力して欲しくて」

「にわかには信じられないが……」

 まず、僕が助力を求めたのは鳳さんだった。

 彼女は風間さんとはかなり付き合いの長い人物で、その人となりはよく知っているだろう。

 だからこそ、今回の問題に対して大きな力になってくれるはずだ。

「まさか、メアリがそんなことをしていたなんて」

 あの雨の日、メアリが学校まで押しかけて来たことを伝えると鳳さんは驚いた様子だった。

 それはそうだろう。なにせ小さな女の子がひとり、レインコートを着て出かけていたのだから。

「……それは迷惑をかけてしまったね」

「いえ、それはいいんですけれど」

「けれど?」

「ええと……鳳さんはどう思ってるんですか?」

「……住吉君のことだね?」

「はい」

 僕は軽く頷いた。

 もちろん、聞きたいのは風間さんのことだ。彼の現状を、長年の友であるこの人はどう受け止めているのだろうか。

「その前に、聞かせてくれるだろうか」

「何を……ですか?」

「どうして君は、住吉君やメアリのためにそこまでしてくれるんだい?」

「どうしてって……」

 そう言われると、言葉に詰まる。

 僕は風間さんとは赤の他人だ。親戚筋でもなければ、古くからの知り合いというわけでもない。

 そんな僕がまだ大したことはしていないとはいえ、一応は骨を折っているという状況だ。

 なんらかの目的があると邪推されたのだろう。とはいえ、だ。

 僕に目的なんてあるはずがなかった。強いて言うのなら、メアリのためだろうか。

 彼女があそこまでしたのだから、なんとか答えてあげたいと思う。

 それに、この件を今のまま放置していてもいいことがあるとは到底思えなかったというのもある。

 しかし、そう言ったところで鳳さんは納得してくれるだろうか。

 もしかしたら、僕を更に怪しんでしまうかもしれない。

 僕はただの中学生で、何の力も持っていない子供だ。

 誰かを騙したり、嘘を吐いたり、そういうことはあまりしてこなかったという自負はある。

 今回の件だって、言ってしまえば僕の自己満足のようなものだ。

 もしも解決できたらすごいな自分、というそれだけ。

 そこにおまけでメアリの希望がかなえられて、風間さんを始めとする全員が幸せになれればそれほど素敵なことはないだろう。

 だからまあ、自己満足……なのだ。

 僕は言葉に詰まりながらも、そういう胸の内を吐露していく。

「……まあそんな感じですね」

「なるほどね。しかし……どうしたものだろう」

 鳳さんは僕の話を聞き終えると、腕を組んで考え込んでしまった。

「……わかった。君の案に協力しよう」

「ありがとうござます」

「いや、礼を言うべきはこちらの方だよ」

 鳳さん組んでいた手を開くと、続ける。

「……佐々原真澄はね、私の親友だったんだよ」

「え?」

 突然そんなことを言われて、困惑する僕。けれど、鳳さんはそんな僕を置いて、語る。

 かつて親友だった人のことを。

「彼女は元々体が弱かったんだ。病弱で、すぐに床に伏せる人だった。でも、優しくて笑顔の絶えない、そういう子だったんだよ」

 何か言うべきだろうかとも思ったけれど、黙って聞き続けることにした。

 僕が何を言うことができるのだろうか。

「本を読むのが好きだった。病弱だったこともあるだろうけれど、元々そういう性分だったのだろう」

 懐かしむように細められた鳳さんの目元は、どこか悲しげだった。

 僕はただ黙って、続きを促す。こうして話す、ということが重要なことなのかもしれない。そう思って。

「……だからまあ、意気投合するのは当然のことだったんだろうね。大学時代、住吉君と出会ってからの真澄は少し変わった。それまではお洒落なんて興味もなかったはずなのに、少し見た目を気にしたりしてね。色気付いていくあの子を見ているのは滑稽だったよ」

 そう言って笑う鳳さん。けれど、言葉とは裏腹に嬉しそうだ。

 当時を思い出しているのだろうか。幸せな時間だったに違いない。

「やがて、ふたりは婚約したと知らされたよ。出会って半年くらいかな。まともに交際なんてしていなかったと思うよ。何せ真澄がああだったからね」

 なんとなく、当時の情景が思い描けた気がした。

 風間さんと佐々原さん。ふたりが並んでいる姿を想像して、少し目頭が熱くなる。

「驚いたよ。その当時の私は国内旅行をしていたんだ。……昔からじっとはしていられない性分でね」

「それは……わかる気がします」

 何せ、三年振りに日本に帰国したそうだから。

「婚約して、そこから一年は何事もなかったんだ。穏やかな日々を過ごしていた。その間に、ふたりは色々と将来の話をしていたそうだ」

 将来……それは当時の風間さんたちから見て、どう映っていたのだろう。

 どう映っていたにせよ、幸せだったに違いない。僕はそう思う。

「一年後、事態は一変した。――真澄の容態が急変してね」

 体が弱かったのはその通りらしい。とはいえ、余命いくばくもない、というわけでもなく、何が佐々原さんを襲ったのか、その原因はついぞわからなかったらしい。

「今だったら何かわかることがあるのかもしれないね」

 鳳さんは最後にそう結んで、話を終えた。

 僕はかける言葉が見付からず、口を開けずにいた。

 なんと言ったらいいんだろう。親友を失ったという話をされて、僕のような小僧が何を言えるだろう。

 必死に考えて、考えて……でも何も絞り出せず、ただ沈黙だけが僕たちの間に漂っている。

「……もし、君が住吉君を助けてくれるつもりがあるのなら、今の話は頭に入れておいてくれたまえ」

「僕は……」

「大丈夫、それほど期待はしていないから」

 そう言って、鳳さんは笑った。笑って、僕の頭を撫でる。

 僕な抵抗せず、彼女の行動を受け入れた。

「ただまあ、私の愛した人たちだから……」

 ぽつりとそう呟く鳳さん。

 その目は、ここではないどこかを見ているかのようだった。

 

 

          ◇

 

 

 ひとりで散歩をしてくるという鳳さんと別れる。

 そうすると、僕は僕でひとりになる。ひとりになると、色々と考えてしまう。

 愛した人たちだから。そう鳳さんは言った。

 人を愛するとはどういうことなのだろうか。

 風間さんも佐々原さんを愛しているから、ずっと『ささはら書店』を経営しているのだろうか。

 それが、なぜ愛するということに繋がるのか。全くわからなかった。

 人を愛するとはどういうことなのか。そもそも愛って?

 愛……を語るには、僕は圧倒的に知らないことが多すぎるのだと思う。

 でも、だからといって今のまま放置するわけにもいかない。

 僕はぼうっと、窓の外を眺めていた。

 教室から見上げる空は相変わらずの曇天で、雨こそ降ってはいないもののあまりいい天気と言い難かった。

 それでも、まあ降ってないからよしということにしておこう。

「おい、どうしたんだよ、ぼけっとしやがって」

 誰かから声をかけられた。僕は振り返り、その人を視界に収める。

 聞き覚えは十分にある声だった。案の定、小早川さんがそこにはいた。

「えっと……ちょっと考えごとをね」

「考えごとだあ? ……どうせ、あのアホのことだろ」

「アホ?」

「住兄のこと」

「え、ええと……」

 僕は返答に困ってしまった。

 全く持ってその通りなのだけれど、それを小早川さんに言われるとちょっと困ってしまうのはなぜだろう。

 というか、小早川さん的にはあのままでいいのだろうか。いいわけがないとは思うのだけれど。

「……全く、てめえはバカだよな」

「なっ……バカって……」

「てめえには関係のねえことだ。ほっとけいいだろ、あたしらのことなんか」

 それは……まあ一里ある。あるのだけれど。

「関係ないってことはないよ。……既に僕は君たちの問題を知ってしまったわけだし」

「だったらなんだってんだよ。だからっててめえがでしゃばることじゃねえだろう」

「……でも」

 でも、その先が続けられなかった。

 確かに、小早川さんの言うことはその通りだと思ってしまった。

「確かに、僕には関係のないことだ」

「だろう? だったらこれ以上首を突っ込まないことだ」

 小早川さんの忠告はありがたかった。

 もしこれ以上この件に関わるのなら、僕はきっと取り返しの付かない事態に陥ってしまうのかもしれない。

 でも、それはあくまで可能性の話だ。そうならない可能性も十分にある。

 もしかすると、それで誰かを救えるかもしれない。助けられるかもしれない。

 他の誰でもない、僕が。

 そう考えるだけで、使命感が湧いてくる。やらなければいけないのだと。

「……小早川さんたちだけじゃ無理だと思うんだよ」

「それは、まあそうかもしれないな」

「それに、これはメアリにも頼まれたことなんだ」

「メアリが? あのガキが一体てめえに何を頼むってんだ。というかそもそも、言葉通じるのか?」

 小早川さんは少し苛立ったように、語気を強めてそう訊いてきた。

 確かに、言葉は通じなかった。意思疎通を図ることは困難だった。

 しかし、その困難を乗り越え、僕はメアリの希望を知ったのだ。

 まあ完全に神谷先輩のおかげなのだけれど。

「テキトーなこと言ってるといてこますぞこら」

「そんなつもりはないのだけれど……」

「だったらなんだってそんなことが言えるんだ? そういうのを無責任って言うんだぜ?」

「くっ……」

 僕は何も言い返す言葉がなかった。

 だってそうだろう? どこまでいっても、僕は所詮部外者なのだから。

 小早川さんの苛立つ理由も、想像が付くというものだ。

「でも……」

 だからといって放り出すのも違うだろうとも思う。

 何より、それでは誰も幸せにならないのだから。

 愛がなんだというようなことは僕にはまだわからない。

 それでも、わかることはある。それは、人は幸せになるために生きているのだということだ。

 その一点だけは、ただの中学生だってよく知っている。

 それが人生であると。

「僕はきっと、小早川さんに幸せになって欲しいと思ってるんだ」

「はあ? ……何言ってんだ、おまえ」

 小早川さんは眉間に皺を寄せ、困惑した様子だった。

 突然こんなことを言われては戸惑うのは当然だろう。けれど、僕は構わずに続ける。

「風間さんの自宅にみんなで集まった時、小早川さんはすごく怒っていた。それはどうして?」

「どうしてって……腹が立ったからだよ。いつまでも過ぎたことをねちねち引きずりやがるところが」

「それは……風間さんにも幸せになって欲しいからでしょう?」

 ピタッと固まる小早川さん。ぎろりと僕を睨んでくる。

 正直言って、すごく怖かった。迫力が段違いだ。

 けれど、僕としてはここで退くわけにはいかなかった。退いてしまえば、誰も救われないから。

 それこそ、誰も。

「小早川さんは……佐々原さんを知っているの?」

「ああ……会ったことはある。それこそ、すごい人だったよ。美人だったしな」

 一目見た瞬間、かなわないと思ったそうだ。

 それほどまでに、佐々原真澄という人物の聡明さというものは他人を惹き付けていたのだろう。

 美人で頭がよくて、他人から好かれる性格だった。

 話を聞いている限り、人徳のすごい人だったことは確かだろう。

 一度会ってみたかったような気もする。

 とはいえ、そんな人が短命でこの世を去ったこと、それをずっと引きずっている人がいることは紛れもない事実で、僕はそれを放置することに後ろめたさを覚えたりもしているわけだ。

 メアリから頼まれたということもある。

「確かにあの人のことを忘れろ、とは言えねえさ。けれど、いつまでもぐずぐすしてても仕方がねえだろ」

「……まあそうだね」

 小早川さんの言わんとしてることはわかる。

 おそらく、彼女の目には風間さんはいつまでも過去に捕らわれている哀れな人物として映っているのだろう。だからこそ、苛立つし、語気も言葉も荒くなってしまう。

 ああいう風間さんを見ていたくないから。

「でも、だからこそどうしたら事態は好転するのかというのを考えないといけないと思うんだよ」

「それは……まあそうだろうけれど」

 たぶん、小早川さんはわかっている。

 暴れたり、暴力や暴言に訴えたりしたところで何にもならないと。

「メアリは大雨の中、ひとりでやって来たんだ。僕を頼ってね」

 だったら、無視なんてできるはずがなかった。

 例え非力だろうとなんだろうと、知らなかった振りだけはしてはいけないのだ。

 ――だからこそ、風間さんを解放しなくてはいけない。

 約束に縛られ続ける彼を。

「だから、僕に協力して欲しいんだ」

 僕にできることは本当に少ない。いや、何もないと言っていい。

 それでも、見て見ぬ振りはできないから。

 可能なことなんて、ただ真摯にお願いする、それだけだ。

 

 

            ◇

 

 

 僕は今、本当にこの場に存在しているのだろうか。

 例えば、ここが壮大なゲームの世界だとする思考実験が存在する。

 僕たちはゲームの中で暮らし、ゲームの中で一生を送る。

 見えている物全てがプログラムでできた何か。

 例えば自宅のテレビだったり、学校にある机だったり。

 あるいは、僕の体そのものがプログラムでできたものだと仮定して。

 それで本当に僕――真壁陸という人間は存在すると言えるのだろうか。

 答えはイエスだとある人物は言った。

 彼は例え全てが虚構の中のことだとしても、自身の存在を疑うという精神活動そのものがこの場に存在している証左なのだと言う。

 納得する自分がいる。けれど否定したい自分がいる。

 だって全てがプログラムでできたゲームの世界なら、今こうしている自分の思考もまた、プログラムで作り出すことができるだろう。

 そんなものは実在しているとは到底思えなかった。

 思えなかったけれど、しかしこういう思考に陥ること自体が僕が存在していることになると言いたかったのだろうか。

 わからない。わからないけれど、それはまたおいおい考えるとしよう。

 問題は風間さんのことだ。彼は今、存在していると言えるのだろうか。

 今は亡き婚約者との思い出を胸に、あの店を続けている風間さん。

 それはつまり、プログラミングされたNPCのような人生なのだろうか。

 こんなふうに考えてしまうのは、今だ僕がただの中学生だからか。

 わからないことだらけだ。それでも。

 例えプログラミングされた人生だったとしても。

 それを受け入れてしまうことはよくないことだと言える。

「だって、本人はそれでよくても、悲しんでいる人がいるのだから」

 実際のところ、世界はただのプログラムなのか、それとも違うのか。そんなことを確かめる術は僕にはない。

 ただ、僕にできることは、現状をよりよくしていくために努力することだけなのだから。

 それはただの中学生でも、大人でも同じはずだ。

「そうだね。その通りだと思うよ、わたしも」

 神谷先輩は僕の主張を、ただ静かに聞いてくれていた。

 メガネの奥の大きな瞳を輝かせて、微笑む。

 迷惑をかけたのに、先輩はそれをなじったり避難したりしない。

 ただ座って、僕の言葉を聞いてくれていた。

「先輩……ありがとうございます」

 これは、勇気の問題なんだ。

 世界がどうとか、人生がどうとか、そういうのはあまり重要ではない。

 例え世界がニセモノでも本物でも、僕たちはその中で暮らしていかなければならないのだから。

 だから、僕は先輩に向かって宣言する。

 いや、これは先輩を通して、自分自身に対する宣言をするんだ。

 今回の件を、僕がなんとかするんだ、と。

 

 

          ◇

 

 

 大前提として、亡くなった人は生き返らない。

 それは老若男女関係なく、誰もが等しくもっている認識だ。

 僕だって、それは知っている。誰がなんと言おうと、故人がこの世に舞い戻ることはない。

 だったら、お葬式は無意味な行為なのかと言えばそんなことはなく。

 お葬式に限らず、何かの儀式というの常に生きている人間のために行われるものだと何かの本で読んだことがあった。

 結婚式なら、これから結婚生活を送るのだということを身内に知らせるための儀式。

 成人式なら、社会に出て責任感を持ってやっていくのだという儀式。

 そしてお葬式なら、故人と別れ、今後の未来を生きていくための儀式。

 とかく、儀式というものは生者のために執り行われるものであるということだ。

 その前提に立つのなら、やはりいつまでも亡くなった人の影を視ているのは間違っているということになる。

 無論、僕のごとき若輩者がそんなことを語るのはおこがましいとは思う。けれども、それで悲しんでいる人がいるのなら、誰かが目を覚まさせる必要もあるのではないかとやはり思う。

 僕は今回、それの役割を自らに課そう。

 そんなわけで、僕は再び『ささはら書店』を訪れていた。

「ああ、また来てくれましたね」

 風間さんは僕を見付けると、嬉しそうに微笑む。

 その笑顔が、僕の胸を締め付ける。

「……どうかしましたか?」

 僕の様子がおかしいと思ったのか、風間さんは心配そうに覗き込んできた。

 僕はへらへらと笑いながら、軽く首を振る。

「なんでもありません。大丈夫です」

 風間さんがどう思っているのかはわからなかった。わかっていることといえば、彼が佐々原真澄という人物を愛しているということだ。

 過去も現在も、そして未来も愛し続けるだろうということだ。

 そして僕は、今から彼の愛を否定しなければならない。あなたのやっていることは、愛するということとは違うのだと突き付けるのだ。

 反発はあるだろう。こんな若造に何がわかると言われるかもしれない。

 そもそも、僕は人を愛したことなんてない。初恋もまだだし。

 そんな子供が、偉そうに語らなければならないのだ。気が狂いそうだ。

 こんな状態だから、それは心配もするだろう。

「あの……実はお話がありまして」

「はあ、何でしょうか?」

 目が合う。どくん、と心臓が跳ねる。

 呼吸が段々と荒くなっていくのがわかった。軽くパニック状態のはずなのにどこかで冷静な自分がいるのも自覚していた。

「……とりあえず、中へどうぞ」

 風間さんは僕の状態が尋常ではないと思ったのか、僕を店舗の奥の自宅部分に招き入れてくれた。

 家の中は相変わらず薄暗かった。そう思うのは、僕の心の状態が影響しているのだろうか。

 以前に訪れた時も、こうだっただろうか。ちょっと自信がない。

 水をもらい、飲み干す。冷たい水が、喉を伝って体の中に流れ込んでくる。

 そうすると、少しだけ落ち着いてきた。

 落ち着いてきたので、拳を握る。深呼吸をして、風間さんへと視線を向けた。

「風間さん」

「え、ええと……はい、なんでしょうか」

 風間さんは戸惑った様子で、目を白黒させていた。

 当然だろうと思う。けれど、僕の話を聞けばもっと狼狽えることになるのではないだろうか。

「……部外者の僕が何か言うのは間違っていると思います。でも……」

「でも?」

 彼の表情が、戸惑いから真剣なものへと変わる。

 おそらく、これから僕が何を言うつもりなのかを察したのだろう。

「その――そろそろ前を向くべきなのではないでしょうか?」

「前を向く?」

 風間さんは表情こそあまり変わらなかったものの、声に怒気が滲んでいた。

 明らかに苛立っているといった様子だった。それはそうだろう。

 何も知らない、赤の他人の僕が余計なお世話だと内心思っている違いない。

 しかし、口にした言葉は戻らない。なかったことにはできないのだ。

 僕は、そのまま続ける以外の選択肢はなかった。

「佐々原さんが亡くなったことは悲しいことだと思います。でも、鳳さんや小早川さんの言うことももっともだと……」

「――真壁君」

 ぞっとするほど低い、底冷えするような声だった。

 それまでの風間さんからは聞いたことのないような声で名前を呼ばれ、僕は背筋に冷や汗が流れるのがわかった。

 これはまずい奴だ。明らかに機嫌を損ねてしまった。

「ダメですよ、そんなことを言っては」

 それまで浮かべていた笑顔はなかった。彼はただ無感動に、睨み付けるでもなく僕を見ている。

 あるいは、それは僕に怒号を浴びせたいのを必死でこらえているのだろうか。

 いずれにせよ、僕は風間さんの逆鱗に触れてしまっているようだ。

 すぅーっと、息を吸う。深く、深く。

 頭の中をクリアにする。緊張がほんの少しだけ和らいだ気がした。

「……僕は、あなたの行いは間違っていると思っています」

「そう……でも、君はボクとは無関係なはずだ。なら、知らない顔をすればいい」

「そういうわけにもいかないんですよ」

「それはどうして?」

 不思議そうに首を傾げる風間さん。

 当然だ。風間さんにとって、僕はどこまでいっても他人なのだから。

 鳳さんや小早川さんのような関係性はない。つまり首を突っ込む理由なんてないと思われているのだろう。

 ある意味では、それは正解だ。理屈から言えば僕のごとき子供が口を差し挟むことではない。

 なのだけれど、僕としても理由あってのことだ。

「鳳さんから聞きました。小早川さんからも聞きました」

「……余計なことを」

 ぼそりと風間さんが呟く。

 初めて、彼の言葉使いが乱れるのを聞いたかもしれない。

 これまでは、やわらかな物腰と丁寧な口調だった。特に、部外者の僕に対しては。

「君が何を聞いたのかはだいたい想像が付きます。けれど、それは君には関係のないことです。忘れてもらって結構ですよ」

 風間さんは頑なだった。なんだか心が折れそうになってくる。

 実際、風間さんの言うことはもっともだ。逆の立場だったら、きっと僕も気分を害していただろう。

 けれど、僕は言わなければいけない。そうじゃないと、誰も救われないから。

「メアリの頼みでもあるんです。だから、聞いてください」

「メアリ? どうしてあの子がそんなことを……?」

 それは、僕にもわからない。一体何がどうなっているのか。

 ただひとつ、わかることと言えばメアリが一番、今の状態をよしとしていないということだ。

 だからこそ、ああいう行動にまで出たのだろうから。

「わかりません。でも、これだけははっきりと言わなければいけないのだと思う」

 呼吸が荒くなる自覚はあった。指先が震える。

 緊張が全身に広がっていく。筋肉が緊張する。

 それでも、なんとか拳を握り、僕は言う。

「――いい加減に、前を向いて生きてください」

 みるみる内に、風間さんの表情が険しくなっていくのがわかった。

 僕は思わず目を瞑ってしまう。普段から温厚な人が怒ると怖いというのは本当のことなのだろう。

 いや、それ以前の問題だ。全くの他人からこんなことを言われてしまえば、誰だって怒って当然だ。

 僕は今、そういうことをしている。

 しかし、一度放った言葉を取り消すことはできない。

 僕はただ、甘んじて受け入れるしかないのだ。風間さんからの罵倒を。

 そう、覚悟していたのだけれど、そんな僕の覚悟とは裏腹に何の罵詈雑言も飛んではこなかった。

 風間さんはただじっと、僕を見ていた。

 相変わらず険しい表情のまま、何かを考え込んでいるのだろうか、視線が定まら成っていない様子だった。

「あの……大丈夫ですか?」

「ええ、はい……もちろん」

 おそらく、今この瞬間は僕だけには言われたくないであろう言葉だっただろう。

 しかし、他に人もいないのだから僕言うしかない。

「……メアリが、これを望んでいたと言いましたね」

「はい、その通りです」

「あの子は……君になんと言って頼んだのでしょうか?」

 なんと言って、と訊かれると困ってしまう僕だった。

 なぜなら、僕は英語が苦手だ。メアリとは直接意思疎0-ーーーーーー通できたわけではない。

 通訳をしてくれた神谷先輩だって、それほど英語が得意というわけではないし。

 僕が困っていると、風間さんはフッと表情を柔らかくした。

 なんだろう、と思っていると、彼はふぅーっと大きく息を吐く。

「……世の中には、不思議なことがたくさんあります」

「え? ええ……まあ」

 それはそうだろう。僕の周りにも、不思議なことは多々ある。

 最近では、その不思議な人々と顔見知りになることもあるくらいだ。

「こんなことを言う人がいます。人の人知を超えた、魔訶不思議な能力を持つ人々がいる、と」

「それって……」

「実際にそんな人々がいるか否かはわかりませんが、もしかしたら、という気持ちはありますね」

 風間さんは頭のいい人なのだと思う。だからこそ、そういう人がいることを直感として感じているのだろう。

 そして、同時にそれは彼にとってどんな意味を持つのか。

「魔女……と言ったりするそうですよ、そういう人たちのことを」

「そうですか」

「ん? あまり驚かないんですね。もしかして、知っていましたか?」

 知っていた。魔女やらなんやらと呼ばれている人がいるのだということは。

 大昔から、迫害の対象になっていたのだということも。

「それは……悲しいことなんですかは?」

「悲しいこともあったみたいですね。だから、魔女と呼ばれる人々は正体を隠してひっ そりと生きてきた」

 そうしなければ生きていけなかったから。

 風間さんはそう結ぶ。終わりの言葉だけが、やけに実感がこもっているように感じられたのは気のせいだったのだろうか。

「さて、話は終わりにしましょう。こんなこと、なんの意味もない」

「そんな……」

 意味がないって……あなたのことに、少なくとも三人の人が心を砕いている。

 それを、必要がない、意味がないと切り捨てるのは違うのではないだろうか。

 余計なお世話と言われればそれまでだ。でも、だからこそ僕が言わなくてはいけない。

「……そんなことをあなたが言ってはいけない」

「真壁君? 一体何を……」

「確かに失ったものは大きいかもしれない。悲しみは消えないのかもしれない。それでも、あなたにはあなたを心配して、心から心配してくれる人たちがいる」

「……止めてくれ」

「いいえ、止めませんよ。僕は――」

「だから、止めてくれと言っているだろう!」

 風間さんが大きな声を出す。おそらく、僕は初めて聞く。

 彼自身、そうそう声を荒げることはないのだろう。自分でも驚いている様子だった。

「いいんだ、その話は終わった」

「いや、終わってないですよ。僕は、まだ納得していない」

「……君には関係のないことです」

 務めて冷静に振る舞おうとする風間さん。けれど、それはかなわなかった。

 なぜなら突然、僕の背後から小さな影が飛び出してきたから。

 なんだ、と思った次の瞬間、その金色の小さな影は風間さんに突き当たる。

 彼の足下に、勢いよく。

「なっ……メアリ、どうしてここに」

「そういう言い方はないんじゃないかな、住吉君」

 振り返ると、鳳さんがいた。呆れ顔で、どこか疲労を滲ませて。

「せっかくここまで言ってくれているのに、失礼だと思わないのかね?」

「……なんと言われようと、ボクの考えは変わらないよ。それに、彼には無関係なことだ。それを君と来たら……」

「ふむ……つまりは私のせいだと、そう言いたいわけだね?」

「そうは言わないさ。けれど、多少は責任があると思うんだ」

 風間さんは淡々と、鳳さんに告げる。

 鳳さんはそれを聞いてもなお、悠然としていた。

「この際だから言わせえてもらうけれどね、住吉君。君はもっと未来を見た方がいいと私は思うのだよ」

「未来……未来と言うと?」

「もちろん、未来さ。何も真澄のことを忘れろとは言わないが、いつまでも忘れられないというのは最早固執しているのと同じことだよ」

「固執……」

「妄執と言ってもいいかもしれないね。君は呪われている」

 鳳さんの言い放った言葉は、あまりにも衝撃的だった。

 言われた本人の風間さんはもちろん、僕ですらぎょっと目を見開いた。 

 何もそこまで言わなくても。そう言いたかったけれど、僕のその言葉は続く鳳さんの言葉に遮られ、結局は飲み込むしかない。

「君の今の姿を真澄が見たらどう思うだろう? 彼女こそ、誰よりも未来というものの重みをわかっていただろう」

「でもね、ボクはそんなことをできるほど強くはないんだよ。彼女のことを忘れずに、新しい人生を歩むだなんて……」

「しかし、君はそうしなければならない。もし本当に真澄のことを想っているのなら」

 鳳さんの言葉は、あまりに厳しかった。彼女は誰より、風間さんの再起を願っているのだろう。

 過去に縛られる彼ではなく、未来を見つめる彼を。

 なぜそこまでするのかはわからなかった。もしかしたら、亡き佐々原さんとの約束なのかもしれない。

 何にせよ、僕はただ、見守るしかなかった。

 風間さんが今後どうするか、その決断を。

 その時だった。メアリが口を開いたのは。

 彼女が口にした言葉を、僕は聞き取ることができなかった。

 それはひどく小さな声だったし、異国の言葉だったし、何より、聞いてはいけないようなことのように思えたから。

 だから、僕はじっとふたりを見つめていた。風間さんとメアリ、ふたりを。

「……どうして、そのことを」

 風間さんが信じられないと言うように、目を見張る。

 一体全体、メアリは何を語ったのだろう。僕にも、おそらく鳳さんにもわからないことだと思われる。

「一体、誰からそのことを……」

 風間さんの口から呆然と発せられるその一言に、しかしメアリは首を傾げるばかりだった。

「……君か?」

「何のことかわからないね」

「あ、ああそうか、そうだね……それは僕と彼女だけが知っていることのはずだ」

 風間さんは信じられないものを見るような目でメアリを見ていた。

 まさか、とか、でも、と何かを呟いている。

「あの、鳳さん……メアリの出身って?」

「ああ、あの子はとある田舎の村の出身なんだ。遠い国の片隅の。そこであの子は迫害を受けていたんだよ」

「迫害……」

 その言葉の意味するところを、僕は想像だにできなかった。

 たぶん、その一言だけでは片づけられないことがたくさんあったに違いない。けれど、それをつまびらかにすることは誰にとっても幸福とは思えないことだった。

 つまり、メアリは風間さんとは逆の立場にいると言えるだろう。

 彼女は過去から逃げることが重要だった。僕はメアリについて何も知らないけれど、そう直感した。

 風間さんとメアリは、更に二言三言、言葉を交わす。

 そうすると、がくりと風間さんが膝を折る。わなわなと彼の体が震えている。

 何を聞かされたのだろう。彼の目尻には涙があふれ、流れ出した。

 ぼろぼろと涙を流しながら、嗚咽する。その姿に、僕は呆然としていた。

 鳳さんは、真剣な表情でその様子を見ている。その表情からは、どんな感情も読み取れなかった。

 果たして、彼女は今、何を思っているのだろう。

「ありがとう……」

 風間さんはそうつぶやいて、メアリを抱き締める。

 ありがとうありがとうと何度もつぶやいているが、メアリには果たして通じているのだろうか。

 そんなことは、問題ではないのかもしれない。言葉の壁は、案外いともたやすく越えられるものなのだろう。

 さて、メアリはなんと言ったのか、想像する以外に、仕方がなかった。

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図書室の魔法使い 伏谷洞爺 @kasikoikawaiikriitika3

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