実話・第六感に命を救われた私とあの日の顛末
柴田 恭太朗
1話完結 納得していないが第六感は確かに存在した
大自然の中、機械の馬を駆る。
緑が濃い原生林を抜ける一本の砂利道。粗いブロックパターンのタイヤが、路面にまかれた細かい砕石を噛み、埃を巻き上げる。スピードが七十キロを超えると、リアタイヤが半ばグリップを失って左右に尻を振り始める。
そんなときは絶対にハンドルを力で押さえてはいけない、さもないと前輪が暴れて転倒すること必定。転倒した体はバイクとともに砕石の上を滑り、自分の体で血と肉との紅葉おろしをまき散らす羽目になる。ではどうするか? 左右に暴れるタンクを両ひざではさみ、ハンドルを握る肩の力を抜けばいい。後輪が蛇行しても車体は直進する。バイクとは、そういう物理法則に基づいた乗り物なのだ。
ここは北海道。私は大学の夏休みを利用してバイクツーリングに来ていた。交通量の少ない道路は、山間部に入ると快適なアスファルト舗装とおサラバしなければならない。その代わりに現れるのが砂利道であり、例の白い路傍の立て札だ。
曰く、『クマに注意』
曰く、『親子熊出没』
白地に赤く手描きされた警告文が、幾度も目に飛び込んでくる。北海道ツーリングの計画を練ったときも、さんざんガイドブックで読んでいた。文字の意味はわかる。けれどまったく実感が伴わない。そりゃ北海道なのだ。ヒグマだってキタキツネだってエトピリカだっているだろうと他人事のように思っていた。
ところがいざ原生林の中を単身でバイクを走らせてみると、途端に熊出没の文字がリアルなイメージをともなって膨れあがる。私は、バイク雑誌で読んだツーリングレポートを思い出した。
曰く、『それはほんの五分間でした。バイクを停め、写真を撮って戻った私の眼に映ったのは横倒しになった大型バイクと、ザックリと切り裂かれたタンクバッグ。やられましたヒグマです』
二百キロを超える大型バイクを弄び、丈夫な防水バッグの生地を切り裂く暴力的なツメ。エサを求めて荒々しく嗅ぎまわるヒグマの鼻息すら聞こえるようではないか。たった五分の隙ならば、まだ熊はライダーを襲える距離にいたはずだ。考えるだけでゾッとする。
国道とはいえ、ここは彼ら野生動物の版図。動物の
今日も朝から何時間も山道を走ったが、一人として人間を見ていなかった。話し相手のいないソロツーリングでは、恐れをいだいてもそれを共有して気を紛らわせる仲間がいない。挨拶を交わす他人すらいない。私が対峙しているのは埃っぽい山道と深緑の原生林と、そしてどこかに潜んでいる野生動物だけだった。
『クマ出没注意』
また立て看板があった。バイクを走らせながら、いま私は野生動物と同じ空気を吸っていることを意識する。ひょっとするとあの笹薮で
そのとき私はホンダカラーである真紅のオフロードジャケットを着用していた。このジャケットは丈が長く、土埃の侵入を防いでくれる。また取り出しやすいポケットが多数ついているところも具合が良い。私はそのポケットの一つに折りたたみナイフを忍ばせていた。その目的は、
――ヒグマ対策。
そう話すと皆笑う。折りたたみナイフでヒグマに勝てるわけないじゃないか、と笑う。いやそうじゃない。違うのだ。野生動物になすすべなく喰われる前に、せめて一矢報いたいのだ。張り手のように襲い掛かるヒグマの掌でもいい、黒いビー玉のような眼でもいい、懐に飛び込めたなら心臓めがけて突き立ててもいい。必ず反撃したい。そのとき手にナイフがあるとないとでは、この世に残す未練の度合いが違うではないか。あの世も生まれ変わりも信じない理系大学生が見せる最期の意地である。
ざわつく心を抑えつつ、私はオフロードバイクを走らせた。エンジンは快調、ガソリンもたっぷりタンクを満たしている。行程に何も問題はない。
行く手に
ただ、バイクの進行方向に緑の樹々はなく、遠くかすむ山肌と青空が見えている。つまり道路を直進した先は崖になっているのだ。カーブを曲がり損ねれば、そのまま崖下へ転落する可能性がある。
すべての状況を勘案して、これ以上の加速は諦めるかなどと考えたとき、
それは訪れた。
痺れる電撃を伴ったわけでもない。神々しい鐘の音が鳴り響いたわけでもない。頭の中で霊的な何かに囁かれたわけでもなく、背筋を墨色の寒気が走ったわけでもない。むしろそれは心の中に湧きあがった穏やかな感慨だった。その感慨を言葉に書き起こせば、こんな気の抜けた言葉になるだろう。
(なるほど。この先に何かがある)
そこには身に迫った危機感も、それを知覚できたことへの打ち震える感動もなく、ただ平常心のまま私は『何かがある』ことを悟り、疑念を差しはさむことなく
私はバイクのアクセルを戻し、エンジンブレーキを利かせる。
ザリザリとタイヤのゴムが砂利を噛む音が原生林に響きわたる。砂ぼこりの長い尾を引きながら、車体が完全に止まったのは直角カーブの直前だった。
私はバイクにまたがったまま、しばし耳を澄ます。特に異常はないようだ。聞こえるのは股下でつぶやくエンジン音と微かな風の音だけ。意を決し、ノロノロとバイクを進める。カーブの曲がり角まで到達したところで、黒々としたそれが見えてきた。
土砂崩れ。
カーブの先に道はなかった。
土砂崩れといっても、道の上に土砂が積みあがっているのではない。道路そのものが二十メートルほどスッポリと消失して深い谷底へと落ち込んでいるのだ。黒く見えたのは、大きな穴を通して見えた向こう側の崖の土の色だった。
スピードを落とさずに突っ込んでいたら危なかった。カーブから崩落地点までの距離は短く、七十キロのスピードから停止することは不可能だ。あの不可思議な感覚を得なければ、私は戦隊ヒーローがジャンプするような姿勢で何ごとかを叫びながらカッコ良く落ちて死ぬか、パニックブレーキで転倒し紅葉おろしを散らしながら落ちて死ぬか。いずれにしても転落死の運命からまぬがれることはない。
九死に一生を得た私は、崩落した道路を見て冷や汗をかくわけでもなく、心臓が跳ね回って口から飛び出すわけでもなく、やはり冷静に
(なるほど)
とだけ思った。
私が経験した『第六感』は、かような状況で起こり、かように知覚したものだった。
道がないなら引き返すしかない。
しばらく砂利道を戻ったところで、私はこちらへ向かって来る黄色いパジェロに気づいた。崩落現場へ向かう建設省の車両だ。私がバイクのスピードを落とすと、パジェロもこちらに気づいて止まった。黄色のヘルメットに作業服姿の男性が窓を開けて私に手を挙げる。
「崩れてたっしょ」、日に焼けた笑顔の男性が言う。土地のなまりが温かい。
「崩れてましたね」、私も笑顔で返した。
どうやら私は通行禁止の柵が設置される直前に、危険な崩落現場へと走り込んでしまったらしい。彼らは道路封鎖処理が遅れ、私は崩落を知らなかった。最悪の事態は不思議な第六感で回避できた。それでいいではないか。
工事車両の男性も私を互いを咎めるわけでもなく、笑顔のまま手を振って別れた。
引き返す道すがら、あそこでなぜ虫の知らせ、第六感を得たのか考えた。道端の警告文には熊のことしか書いていなかった。そんなヒグマ・コンシャスな山道にあって、なぜ道路が崖下に落ちてなくなっていることを察知できたのか。いや正確には察知ではなく(なるほど)と謎の得心をしただけだったが。
北海道から帰った後も考え続けた。残念ながら二度と同じ知覚を得ることはなく、未だに答えもでていない。キザな言い回しかも知れないが『自然と渾然一体になったから』というのが、今のところ最も受けいれやすい答えだ。太古の昔、ヒトはそんな感覚とともに暮らしていたのかも知れない。人間の体内に備わっているセンサーが、原生林の中で孤独な旅を続けたことによって研ぎ澄まされ、その一瞬だけ復活したのかも知れない。
◇
それから長い年月が経ち、あるとき私の子どもに北海道で経験した事件を話して聞かせた。
「ふぅん」
おやつのプリンをスプーンで口に運びながら聞いていた子どもは、分かったんだか分かっていないんだか判然としない感想を鼻先で述べ、「ごちそうさま」と言ってどこかへ遊びに行ってしまった。
もしあのとき第六感が働かなかったら、お父さんは北海道の深い深い崖下にバイクとともに転げ落ちて、お腹を空かせた親子熊の晩御飯かひょっとすると一晩寝かせたオツな味の朝ご飯にもなって、君は生まれてこなかったんだよ?
それなのに「ふぅん」程度の価値ですか。私の第六感は。
いや待てよ。ひょっとして、もしかするとだけど、子どもたちにとって第六感が働くのは当たり前ってこと? なのだろうか……。
実話・第六感に命を救われた私とあの日の顛末 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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