出所飯~娑婆の飯ってこんなにおいしかったっけな~

にゃしん

第1話

「お世話になりました!」

 ようやく朝日が山の稜線から顔を覗きだしたばかりだというのに、男は重々しい雰囲気で最敬礼をしながら言った。

 季節は三月。冬の終わりは近く、春は目前である。

 見送りには誰もいない。

 苔が生えた四角柱が建ち、その面には大きな楕円形の型枠があり、枠内は白で塗りつぶされている。そして明朝体で縦書きに黒で「Y刑務所」と人目で分かるようにかかれている。男が敷地から外へ出ると、遠隔操作によって門扉が動きはじめた。大人の背の二倍ぐらいはあるだろうかその、白く巨大な扉が右から左へと完全に締め切る音の後、しばしその余韻を感じた男は深呼吸をした。

 そうしてから大小の四角い建物が幾つか寄せ合って出来た無機的な建物を見上げる。周囲は鈍い茶色の塀が囲い、こちらは門扉よりも高い。

 七年間、ここでの生活は安易に語るべきではない。

 自分は生まれかわったのだ。やり直す機会をいただけたのだ。

 思わず感傷的になり、涙がこみ上げそうになるも口を歪ませて耐える。

 建物の塀の角からランニング中の中年夫妻が現れ、男の前を走り去る前に思わず目があった。そのまま走り去っていくが、遠ざかる背を見つめてしまう。

 知り合いでもなんでもないのだが、ありふれた日常に懐かしさを覚えると同時にどこか恥を覚え、足早に踵を返すと眼前の道をあてもなく歩き始めた。


 道は次第に大きくなっていった。

 その中で大勢の学生たちとすれ違う。

 高学年が率いる集団登校、黄色い声で談笑する中学生達。

 各々が向かうべき場所があり、目的がある。

 子供の時は無邪気でいられたのに、と男は少し心を痛めた。

 まばらで点在していた学生達の様相も変わりはじめ、高校生たちがこぞって駅を目指しているのだろう、軽快車で縦横無尽する中、男の腹は突然になり始めた。

 それは大きな音であったが、誰一人として構わず行き交う事をやめない。

「もうそんな時間か」

 刑務所内で朝食が出る時間は七時四十分。

 時計は元々持たない主義だが、今がその時であることは間違えない自信がある。

 とりあえずは飯だ。

 出所する際に頂いた七年間の労働賃金の詰まった茶封筒を人目をはばかる用にして、覗き込む。

 数枚の札が見え、内一枚は一万円であった。

 笑みが思わず漏れ、小躍りしたい気分になる。

 時給に換算すればあり得ない金額になるのだが、今はこれ以上悲観するつもりもなく、朝から開いてそうな店を探しはじめた。

 手っ取り早くチェーン店でも入ればいいのだが、出所祝は少し特別にしたい。

 幸い、この通りには個人店が点在しているようでまっすぐと伸びる道に独特な看板達が目立つ。

 もちろんその中から開店している店を探す手間もあるが、一先ず気になればどうであれ店を観察するのであった。

 ディスプレイに飾られるサンプル食品や単に写真を載せているものなど様々な創意工夫で客を楽しませてくれる。

 日常の風景も男にとっては一つとっても魅力的な宝箱に映るのであった。

「寄ってくかい」

 男の立つ店とは別の飯屋の店前で腰掛け椅子に座り、日向ぼっこでもしているのか御老体が声をかけてくれた。

 歯が幾つか抜け、丸メガネをしているその男性はやや厚手をし、ひざ掛けをしている。ひざ掛けの上には飼い猫だろうか白と黒の混ざる大きな猫が静かに寝ており、完全に安心しきっていた。

「メニューを見せていただいても、よろしいでしょうか?」

 刑務所暮らしの癖で大きな声ではっきりと答えてしまう。

 筋向かいの婦人服屋の女店主が店前で履いていた箒を止め、不審者でも見るような態度で凝視をしてきた。同調するかのようにご近所さん達も加わり、男に聞こえない声で有る事無い事を話し込み始めた。

 男は赤面してしまい、思わず顔を背けるも視線は一向に外れる気配がない。

「お前さん面白いな」

 御老体は怪しく笑いながらも、悪いようにはしないと手招きで男を誘う。

 男の方もこの場に居たたまれなく、好意に甘えることにした。


「いらっしゃいませ」

 店に入るとテーブルを行き来する店員とばったり出会った。

「お一人様?」

「え、ええ」

 緊張のあまり声がどもってしまう。

「あちらへどうぞ」

 案内された場所はカウンター席で正面に本棚があり、コミック本から週刊誌まで揃えてあり、右端には各社の朝刊がタオル掛けの要領で用意されてある。 

 男は新聞紙が近い席へと座る。仄かに温かい感触が臀部に伝わり、先程まで誰か座っていたのだろう。

 案内してくれた小太りの女性店員は他のテーブルから客が食べ終わった食器をトレイに載せ、厨房奥へと消えた。店内には男一人だけらしく、貸し切り状態となっていた。

 背もたれの無い丸い回転椅子に座り、適当に選んだ朝刊の一面を見る。

 国会議員に多数の記者達が群がり、質問攻めを受ける報道写真に変わらぬ世相を見た。書かれている事は何とは無しに理解できるものの、知らぬ単語の多さからかいつまんで予測しながら読み続けていると、お冷が置かれた。

「今はモーニングをやってますので、よろしかったらどうぞ」

 手渡されたメニューを受け取り、一番上のメニュー表にモーニングとでかでかと書かれてあった。どうもセットメニューらしくまずは基本セットを選び、次に主菜を選ぶ形となっていた。

 パンとバター、もしくはジャムのセットでこれが基本らしい。

 次いで主菜を見ると見慣れぬ料理が書かれていた。

「ホイルで包んだタラと鮭の合わせ味噌バター焼き」

 思わず読み上げてしまい、頭で想像する。

 恐らくはアルミホイルの中にタラと鮭があり、蒸し焼きされているのだろう。

「それうちのオススメなんですよ。他にもあるんですけど、初めてならぜひ食べて見てほしいです」

 店員が自慢気な顔で言う。

 オススメとまで云われたなら断り辛くなってしまう。

 しかし――パンに味噌か。

「また後で呼びます」

「はい。お呼びますの際はベルを鳴らしてくださいね」

 店員はエプロンのポケットから卓上ベルを手渡すと、再び厨房奥へと去っていった。

 男はまだ下に控えた二枚のメニューを見るも大して唆られるメニューもなく、横へと追いやった。

 モーニングの主菜は他にも定番のベーコンエッグやオムレツなど、いかにもなものが写真付きで紹介されている。

 ポップな吹き出しが描かれ、"バターたっぷり"や聞き慣れない産地のものを使用と大々的にアピールされている。

 副菜のサラダも塩豆腐を使ったなど、これもまた聞き慣れない材料だ。

 牢の中にいる間に世間はもちろん変わったが、飯までも波紋しているとは想像できないでいる。

 七年の隔たりは案外大きいものなのかもしれない。

 急いで追いつかなければ、また取り残されてしまう。

 男は意を決して、二つの未知へと挑戦することにした。

「すみ――」

 ベルを置かれた事などすぐに忘れてしまっていた男は無意識に手をあげて、声をあげようとしたが、そこで入り口のドアがあいた。

 二人の年配客であった。

 夫の方は白髪交じりでオールバックの髪型に整えた顎髭を少し伸ばしており、堀の深い顔をしている。一見すると日本人には見えない。黒のスーツに青の淡色のネクタイをしており、上場企業の役付を思わせる。

 妻の方はというと、失礼だがどこにでもいそうな風貌であった。

 とりわけ美人というわけでもないが、強いていうならば昭和アイドルが好んだ髪型をしている。服装も婦人服で若作りをしているわけでもない。

 またあの店員がそそくさと厨房から現れた。

 すぐに案内でもするのかと思えば、立ち話を初める。

 どうも常連客のようで聞こえてくる会話は、客の二人が宮崎に旅行へ行った話やもらった土産物の中身についてなど世間話ばかりである。

 男はそのやり取りを終わるまで暫く待つ事にした。

 彼らとは違い、別段に急ぐ理由がないのだ。

 まだもう少し続きそうな雰囲気を感じつつ、懐かしい漫画のタイトルを見つけた。

 時間を潰すのにちょうどいい、男は高校時代に流行った野球漫画を読み始めた。


「ええ、またその時はよろしくお願いしますね」

 店員が何度かお辞儀をして、ようやく二人をテーブル席へと案内した。

「すみません」

 男が去りゆく店員に片手を口に添えて呼んだ。

 立ち止まり静かに振り返ると目があった。

「注文いいですか」

「はい。伺います」

 小さな四角い付箋を用意し、ペンを持って準備した。

「ええと、モーニングにしてもらって。パンとマーガ――ジャムにしてもらって」

「主菜はどうされますか?」

 店員は聞きながら、早く選べといわんばかりにあのメニューを目線で訴えていた。

 男の方も既にその通りに決めていたので文句無しに指差す。

「これを。あとこっちはサラダのほうで」

 コンソメスープも捨てがたいが、塩豆腐なるものを食べてみたい。

 たまには冒険もしてみたくもなる。

「了解しました。少々お時間いただきますが、大丈夫ですか?」

「ええ」

 店員がお辞儀をすると、メモした付箋を剥がした。

 そして今度は急ぎ足で厨房の方へ向かっていく。

 姿が角で消える頃にここまで聞こえる声でオーダーと叫んだ。

 時間を潰せる本はまだまだたくさんある。男は栞代わりに挟んでいた指で押さえたページを開き、話の続きに没頭した。

 

「おまたせしました」

 男は漫画を本棚に戻すと、テーブルに一つずつ丁寧に料理が置かれていく。

 パンとジャムは至って普通に見えるが、例のホイル包みの全貌は隠されていた。

 綺麗にアルミホイルで包まれており、僅かな隙間から湯気と共に味噌の香ばしい匂いが立ち昇る。ご丁寧に食器の端にハサミが置かれている。これで切って開ければいいのか。

 最後に副菜の塩豆腐のサラダが置かれた。

「ごゆっくりどうぞ」

「ありがとうございます」

 男が感謝を述べると、笑顔で一礼し、今しがたやってきた三人組の客へと取り掛かった。

 食べ始める前にまずは水で喉を潤す。

 出所日に朝食は出されないので最後に飲んだのは昨晩が最後であった。

 麦茶の味が僅かにするものを二杯飲み、食べ慣れた塩気のない食事。

 それに比べて眼前にある料理からは強烈な塩分を感じる。

 忘れていた食への楽しみが呼び起こされ、唾液腺を刺激した。

「い、いただきます」

 パンを手に取り、ジャムを塗る。

 パン食は月に数回程度、所内でも提供されていた。

 もっぱらコッペパンばかりで食パンなんて贅沢品は見たことがない。

 ジャムが出された記憶はあれど、なんというか人工甘味料と着色料でできた水飴のようなものであった。

 一口、かぶりつく。

 途端に苺ジャムの甘みと酸味が口一杯に広がり、奥歯が嬉しい悲鳴のような刺激を感じた。唾液がどこからともなく溢れ出し、あまり噛まずに飲みこんでしまった。

 驚きと喜びで脳内が混乱しつつも身体はパンをさらに欲する。

 今度は齧り付かずに手でちぎり、ジャムも少なめに乗せて食べた。

 何度か咀嚼しながらパンのほのかな塩味とジャムの甘さを感じつつ、男は母親に初めて買ってくれたジャムパンを思い出し始めていた。

 近所に出来たばかりのスーパーで閉店の三十分前になって連れて行ってくれた。

 そして売れ残りで半値となった今考えればどこにでもあるジャムパンだったのだが、なぜか男はそれをねだって買ってもらった。

 帰り道で我慢できず、今ここで食べていいか、と尋ねると許してくれた。

 それは男にとって初めての食べ歩きであったのだが、罪悪感が消し飛ぶ程に衝撃的な甘さに驚いた日でもあった。

 しかし母はもういない。

 男は顎の疲れで我に返り、パンにもっていかれた水分を再び水で潤した。

 これだけで十二分に満足してしまったが、まだ楽しみは残されている。

「じゃあ次はサラダか」

 言葉に上機嫌を含ませながら、木のボウルにおしゃれに盛り付けられた副菜に手をかけた。

 塩豆腐とはいいながらも、見た目は分厚いスライスチーズにみえる。

 色合いも似ており、箸で小突いてやると揺れ動く様も近いのでほとんどチーズといっても差し支えないかもしれない。

 箸で線を入れ、野菜とまとめて口に放り込む。

 何度か味わいつつ、もう一口。

「うん、豆腐だな」

 見た目の感動と現実との差が激しく男は少しがっくりと肩を落とした。

 ただ、メインディッシュが残っている。

 今までのは全て前座であり、真打ちとの対面を果たすときがきた。

 箸置きの隣に置かれた黒バサミを手に取る。

 親切に切り取り線のようなものが書かれており、男は素直にそこにハサミを入れた。 

 ひっかかりもなくすんなりと最後まで切り終え、火傷をしないよう箸で押し開けた。

 ふわっと湯気が爆煙の如く一気に立ち昇り、鼻に押し入る形で食道奥まで到達した。

 魚の旨味と味噌の香ばしい旨味とが合わさり、全くの初見であるのに記憶のどこかでこの料理を知っている、そんな匂いが男を魅了した。

 涎が再び口内を満たし始め、連動して腹も早く中に入れろといわんばかりに催促の音を出した。

 言われずとも。男は手前の方にのる鮭に箸をいれる。

 鮭の名の通り、いともたやすく身が別れ、小さく裂けては小さくつまみやすい大きさになる。箸で摘まれるだけとり、鮭の身の中心に作られている味噌の山に山葵のように少量付けて、口へといれた。

 最初に味噌が襲いかかり、それを防ぐ形で鮭が主張を始める。

 そこに遅れることながらタラの旨味とレモンが緩衝材となって挟まり、一つの世界が出来上がった。

 嗅いだ時の匂いで騙されていた。これはちゃんちゃん焼きとは全くの別モンだ。

 気づけば手が勝手に今度は小石ぐらいの大きさのを掠め取るが如く、味噌にたっぷりと付けて咀嚼を五度して飲み込んだ。

「おいしい」

 そうえいば、獄中で出来た仲間の男がよく言っていた。

 ”ここの生活に慣れたら娑婆の飯はしょっぱくて喉がすぐに乾いちまうぞ”

 なんとはなしに予想はできていたが、ここまでとは想像しなかった。

 おいしさの後にはすぐさま乾きが生まれ、コップを飲み干した。

 男のその姿を見ていたのだろうか、店員が横から現れ――あの女性店員ではなく感じの良い青年が再び、コップに水を満たしてくれた。

「また必要になりました、ご遠慮なく申してください」

 眩しい笑顔でお辞儀をし、機敏な動きで各テーブルを巡回しながらその都度、客が必要としているもの注文をするものを事細かく書き留め、時には会計レジへも自ずと進んで対応している。

 最初からあの店員だったら良かったのに、と男は思った。

 足りていなかった水分を補うために少々コップをすすり、まだ相手をされていないタラに向かうこととした。

 アルミホイルのおかげで保温状態は良く、勢いを失ったもののまだ湯気が寂しそうに沸き立っている。鮭のは味噌であったが、タラの場合は輪切りにしたレモンが横たわっていた。

 絞るべきか悩みながらも男は周りの目を気にして、身を程よい大きさで切り取る。

 人も増え始め、席はいつしか満席状態。

 カウンターはまだ一個飛ばしの状態で埋まってはいないものの、直に埋まるだろう。

 他人と近い距離での食事は不得意な部類などで男は食べる速度をあげることとした。

 悩んでいたレモンを指でしぼり全体にかけてやる。

 レモン汁が朝露のようにタラの身を滑っていきレモン特有の酸味が食欲をすすませる。

「タラはどうだろうか」

 食べる食べる、ひたすらに。

 抑圧された塀の世界で溜まった鬱憤から己を開放するように箸が進む。

 合間にサラダとパンが加わり、一つのルーティーンが出来上がる頃には主菜はなくなっていた。

 無我夢中のあまり、配分を完全に間違えた。

 甘さ恋しさにジャムもなくなり、塩豆腐は先に片付けたが水菜やトマトといったものだけが残る。

 どうしたものか。

「最後にパンをもらえるかね」

 聞き覚えた声がするので見れば、まだあの二人組がテーブルにいた。

 男の選ぶモーニングとは違い、どうやら通常メニューからスパゲティをそれぞれ頼んでいたらしく、皿にソースが残っている。

 接客する店員は青年ではなく女性店員で、贔屓の客なのは間違いなかった。

 注文を受けてからものの数秒でおしゃれなカゴに入ったハーフバゲットが二本、テーブルに置かれた。

 各々が一つとり、ちぎり――スパゲティソースにつけて食べ始めた。

 男の感性から申せば幼児がするような食べ方で敬遠してしまう。

 ちぎっては浸し、それを美味しそうに食べながら談笑をする様子に男の喉が自然と鳴る。

 視線はいつしか余ってしまったパンとアルミホイルの底に沈んだ至極の海へと向けられていた。

 試す価値はある。

 男はパンを直接、アルミホイルにこすり付けるようにしてパンに残り汁を含ませた。

 そうして持ち上げる。浸された部分がオリーブオイル色へと変わり、小麦と合わさった贅沢な匂いがたちこめる。

 さらには余った水菜などをのせ、落っこちないようゆっくりと大きくかぶりついた。

 パンの弾力に野菜の青さと旨味の汁たちが混ざる。

 噛めば噛むほどに水を含んだスポンジが押されて吹き出す様にして旨味が溢れだす。

 汁が残る限り男は繰り返し食べ続ける。

 一心不乱にして料理を味わい尽くすように最後まで食べきった。


「ありがとうございました」

 会計を済ませ外へ出た。

 御老体がまだ椅子に座っていた。ただ、日向に当たりうたた寝をしており、猫はまだ寝ている。

 起こさないよう静かに扉を閉じ、男は店名を知らぬ店を振り返った。

 どこにでもある普遍的な店構えだ。

 でも、そこがいいんだろうな。

 男は一人うなずき、道を歩き始めた。

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出所飯~娑婆の飯ってこんなにおいしかったっけな~ にゃしん @nyashin

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