降壇

米山

降壇

 空に放ったボールはなだらかなアーチを描いて洋介の視線上と遠くに見える山の尾根の交差した点へ流れていく。点を結んだ線は焦点の結び目で揺動と共に絆されるよう緩み、空想のボールは空想のゴールへと吸い込まれる。

 ガコン。

 ボールはリングに弾かれて重力を失い、遠く彼方へと消える。あとにはリングさえも残っていない。空はありのままの空であった。

「お父さん、僕バスケしたい」

 数日ほど前に裕太が言った言葉は、洋介の頭の隅に少々入り組んだ陰影を映し出していた。それは洋介の褪せた記憶、セピア色に見えるそれらが元々煌めいた色彩をしていたと思えるのは、遠い青春への憧憬だろう。今となって思いだすのは、くすんだ色素の上から見える奇妙な虚実を伴った痕跡でしかない。

 中学三年の初夏、上越地区大会、準決勝。勝者はそのまま決勝へと駒を進め、県大会への出場を確定させる。県大会は決勝出場校のみしか出れないため、それは先輩たちの代からの目標でもあった。いわば、洋介たちのチームの集大成とも呼べる試合である。4Q、タイムアウト明けの残り二分、洋介たちのチームは六点差で負けていたが、チームの勢いは衰えていなかった。一本のスリーポイントと二本のフリースロー、身魂投げうったディフェンスの甲斐あって点差は一点まで縮まり、時点で残りは十七秒。最後のタイムアウトを挟んで、オフェンスからのスタートだった。残り十秒ほど、エースの西宮が右サイドからやや強引なドライブでシュートを狙いに行くが、笛は鳴らない。しかし、良治がなんとかリバウンドをもぎ取って、完全にフリーであった洋介にボールを渡す。洋介が最も得意とする左四十五度のミドルレンジだった。洋介はシュートを打つ。リングとゴール以外には何も見えていなかった。この時、やけに体感時間が長いとか、周りの選手の顔をくっきり憶えているとか、そういう風なことは何もない。普段と変わらない何気ないシュートの一つのように思ったことを憶えている。ただ、そのシュートを打った瞬間の指先の感覚や、体育館と人間の匂い、リングがボールを弾いた時の鈍い音などは、木霊のように記憶の節々を刻んでいる。これだけ意識に近いところで記憶が封されるのをとても不思議だと感じた。そして、現実というのは時に誇張された虚構すらも超えて、ただひたすらに虚無を孕むのだと知った。


 家に帰ると裕太が走って出迎えた。「おかえり。今日はカレーだって」

「匂いで分かったよ。車庫からでも分かった」

「嘘? 僕も行ってみる」

 洋介は車庫まで走る裕太を見送って風呂場へ行く。「おかえり、洋介さん。裕太どこに行ったの?」キッチンから妻の聡美が呼びかける。大好きなカレーの匂いが車庫まで届いているのか検証に行った、と言うと聡美は阿呆らしそうに笑った。「分かるわけないじゃない」

 洋介が脱衣所で服を脱いでいると、裕太は車庫からの勢いを切らさずに脱衣所へ飛び込み、「すごい! カレーの匂いがした」と息を切らしながら言った。

「それはきっと服についた匂いだな」と洋介が言うと、裕太は自分の服の匂いを嗅ぎ、寝間着に着替えようとする。洋介はそれを止めて汗ばんだ裕太のシャツを脱がしてやった。「裕太、風呂まだだろ。風呂あがる頃にはカレーも出来てるよ」

 二人は湯船に浸かる。裕太はパシャパシャとリズミカルに水面を指で弾く。「お風呂のもと入れていい?」

「いいよ」

 裕太は入浴剤をかき混ぜながら遊んだ。水の色が薄い桃色へと変色していく。

「お父さん、僕バスケしたい。ハルキ君に誘われたんだ、学校のクラブ」裕太は言う。「今日も昼休みにね、ハルキ君とレン君と、あとアキト君とバスケしたんだ。楽しかった」

「へえ」洋介は湯をすくって顔を洗う。「何が楽しかった?」

「シュート」

 裕太の即答に洋介は少し言葉に間を開ける。「へえ」。そして裕太が体育館の黄ばんだミニバス用ゴールにシュートするところを想像した。へっぴり腰で打つシュート。「届くのか? ゴール」

「近くなら届く」

「へえ、大したもんだ」洋介は言う。「楽しいか」

「楽しい」

「全然シュートが入らなくても?」

 裕太の水を弾く指の形がいつの間にかボールを持つ手に変わっている。「うん。僕はたまにしか入らないけど、ハルキ君は半分くらい入る。あと、レン君もちょっと入る」

「レン君はなんでもできるね」洋介は裕太の保育園からの友だちであるレン君のことを思い浮かべる。洋介と違ってかけっこの早い子だった。

「レン君はすごいよ。もうドリブルも出来るんだよ」

 裕太の手が今度はピッチの細かいスナップを描く。「僕は五回くらいで終わるけど、レン君はずっとやってる」

 洋介は水中でドリブルをする裕太の手の甲を見つめている。「レン君はすごいね」

「まあね」裕太は自分が褒められたかのように笑う。「でも、僕もレン君も、クラブに入ればすぐにもっと出来るようになるし、シュートだって入るようになるし」

「そうかなあ」

 洋介は笑みを浮かべる。「そうだよ」と裕太は言う。

「レン君と、一緒に入ろう、って。レン君もハルキ君だけシュートが入るのは悔しかったって」裕太は続ける。「だからさ、いいかな? 学校のクラブ」

「まあ、お母さんにも聞いてみてな」洋介は言う。「お母さんには聞いてみたのか?」

「ううん」

「練習は夜もあるんだろ? 送り迎えだってお母さんにお願いしないといけないし」

「自転車で行くよ」

「駄目だ馬鹿。夜は危ないだろ」洋介は口を曲げながら言う「それに裕太、補助輪なんてつけてたらレン君に笑われるぞ」

 裕太はドリブルしていた手で大きく水を弾く。

「自転車もすぐに練習する!」


 裕太は泣き虫な男の子だった。自分だけ逆上がりができない、側転ができない、鬼ごっこでいつも鬼になる……とかく、裕太にとって何か不都合なことがあると(運動に関することが多かった)、布団にくるまって頑固にいじけた。

 洋介はそんな裕太に幼き日の自分を重ねていたが、洋介とは違うところが一つあった。

 裕太は先天的に阿呆なのである。故に、何かを失敗していじけても翌日にはケロっとしていることがほとんどだった。何かを始めようとするとすぐに壁に当たって辞めていく癖に、性懲りもせずまた新たなことに挑戦していく。自信だけは一丁前なので過去の失敗に怯まない。良く言えば好奇心旺盛、悪く言ってしまえば無鉄砲。聡美は「裕太のその自信は一体どこからやってくるの?」と言って笑った。裕太はその言葉の意味が分からずにぽかんとしていた。

 洋介はその裕太の向こう見ずなところが好きだった。逆上がりが出来なくても跳び箱なら出来るかもしれない、と果敢に挑戦していく裕太が愛おしかった。自分にないものを持っていることが誇らしかった。少々、親バカ的なところもあるかもしれないが。

 して、その裕太がバスケットゴールに向かって何度もシュートに挑戦したということは、洋介にとって大きめの衝撃だった。自分に出来ないとみるとすぐに別のことを始める裕太が、たとえ数日でも毎日シュートに挑戦しているのだ。継続的な挑戦心というものが裕太に生まれたのは純粋に喜ばしいことであったが、反面、洋介には少し不安に思うところもあった。

 どちらかと言うと、洋介はあまりバスケが好きではなかった、と言うと少し語弊があるかもしれない。もちろんそれを介した友人と戯れるのは、一人の男子学生として月並みな青春を楽しんだ。しかし、そこにバスケがある必要性はなかったのだと思う。洋介が自分からバスケの練習をすることは殆どなかったし、プロの試合などにもまるで興味がなかった。それでも、初めのうちはやっぱり楽しんだはずだ。しかし、そのうち楽しいことばかりでもなくなってくる。走ると疲れるし、ミスすると怒られるし、全然自分のしたいプレーが出来ない。意気地なしの男の子であった洋介は、ただ練習をこなしているばかりであまりバスケ自体を楽しいと思えた記憶がないのだ。

 もし、バスケにのめりこみつつある裕太がクラブに入って挫折をしたら――バスケを楽しいと思えず、自分の運動神経の悪さに気がついて消沈するようなことがあったら――それは裕太に大きな影響を与えるだろう。少なくとも、以前のように根拠のない自信に満ちるような子にはならないはずだ。

 洋介はそれを深く恐れた。


「いったい何用でござんすか? お前から、珍しい」

 村山良治は言った。彼は洋介の中学時代のクラスメートで、同じ会社の同僚でもあった。良治の行きつけの店がなかなか混んでおり、別の居酒屋を選んだため少々不服そうである。「お前、昇進するんだって? まあ元々主任に近いことやってたしなあ、エリートは流石に違うね。はあ、俺も聡美ちゃんみたいに綺麗な嫁さんもらってバリバリ稼いでいきたいんだがなあ。どうもね」

「その割には素振りが見えないな」

「それは仕事の話か? 嫁の話か? もし後者のことを言ってるんだとしたら、お前。言っていいことと悪いことがあるって、しっかり教えてやらねばならん」

 洋介は軽く右手をかざす。そして運ばれて来た串揚げに手をつける。

「良治、お前中学の部活のこと憶えてるか?」

「どうした藪から竹串に」良治は串揚げの中身を推察しながら言う。「そりゃあお前、憶えてるさ。あんな蒸し暑い体育館で、よくもあれだけ走ってたもんだよ」

「最後の地区大会」

「は?」良治は顔をしかめる。「ああ、はい。ああ、憶えてるよ。確か城ケ崎だろ? 確か、スゲエ接戦で負けた」

「残り十七秒で一点差。西宮のドライブの後に俺がノーマークのシュートを落として負けた」

「おぅおぅ、お前、よく憶えてんな」良治は言う。「それで、何?」

「いやさ、ふと思いだしたもんだから」

「そうか」

 良治はしばらく一つの串揚げを吟味していた。洋介はそんな良治を横目にサラダを摘む。

「でもなあ、そんなんだったかな」

「何が?」

「俺はさあ、健ちゃんがフリースローを外して負けた気がするんだけど」

良治は串揚げを見つめたまま動かない。

「ううむ。いいや、そうだ。お前がシュートを外したのはその前だって。あれ? どうだっけ? そしたら準決まで残れてないか。というか、そもそも一点差だったか?」

「一点差だよ、城ケ崎は」

「お前、筒井戦と勘違いしてないか? あれも確か」

「いや、筒井は違うよ」

「筒井だよ。城ケ崎はそもそも途中で西宮が足を捻ったろ」

「捻った?」洋介は思いがけない言葉に耳を疑う。「それは」と言いかけて、洋介は西宮が足を捻った光景を思い出した。「それは」そして、それが間違いなく城ケ崎中学との試合だったことも思いだした。

 記憶に齟齬が生じて洋介も段々と確信を持てなくなってくる。「それは……、あれ? そうだっけ」

「そうだ、間違いねえ。それでチームファールが五つで健ちゃんのフリースローで」良治は右手人差し指をくるくると回しながら言う。「……あんまし思いだせんな」

 良治は串揚げの選別を終えたらしく、魚介類のものをこちらの皿に寄越す。

「それにしても、あの頃は楽しかったねえ。ノスタルジイだ」

 良治の目は海岸沿いの遠い日の入りを眺めているようだった。洋介は良治の懐古につられて物事の判断にバイアスがかからないように(それにはアルコールを含まないための意図もあった)、早々に話を切り出す。

「裕太が……うちの子供がバスケをしてえって」

「ふうん! もう小学生か? 裕太は」

「来年から二年生」

「しばらく会っていないうちにもうそんなか! たまげたな」良治は言う。「バスケ、いいじゃん。お前が教えてやれよ」

「ふうん。そうだな」

 洋介は言う。そして自身の声のしわがれ具合に自分で驚く。

「なんだ、その煮え切らない感じは。爺みたいな声出して、何か不満でもあるのか」

「別に、不満ってほどでもないんだけど」

「何だよ」

「裕太が挫折するのが心配だ」

 良治は酒を呷って、少し間を開けてから噴き出すように鼻で笑う。「はははは、はは。おいおい、始める前から挫折の心配かよ。過保護だなあ」

「重々承知の上だよ、そんな笑うなよ、汚えな」

「はは、すまん、すまん」良治は言う。「まだまだ父親七年目だもんな」

 洋介は何も言わずに店員に追加注文をする。

「悪かったよ」良治は言う。「でもさ、挫折なんて誰もが通る道さ。それがバスケだろうが何だろうが変わらねえよ。いいじゃんか、別に」

「それも分かってるけど」

 洋介は依然として煮え切らない態度を取り続ける。馬の耳に念仏、犬に論語。こうなった時の洋介には何を言ってもあまり意味がないことを良治は知っていた。人に相談をするくせに話を聞かないのだからタチが悪い。ただ、洋介は何か問題を抱えてもひとりでに解決していることがほとんどだったので良治は大した心配もせず、呆れたように顎を撫でて追加で生ビールを注文する。「どっちが駄々っ子だか」

「結婚もしてないお前に相談なんてするんじゃなかったよ」

「おいおい、経験のなさで人を責めるなよ。まあ、それもその通りなんだがな。ガハハ。そりゃそうだ、その通りだ、その通りさ」

 良治は若い女性の店員からいやらしい手つきで生ビールを受け取る。

「お前が間違ってるよ。飲もうや。心配事なんてするだけ無駄だぜ」良治は言った。「それにしても、今何してんだろうな、健ちゃんや西宮は」


 記憶とはなんて曖昧なものなんだろう、と思う。あのシュートがいつ放たれたものなのか、明確に思いだすことが出来ない。分からない。実際に俺がシュートを放ったのは別の場面だったのかもしれないし、そもそもそんなシュートは存在しなくて、それは幾つか、何かの記憶がねじ曲げられて造られた淡い残像みたいなものなのかもしれない。それは何度も思いだすうちに焦げ付いていった記憶の残骸のように思える。ただ、なんら裏付けがなかったとしても、あの感触だけは本物だったと確信している。あの感覚は紛れもなく十代の俺に訪れた太兆で、それは未だ頭の片隅に在り処を求めて絡みついている。

 ダム、ダム、ダム。

 ドリブルがいつまでも下手くそで上達しなかった。その場でのドリブルならつけるが、素早い動きを伴った低い位置でのドリブルが出来ない。一瞬でも気を抜くとボールはすぐにあらぬ方向へ転がっていく。ただただドリブルの練習が嫌いだった。シュートの練習の十倍はつまらないと思っていた。

 ダム、ダム。

 ボールのキャッチも苦手だった。先輩の強いパスが苦手で、いつもパスを取る瞬間は緊張していた。キャッチをミスすると、みんなが溜息をつくのだ。試合でも、練習でも。パスアンドランの練習ではミスをしたチームにペナルティがあったから、俺と組みたがる人はあまりいなかったけかな。

 ダム、ダム、ダム。

 長い距離を走るマラソンみたいなことは嫌いではなかったけれど、人と競うことがどうも嫌だった。自分のペースで、走りたいように走らせてくれれば。どうしてあんなに規則めいた走り方をしなければならなかったんだろう。おかげで以降長距離走に苦手意識がついた。

 ダム。

 ディフェンスの練習も嫌いだった。腰を落とせ、前を視ろ。脚を動かせ。

 ダム、ダム。

 シュートは人一倍練習はした。人よりも成功率は良かった。シュートの練習になると、他の練習よりは比較的マシというか、まあそれなりに楽しかった。シューティングだけなら、俺はいつまでもやっていられたと思う。

 ダム、ダム。

 畢竟、バスケットは楽しかった。走り込みも、叱咤も、前時代的な縦社会気質も、嫌なことばかりであったが、それでも楽しかった。西宮と馬鹿ばっかりやったことも、健ちゃんと大喧嘩をしたことも、一人でシュートの練習をしたことも。

「起きてたの?」

 聡美はキッチンの明かりを点ける。「寝ぼけてるのかと思った。どう? シュートは入った?

「起きてるよ」

 洋介は掲げた腕を下ろしてソファから起き上がろうとするが、鋳型に流し込んだような頭痛が滔々と側頭部に伝う。「……裕太から聞いた?」

「バスケの話?」聡美は言う。「いいじゃない、友達も増えるだろうし。洋介さんも昔やってたんでしょ?」

「よく憶えてるね」洋介は聡美の中学時代の話なんてほとんど憶えていなかった。そんな話したのかもあやふやである。酔いのせいでうまく思いだせないだけか。

聡美はカップに牛乳を注ぎ一分暖める。ジリジリとした電子レンジの音がリビングに響いた。「洋介さんも何かいる?」

「水だけもらえるかな」洋介は身体を起こそうとするが、背中の中心辺りから来る気怠さが身体を根底から縛り付けているみたいで、中々起き上がろうという気持ちになれない。まいったな。

「テーブルのところに置いておいて」

「薬とか用意しようか?」

「いいよ、ただの悪酔いだ。寝れば治る」

「そう」聡美は五百ミリのペットボトルをテーブルの上に置く。洋介の方をチラと見るが、片手で顔を覆っているためその表情は汲みとれない。

「でもさあ」と洋介は小さな口を開く。「でも、裕太はやっぱり運動神経が悪いから、色々と苦労して嫌な気持ちになることが多くなるかもしれない」

一瞬、聡美は洋介の子どもっぽい声にたじろいだ。酔っているとはいえプライドの高い洋介がこんな態度を見せるのは珍しかったし、舌ったらずな感じがいつもよく聞く裕太の声にひどく似ていたのだ。

「それくらい」聡美は動揺をごまかすように笑う。「幾らか苦労を知っていた方がいいのよ」

「でもそれはとても辛い」

「本当に辛かったら、すぐに辞めればいいのよ」

 聡美は駄々をこねる裕太をなだめるように言った。「それにほら、運動神経なんて大縄跳びに引っかからないくらいのものがあればいいのよ。運動しているうちに勝手に身体も動くようになってくるものよ」

「そうかな」

「そうよ」

「そうかな」洋介は起き上がってテーブルの上の水に手を伸ばす。「俺はさ、分かってるんだよ。結構、いろんなこと。裕太の意志も、裕太の成長も。だからさ」

「分かってる」

 聡美は小さな溜息をつく。「でも、早いものね」。聡美はなるべく柔らかな声で「おやすみ」と言ってキッチンの明かりを消す。

一人になった部屋で洋介は再び横になった。


「どこ行くの?」裕太はシートをリクライニングさせて遊んでいる。「お祖母ちゃんち?」

「お祖母ちゃんの家にも行くけどな」

 洋介は信号が赤になったタイミングで助手席に置いていたバスケットボールを裕太に渡す。スポーツ用品店の入り口のカゴで雑多売りされているような千円程度の安い五号球だ。

「え? ボール? バスケするの?」

「おう」

「どこで?」

「すぐ着くさ、お婆ちゃんの家の近くだよ」

 洋介は公園の側の駐車場に車を停める。「ゴールがある公園って、結構珍しいんだぞ」

裕太はドアを開けてバスケットゴールまで走りだす。何度かドリブルをついてみるが、数回程であらぬ方向へと跳ねていく。ドリブルを諦めてゴールの側からシュートをしてみるが、あんまし力強かったせいでボールはリングに弾かれて遠くへ飛んでいく。裕太はそのボールを追いかける。

そんな裕太の姿を見て、洋介は新鮮な気持ちになっていた。自分が思うほどのものでもない、杞憂、というよりかは、潔く諦めきれた時のようなすがすがしい予感。秋雨の残り香のように、ふと気がつくと腑をくぐる。

 裕太は自分ではない。

 それは当たり前のことであるのだが、洋介は改めてそう思った。もちろん、裕太は父似で、洋介に似ている所が多々あった。洋介も何かと自分の影を裕太に重ねるきらいがあった。ただ、父親になって役割としての自分を演じることが多くなったのも気のせいではない。

「全然入らないなあ」

 洋介は言う。裕太はムッとして「十回に一回は入るもん」と言ってシュートをするが、何度打ってもボールはリングに弾かれる。

「お父さん打ってみてよ」裕太はそう言って洋介にパスを出す。

洋介は足元に転がってきたボールを拾って、何度かドリブルをしてみる。そして、腕の前で小さなボールを構える。こうしてフォームを構えるのも何年振りだか分からない。ゴールの手前側に照準を定めて、ボールに左手を添え、右手の肘を肩の辺りから真っすぐ突き出す。想像の上ではかなり上手くフォームを作れているのだが、実際はそうにもいかない。身体は思うように連動せず、ぎくしゃくと機械仕掛けのようにぎこちなかった。しかし、手首を曲げてボールが指から離れる最後の一瞬、ざらざらなボールに指が掛かる確かな感触は、忘れることのない憧憬の一つみたいだった。

 悪くない。

 ボールは高い秋空の青に緩やかなカーブを描く。その先のゴールは幻想と重なる。

 パツン。

 裕太はゴールの側でシュートを打つ父を見ていた。「お父さん、すげえ」。そして転がるボールを追った。「お父さん、バスケできたんだ! 知らんかった」と言い、ボールを構えて先ほどの洋介を模倣するように肘を上げる。

「昔やってたんだよ」

「なんで教えてくれなかったんだよ」

 裕太は再びゴールの下まで行き、何度かフォームを確認する素振りをして(ひどく不格好だった)、シュートをする。ボールはリングに弾かれる。

「角だ、角。後ろの板の、黒い四角の角を狙ってみ」洋介は言う。裕太は半信半疑で「あそこ?」と指を差す。「そこ。ちょっと強めで」。

 裕太は首を上げながら数歩後ろに下がり、黒の四角を見つめる。そして、その角に向かってボールを放つ。それはシュートとは到底呼べそうにない不格好なスタイルだったが、ボールは小さなネットを揺らした。

「すげえ、入った!」裕太は嬉しそうに笑って、何度も同じ場所からシュートを繰り返す。先ほどよりはよくゴールに向かうようになっていた。

「よかったな」洋介は言う。「この後、バッシュでも買いに行くか」

「バッシュ?」

「バスケをするためのカッコイイ靴だよ」

「ふうん」

 何度もシュートを繰り返す裕太を、洋介は端のベンチで長いこと眺めていた。

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降壇 米山 @yoneyama

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