二分の一オムライス
射谷 友里
第1話
佐倉洋食軒は、平日は近所で働く人たちや長年通ってくれるお客さんが多いが、休日は子連れ客や若いカップルで賑わっていた。常連客のみずえさんはいつも窓際のバス停がよく見える席で、ランチプレートを食べることが多い。
「みずえさん、他の席が空いていてもいつもこの席ですよね?」
「ここじゃなきゃダメな訳じゃないのよ」
子供の頃から両親に連れられ度々来ていたそうだが、一度奥の席に案内されて窓際が良いと駄々をこねたそうだ。
「だから、空いている時は皆さんここへ案内してくれるようになって」
その頃は伯父さんのお父さんがシェフをしていて、伯父さんは小学校の授業が終わると真っすぐ店に来て、宿題をするふりをして漫画を読んでいたらしい。
伯父さんより十歳年上のみずえさんは、宿題の面倒を見てあげたことがあると嬉しそうに言った。お店が暇な時はよく二人で思い出話をしていて、私が話に加わると冗談を交えて面白おかしく話してくれる。でも、現在のみずえさんの話になると途端に口が重くなる。時折見せる暗い表情に何か事情があると察した伯父さんが、それとなく聞いてみたが、何でもないと言って笑うだけだった。
「そうだ、みずえさん。来月の二十日はみずえさんのお誕生日だそうですね。おもてなしするので是非来てくださいって」
みずえさんは来月の三月で七十になる。
「ありがとう。祝ってくれるひとはもういないから嬉しいわ」
ぱっと表情が明るくなったのを見て、伯父さんもほっとした顔をした。
みずえさんにはとても仲の良いご主人がいたが、一昨年亡くなってしまったそうだ。闘病の末のことだからと気丈にも笑っていた。
「その時は、特別なオムライスでお祝いしましようね!」
「あら、そうなの? 楽しみにしているわ」
みずえさんにはオムライスに特別な思い入れがあるのだと前に話してくれた。
「彩美ちゃんは今、高校何年生? ちゃんと手伝っていて偉いわね。昌孝君は結構、厳しいでしょ」
「春で高校二年です。父に言わせれば、甘々だそうです」
「そうなの。彩美ちゃんを見ていると、娘がいたらなって思う事があるのよ。ずっと新婚気分でいれたのは良かったんだけどね」
「それは素敵ですね」
「そうね。幸せな日々だったわ」
みずえさんとご主人が、お互いを支えるようにして歩いているのを見たことがある。それは寒い冬の日だった。突風でほどけたマフラーを直してあげるご主人と微笑むみずえさんを見て、なんて素敵な夫婦なんだろうと思った。
「今日はゆっくり出来るんですか?」
「残念ながら午後から病院なのよ」
バス停をちらりと見た。佐倉洋食軒前のバス停から数えて七つ目で降り、そこから徒歩五分の場所に病院がある。
「みずえさん、どこか悪いのか」
「昌孝君、そんな顔しないで。最近、ちょっと忘れっぽいの。お医者様には軽度の認知症って言われたわ。――大事な思い出を忘れたくないわよね」
「出来ることがあるなら言ってください」
「大丈夫だから。あなたは美味しい料理を作ってくれるだけでいいの。ここにいる間は私の時間も止まったみたいに、自分らしくいられるから」
「じゃあ、珈琲いっぱいでもいいから毎日来てくださいよ」
「そう出来たらいいわね。そろそろ行かないと。じゃあまた来週ね」
そう言ってバス停に向かうみずえさんは、散歩が趣味だというだけあってしっかりしていた。
「ね、伯父さんとお父さんの初恋のひとだっけ?」
ごほんと咳払いをして、「テーブルの上を片付けなさい」と言った。二人でお酒を飲んだ時にうっかりこぼしてしまったのを後悔しているらしい。
「みずえさん。今日も綺麗に食べてくれたね」
ランチプレートは小ぶりのオムライスとサラダにミニグラタンがセットで、女性や学生に人気のメニューだ。
「――うん。食が細くなってきたけど、これなら全部食べられるって言ってたけど本当はさ」
みずえさんは大事な人とオムライスを半分ずつ分けて食べるのが好きだった。甘いトマトソースのオムライスとホワイトアスパラガスのクリームソースをかけたオムライスを、半分ずつ分けてお皿に乗せて食べるのが一番好きな食べ方だと言った。
『二つのソースが混じったところが最高に美味しいの!』
伯父さんに話すみずえさんを見て、胸がキュッとなってしまった。みずえさんにとって、それが出来る相手がもういなくなってしまったから。
「みずえさんの誕生日には、ホワイトアスパラガスのソースを作る。彼女にとっての思い出の味だからな」
ホワイトアスパラガスの出荷時期は短く、ホワイトアスパラガスのオムライスは五月から六月までの期間限定の人気メニューだ。
「でもいつもより時期が早いけど大丈夫なの?」
「うん。実は三月頃から佐賀県や九州でも採れるんだ。知り合いに頼んで仕入れることにした」
「そうなんだ。みずえさん、喜んでくれるといいね」
「――そうだな」
「彩美ちゃん、オーダーとって来てくれるかな?」
見習いの晴樹くんは大量のお皿を食洗器に詰め込んでいた。
「分かりました!」
晴樹くんは高校卒業したあと調理師専門学校へ進み、三年間学んだ後に縁あって伯父さんの店に来た。穏やかな性格で、年上なのに気さくに話しかけてくれる。
「お待たせ致しました。ご注文お伺い致します」
「今日はBランチにしよう。食後にホットコーヒーで」
常連客の田中さんは、近所の不動産屋で働いていて、A、B、C、本日のおすすめと順番に食べることにしているらしい。一種の験担ぎだと照れ笑いしていた。
「はい。Bランチ、食後にホットコーヒーですね。少々お待ちくださいませ」
少し怪しげな敬語で注文を取る。最初は緊張も相まって常連のお客さんに笑われたものだ。ほとんどの常連さんは私が小さい頃からの知り合いで、優しく見守ってくれているのだが、それがちょっと恥ずかしい。
「すみませーん。三人なんですけど、入れますか?」
「はい。テーブルを片付けますので少々お待ちくださいませ」
消毒薬をスプレーして台拭きで丁寧に拭き取る。カトラリーを確認して、三人のお客さんを席に案内する。
「本日のおすすめはビーフシチューのサラダセットです。パンかライスをお選び頂けます。こちらランチメニューです」
「有難うございます。あの、映画の半券でミニデザートプレゼントってあるんですけど、大丈夫ですか?」
「はい。アイスクリームかミニプリンをサービスいたします。どちらがよろしいですか?」
三人は本日のおすすめと、A 、Bランチそれぞれ選んだ。Aランチはハンバーグ、Bランチはカツレツ、Cランチはオムライスだ。
「彩美ちゃん、サラダお願い」
「はい」
サラダとドリンクを三人客のテーブルに運ぶと、三人は観たばかりの映画の話で盛り上がっていた。私もアルバイト代が入ったら観に行きたいと思っていた映画だった。ネタバレされる前にそそくさとテーブルを離れたが、遅かった。
「聞きたくなくても耳に入っちゃうことってあるよね」
「犯人、分かっちゃいました。でも仕方ないですよね。注文が終われば店員はお客さんにとっては空気のような存在だし」
「まあね。でも話に夢中になりすぎて、料理に手をつけてないのを見ると、早く食べてくれ! 美味しい時間を逃すぞ、って念を送ることにしている」
「何をあほなことを言ってんだ。手が止まってるぞ」
「すみません」
伯父さんは困ったように笑ったけど、本心は嬉しいんじゃないかと思う。
「彩美ちゃん、三番さんにホットコーヒー出して」
「はい」
今日も新旧のお客さんが入れ違いにやってきて、会話と料理を楽しんで帰っていった。
「あ、映画の半券――」
掃除をしていると春樹君が床に落ちていた半券に気付く。
「三人客の誰かが落としたんでしょうか」
「これ今日の日付じゃないな」
「えー! だって確認しましたよ。三人分」
「日付まで、ちゃんと見た?」
言われてみたら、最初の一人は日付を確認したけど、あとの二人は同タイトルだった為にちゃんと日付まで見ていなかった。
「伯父さん、ごめんなさい」
「いいよ。次はちゃんと確認してくれれば」
「だけど、せこいことするなあ」
楽しそうに映画の話をしながら食事をする三人からは、そんなことをするように見えなかった。
「元気出して、残り片付けてまかない頂こう」
「――はい」
気を取り直して掃除機のスイッチに手を伸ばす。
「今日のまかないは何?」
「オムライスだ」
「やったー! もしかして、ホワイトアスパラガスのソース?」
「まかないでは出さないよ」
「だよね。ちょっと言ってみただけ」
隅々まで掃除機をかけ、トイレチェックをする。トイレットペーパーを補充して戻ってくると、晴樹くんが窓の外を見つめていた。
「どうしたんですか?」
「今ね、外を歩いてるみずえさんらしき人を見た気がするんだけど、気のせいかな?」
「えっ。もう十時になるし、本人だったらこんな遅くに珍しいですね。一人でした?」
晴樹くんは声のトーンを落として、伯父さんを気にするように見た。
「若い男と一緒だったんだよ。高校生くらいかな?」
「えー? ますますあり得ないような」
「だよね。親戚とか全然いないって前に言ってたし」
「終わったんなら食べるぞ」
「はーい」
二人は掃除用具を片付ける。
「わー! 美味しそう」
甘いトマトソースとカリカリに焼いたベーコンの匂いが食欲をそそる。
「いただきまーす!」
オムライスの卵は、少し厚みがあって食べ応えがある。スプーンで端っこをすくうと、バターの香りがした。
「みずえさんの誕生日のオムライスはトマトソースとホワイトソースを用意して、食べる時にかけてもらうんだっけ」
「うーん」
伯父さんは食べながら頷いた。考えている時の癖だ。
「ミニオムライスを二つなんてどうです?」
「うーん。単純に味のことだけなら、ソースを二つ付ければ良いんだが」
オムライスにソースが二つ。最も現実的だが、それでみずえさんは喜ぶのだろうか。
「友人や家族と分け合う行為がしたい相手に、ソースを二つ付けるだけじゃ、かえって寂しい思いをさせてしまうかもしれない」
「伯父さんが半分こしたら良いんじゃない? シェフじゃなくて、幼なじみとしてなら、どう?」
「それも考えたんだが、ここでは俺はあくまでもただの料理人だからな」
「本当に親しい親戚とかは誰もいないんですかね?」
「――ああ。そう聞いている」
晴樹くんはまだ何かを考えているようで、黙り込んでいた。
「さ、食べたら帰るぞ。日曜日も忙しいぞ」
「はーい」
二人は残りのサラダを口に押し込んだ。
日曜日も昼前から徐々にお客さんでいっぱいになった。もう一人の大学生アルバイトの莉子さんが、臨機応変にテキパキと対応してくれるおかげで、パニックにならずに済んだ。一度、SNSで『古き良き洋食屋』と紹介されてから、新規のお客さんが訪れるようになり、週末は常連さんが遠慮するようになってしまった。皆の事も大事だから遠慮してくれているのなら、気にしないで好きな時に来て欲しいと伯父さんが常連さん達に頭を下げて、週末にも顔を出してくれるようになった。
「一過性の流行りだったら、すぐにがらんどうになってしまうよ」
謙遜して言うけど、伯父さんの料理は色んな人に食べて欲しいと思ってしまう。
「五番さん、本日のランチセット、アイスティー」
「はい」
五番テーブルに料理を運び終わると、ドアベルが鳴って勢いよくみずえさんが飛び込んできて、苦しそうに咳き込んだ。
「みずえさん!」
慌てて駆け寄ると、みずえさんが腕にしがみついてきた。
「ちょっと、匿って!」
ドラマでしか聞いたことのないセリフに度肝を抜かれていると、もう一度ドアベルが鳴る。飛び込んできた人物に身構える私の側に、異変を感じた常連さん達が集まってきた。
「ばあちゃん! ちゃんと話を聞いて!」
私と同じ年頃の青年が、同じく息を切らせて立っていた。
「お、おばあちゃん?」
「――見つかっちゃった」
みずえさんは、ふうっと息を吐いた。
「お孫さん、いらっしゃったんですか?」
窓際の一番端、バス停が見えるいつもの席に二人を案内した。
「んー。血の繋がらない孫?」
みずえさんは首を傾げて言う。
「えっ」
「意味わかんないわよね。この話、長くなるのよ」
お孫さんは誠也君というらしい。伯父さんを見ると、事情を知っているようで顔色を変えずにいつも通りにフライパンをふるっている。
「そ、そうなんですか」
「せっかくだからランチをいただきましょう」
みずえさんはいつものランチプレート、誠也君はAランチのハンバーグを注文した。その場を離れてそれとなく見たが、切羽詰まった二人は何処へやら、落ち着いた表情で雑談していた。
「三番さん、ランチプレート、Aランチです」
「はいよ」
注文表を確認して取り掛かる。
「何だったの?」
ロングの髪の毛を一つに束ねた姿がいつも凛々しい莉子さんには珍しく、興味津々といった表情だった。
「さ、さあ。程よくあしらわれました」
伯父さんが吹き出して、それを誤魔化すように咳払いした。
「気になるわね」
そう言い残し、呼ばれた席にメニュー表を持って行った。
直接関わり合いにならない莉子さんですら、ちらちらとみずえさんのテーブルを気にしているのに、伯父さんは素知らぬ顔だ。後で聞いたら、教えてくれるだろうか。
ランチタイムが落ち着いて、晴樹くんと私は休憩に入る。まかないのトマトカレーを食べ終わった晴樹くんが、やっと喋れると言わんばかりに口を開く。
「あのお孫さんは、オムライス半分この相手にならないのかな?」
「でも晴樹くん。みずえさんは彼から逃げていたんじゃ?」
「でも、普通に話してたよ?」
「うーん」
伯父さんの真似をして考えてみるけど、事情が分からないままではどうする事もできない。
「いっそのこと、オムレツ半分こパーティーとかにする?」
「晴樹くん、ナイスアイディア!」
盛り上がっていると、莉子さんが「休憩代わって!」と入ってきた。晴樹くんと慌てて食器を抱えてスタッフルームを出る。
「伯父さん、みずえさん達は?」
「帰った」
「えっ」
「話は後で。ラストオーダーだって伝えてきて」
「はい」
佐倉洋食軒は十時から三時までのランチタイムと夕方五時から九時までがディナータイムだ。
「分かってる、分かってる。おかわりの珈琲飲んだら帰るよ」
常連さんたちはおどけながら、珈琲のおかわりを催促する。私は珈琲を持って順にテーブルを回った。
三時を少し過ぎた頃には、皆、重い腰を上げて帰っていった。伯父さんと晴樹くんはディナータイムの仕込みを始め、私と莉子さんは掃除や備品チェック等を手分けする。伯父さんはいつも以上に口数が少なく、晴樹君が口パクで「無理」と言った。
「何かみずえさんのこと、聞きにくい雰囲気だね」
莉子さんがこっそりと私に耳打ちする。
「はい。話は後でって言う時の大人って、大体話してくれないですよね」
「よく分かってるじゃない」
「伯父さんとお父さんって、顔を合わせたら口喧嘩ばかりなのに、口癖とかごまかし方がそっくりなんですよ」
「家族ってそんなものじゃない?」
「そうですよね」
「彩美ちゃんが深刻になることないでしょ?」
「ですよね。すみません」
誤魔化し笑いをして、紙ナプキンを整えるふりをした。
「彩美、それが終わったら今日は上がっていいぞ」
「えっ。でも」
「明日からまた学校なんだから」
伯父さんは私を遠ざけようとしてる気がして、素直に頷けなかった。
「彩美ちゃん。その方が良いよ」
「――はい。分かりました。お疲れ様でした」
「はい、お疲れさん」
伯父さんは学業優先だと、土日や長期休暇にしかアルバイトをすることを許してくれなかった。アルバイト代が魅力なのもあるけど、何より伯父さんのお店が大好きだから、もっと役に立ちたいと思う。帰り際、映画のポスターが本屋に貼られているのを恨みがましく眺めた。三人客の件があってから、その映画が観たいと思えなくなってしまっていた。
「その映画、原作を読んだ方が分かりやすいと思うよ」
声の主に驚いて振り向くと、『血の繋がらない孫』の誠也君が近づいてきた。
「あれ、その制服、ウチの」
「やっぱり同じ高校なんだ。俺、次で三年。そっちは?」
「――二年です。何で制服なんですか?」
「ああ、これ? 補習だったんだよね。おばあちゃんの入院のこととかあって、学校をさぼっちゃったんだよね」
「そうなんですか」
みずえさんの事を聞きたかったけど、そこに大変な事情がありそうだ。
「お茶でもする?」
誠也君がファーストフードのお店を指さした。
「はい、ぜひ」
思わず食い気味で返事をしてしまった。
「昨日はびっくりさせたよね」
「えっ」
「みずえさんと会っていたことが母親にばれてさ。ちょっともめたんだ」
誠也君は、皮付きポテトフライにケチャップをたっぷりつけてもぐもぐと頬張った。
「あの。聞いても良いですか? みずえさんとはどういう」
「うん。みずえさんはね、僕のおじいちゃんの内縁の妻ってやつだったんだって」
「な、内縁の妻って」
高校生の会話としては刺激の強いワードではないか。思わず周りを見てしまったが、誰もこちらを気にする様子は無かった。
「順番に話すね。詳しい事情は分からないだけど、おじいちゃんと別れてから一人で産んだのが僕の母さんなんだ」
「えっ」
「おじいちゃんに打ち明けるかどうか迷ったけど、自分から別れを告げたから言えなかったって。おじいちゃんは、おばあちゃんと別れた数年後にみずえさんと出会って、結婚も考えたらしいんだ」
淡々と話す誠也君は、自分よりずっと年上に見えた。
「おばあちゃんはお母さんが三歳まで、一人で育てて来たんだけど、出産後に無理して働いた事もあって、自分で育てられなくなっちゃったんだって。それで、おばあちゃんはまだ小さかったお母さんを、おじいちゃんの所へ預けに行ったんだって」
「でも、みずえさんがいたんですよね?」
「うん。戸惑いながらも受け入れようとしてくれたみたい」
誠也君のお母さんは、五歳の頃に遠い親戚に引き取られて大学を卒業するまで親戚の元で育った。それから会社で知り合った男性と結婚して、二十五歳の時に誠也君が生まれたのをきっかけに地元へ帰ってきたという。
「今、おばあちゃんは介護施設にいるんだ。みずえさんもね、同じ敷地内の病院に通ってて、お母さんとお見舞いに行った時に再会したんだ」
「すごい偶然」
「お母さんは、嫌そうだったけど、僕は嬉しかったな」
溶けた氷で薄くなったコーラをストローでかき回した。
「僕が小学生の高学年になった頃は、自転車でおじいちゃんの家に遊びに行ってたんだ」
「みずえさんは優しかったですか?」
「もちろん。本当のおばあちゃんみたいに、優しくしてくれたよ。カレーライスを一緒に作ったり、花火してくれたり」
誠也君にとって身近なおばあちゃんは、みずえさんの方だった。それはみずえさんにとっても同じで、大事な存在になっていたのかもしれない。
「そっかあ。じゃあ、オムライスも作って貰いましたか?」
誠也君はちょっと驚いた顔をした。
「何か聞いてるの?」
「みずえさんの思い出の料理で、大事な人と一緒に食べたって聞いたので」
「――そっか。だから、僕には作ってくれなかったのかな」
「えっ?」
誠也君は傷ついたような顔をした。触れてはいけない部分だったのかもしれない。
「何度か君の伯父さんの店で、いつもの窓際の席でじいちゃんとみずえさんが楽しそうにしているのを見たことがあるんだ」
誠也君の曇った表情に胸騒ぎがして、この先を聞くのが怖かった。
「ちょうど店を出る所だったから、出て来たところを驚かせようと待ってたんだ。おじいちゃん、って声をかけたら少し驚いた顔をしたけど、すぐにいつもの優しい顔で家に来るかって言ってくれた。みずえさんも一緒に行こうって笑ってくれたから、すっかり受け入れて貰えたと思い込んでたんだよね」
「誠也君――」
「何を食べたのって二人に聞いたら、おじいちゃんがオムライスだよ。今度は一緒に食べに来ようって。だったら、みずえさん今度作ってよって何も考えずに言っちゃったんだ。そしたら、みずえさんは悲しい顔をして、ごめんね、オムライスは作れないのよって」
「本当に作れないとかないですか。うちのお母さんなんて、天ぷらはお店で食べるもの! とか言いますよ?」
明るく言ってみると、誠也君はちょっと笑ってくれた。かえって気を使わせてしまった。
「うん。お店でも、一口ちょうだいって言うと、綺麗なスプーンに取り替えて、綺麗なところを小皿に乗せてくれるわけ。僕は自分の皿に乗せて欲しかったんだけど。やっぱり、赤の他人だと思われてるのかなあ」
「うーん」
「ごめん。子供っぽいよね。母親があまりそういうことしない人だからさ、ちょっと羨ましかったんだよね」
何を言っても誠也君の欲しい答えにはならない気がした。
「外、暗くなって来ちゃったね」
「えっ? ああ、今、何時だろ」
携帯電話を見ると、四時半を過ぎていた。
「そろそろ帰ろうか。今なら次のバスに乗れそうだし。今日は突然、声かけたのに、話を聞いてくれてありがとう」
「こちらこそ、色々聞いちゃってすみません」
上手く伝えられなくてもどかしい。誠也君はまたねと行って、バス停に歩いて行った。ただの好奇心で聞いてしまった自分を恥ずかしいと思った。何か、自分に出来ることはあるだろうか。
次の土曜日、みずえさんは来なかった。私は誠也君に会って聞いた話を伯父さんに言えなかった。
「彩美、ぼーっとして疲れたか?」
「ごめんなさい。みずえさんの誕生日のこと考えてた。もう掃除、終わるから」
「そうだな。そろそろ決めなきゃだな」
「伯父さん」
「ん? なんだ。出来たぞ、オムライス」
まかないのオムライスをカウンターに乗せた。用事があるという晴樹君が先に帰ったので、伯父さんと久々の二人きりのご飯だった。
「デミグラスソースだ。初めて食べた時、大人の味だって思ったんだっけ」
「そんなこともあったな」
「うん。美味しい。あ、ニンジンみっけ」
少し大きめのニンジンがオムライスの中から転がるように出てきた。子供の頃、苦手なニンジンが食べられるようになったのも、伯父さんのおかげだった。
「何か話があるんじゃないのか」
伯父さんにはお見通しだったらしい。先週の出来事を吐き出すように話した。
「よく今まで黙っていられたなあ」
伯父さんが感心するように言うのを見て、肩の力が抜けるようだった。
傍目には二人は祖母、孫のような関係に見えていた。
「みずえさんは、誠也君が言いたい事を分かっていてそれを拒否してるんだろう。誠也君のおばあさんとお母さんに遠慮しているのかもしれない。本人は口が裂けても言わないだろうけどな」
みずえさんは未婚の母になってしまった元恋人とその娘の事があって、悩みに悩んで籍を入れずに一緒にいることを選んだという。
「それ、みずえさんが可哀そうじゃない?」
「きっとご主人と一緒に背負おうとしたんじゃないかな。誠也君のことも大事に思っているはずだよ」
「誠也君だってみずえさんの事、おばあちゃんって思わず呼んでしまうくらい本当に大好きなんだよ」
「うーん」
叔父さんは難しい顔で黙り込んでしまい、私も仕方なく黙々とオムライスを食べた。美味しいのに何だか心が全然温かくならなかった。
次の日の日曜日、誠也君が母親らしき女性を連れてやって来た。その女性は晴樹君が案内した窓際の席を嫌がり、奥の席を希望した。
「八番さん、ランチプレートとCランチ、食後にホットコーヒーとコーラです」
「はいよ」
「誠也君、オムライス頼んだんだ」
「ん? オムライスが何?」
「えっ。あ、いいえ」
晴樹君はデミグラスソースがかかったオムライスを半分程食べたところで女性にも美味しからと勧めていた。
「うん。美味しいわ」
水のお代わりを注ぎに行くと、女性は先程より表情が柔らかくなっていた。
「あっ。彩美さん。今日は母と食べに来たよ」
やはり母親だったその女性は、ショートカットの髪を揺らして頭を下げた。
「こんにちは。息子がお世話になったそうで、有り難うございます」
「いえ、そんな。こちらこそ、お世話になってます」
慌てて頭を下げると、女性はくすりと笑った。
「お料理、とっても美味しいわ。そういえば今度、みずえさんのお誕生日のお祝いをこちらでするそうですね。息子も参加したいそうなので、どうぞ宜しくお願いします」
「あの、もし宜しければ、お母様もご一緒に如何ですか?」
「私が? それは遠慮します」
ぴしゃりと言われ、返す言葉が出ない。
「事情を息子から聞いてるんですよね? ならお分かりでしょう。私は仲良くする気はないんです。でも息子は、自由ですから」
「母さん、もう良いよ。ごめんね、彩美さん」
「いえ、私こそすみません」
私はすごすごとその場を離れた。余計な一言で、一気に空気を変えてしまった自分が嫌になる。でも、みずえさんを話題にしたのは向こうなのにあんな言い方するなんてと、やり場のない怒りに似た気持ちが湧いてくる。
「大丈夫?」
「晴樹君、またやっちゃいました」
「――猫背にならない! はい、深呼吸! もうすぐ莉子さんが来るから、休憩まで頑張ろう」
「はい。皿洗い、代わりますね」
晴樹君の言う通りに深呼吸を繰り返し、気合を入れなおすと皿洗いに集中した。
莉子さんの明るさにも助けられ、どうにかランチタイムを乗り切った。常連さん達がみずえさんの誕生日の話をし出すと、誠也君の母親は居心地悪そうに珈琲のおかわりを断って、誠也君を連れて帰っていった。帰り際、誠也君は「本当にごめんね」と言って静かにドアを閉めた。誠也君の気持ちを母親に分かって貰えていない気がした。
ディナータイムの仕込みをしていると、ドアベルが鳴った。
「すみません。ランチタイムは終了して――みずえさん!」
「みずえさん。顔を見せなかったから心配してましたよ」
「ごめんなさいね。昌孝君。あのね、私の誕生日のことだけど、やっぱり遠慮しようと思ってるの」
病院の帰りに寄ったのか、すっとアルコールのような匂いがした。何となく、疲れているようにも見えた。
「みずえさん、とにかくこちらへ座ってください」
みずえさんをいつもの窓際に座らせた。
「みずえさん。遠慮なんかしなくていい。私たちがやりたいと思ってることなんだから」
「でも、ご迷惑じゃないかって」
「迷惑なんて、誰も思ってないです。それに誠也君も楽しみにしてるんですよ」
思わず口を挟む。
「誠也君が?」
「そうです。誠也君はみずえさんと一緒にオムライスを食べたいんです」
「オムライスを?」
「私の勝手な想像ですけど、誠也君はみずえさんにとって大事な人になりたいんだと思います」
「そう、そうだったのね」
「どうぞ」
晴樹君が入れてきた紅茶を一口飲んだ。
「有り難う。美味しいわ。あの子、覚えてたのね。小さい時にオムライスを作って欲しいってねだられて断ってしまったこと」
みずえさんもずっとそのことが気になっていたという。
佐倉洋食軒で食べたオムライスに感動したみずえさんの両親が、誕生日やお祝い事にみずえさんを連れて来るようになった。そして、ホワイトアスパラガスのソースのオムライスを食べた母親が、みずえさんにこんな提案をした。
「『二分の一オムライス、なんてどう?』って。オムライスを食べて半分空いたスペースに、母がオムライスを乗せて来たの。とろりとしたホワイトソースが私の食べていた甘いトマトソースに混じって、味が変化したの」
みずえさんはその時の様子を思い出して、笑みを浮かべた。
「その二分の一オムライスは私にとっての大事な思い出のごはんなの」
成長と共に、友達同士や恋人、そして一生涯の伴侶とのかけがえのない時間を過ごす場所になっていった。
「あの子が私のことを本当のおばあちゃんの様に思っているのを分かっていて、気持ちをはぐらかしていたのよね」
「それは、誠也君のおばあちゃんとお母さんに遠慮していたからですか?」
「私はずるいから、自分が受け入れられないことに目をつぶっていただけなの。だけど、孫と料理をして、一緒にご飯を食べるささやかな時間がこんなにも幸せなことだと知ってしまった。ちゃんと自分の気持ちも誠也君の気持ちも受け入れようと思った時、誠也君の母親に言われたの。誠也の祖母は貴方じゃないって。会うのは構わないけど、それだけは勘違いしないでって」
「そんなあ」
「――そうね。大人が勝手に決めるものではないのよね」
「子供だって色んなことを考えているものですよ」
伯父さんはそう言って私の顔を見た。
「その通りね。有り難う、昌孝君」
「いえ」
「あら。お迎えが来たみたい」
「お迎え?」
ドアの向こうで誠也君が手を振った。
「これから一緒に映画を観に行くの。おばあちゃんと孫じゃなくても何でも出来るのよね。一番それにこだわってたのは私だったのかもしれないわ」
みずえさんは吹っ切れた表情でドアを開けた。誠也君はみずえさんに寄り添うようにして、一緒に駅の方へ歩いて行く。
みずえさんの誕生日当日のランチタイムは、沢山のお客さんで賑わっていた。
「すみませんでした!」
驚いたのは、映画の半券を当日のものと偽っていた三人客が謝りに来たことだ。どうやら他のお店でも同じことをしようとしたところを常連客の田中さんが諭して止めさせたらしい。
「グッジョブ! 田中さん!」
「当然のことをしたまでさ」
そう言いながら照れまくっていた。
「それより、あの二分の一オムライスって何?」
田中さんが黒板の文字を指さした。
「今日限定メニューで、オムライスのソースを二種類お選び頂けます。おすすめは、甘口トマトソースとホワイトアスパラガスのソースの組み合わせです」
「それ、美味そうだな」
「はい、是非ご賞味下さいませ。こちら、サービスのシャンパンでございます」
「おお、ほのかに梅の香りがする。みずえさん達も楽しそうで良かったね」
「はい。まさか、誠也君のお母さんも来てくれるとは思わなかったですけど」
二人は口喧嘩するみたいに言い合いをしている。何をもめているのかと思ったら、みずえさんが誠也君の皿に自分のオムライスを乗せようとしているのを、母親が止めようとしていた。
「私のをあげるんですって」
小競り合いしながらも、顔は笑っている。
「ほら、笑ってないで食べてよ誠也」
「そうよ、誠也君。食べたら私のもあげるから」
自分のオムライスを乗せようと張り合うみずえさんと母親の間で、誠也君がにこにこしていた。
「もう。良いから、二人も落ち着いて食べなよ。子供じゃないんだから」
そう言われて、二人はまだ何かを言いたそうにしながらもオムライスを食べ始めた。思っていた以上に賑やかな誕生日会になったみたいだ。
「ほら、僕たちもやらない? 二分の一オムライス」
「えっ?」
晴樹君が二皿のオムライスをカウンターに乗せた。
「僕たちも食べて良いって」
伯父さんはオムライスを作り続けて汗だくだが、とても嬉しそうだ。
「半分こにするの、聞いた時からやってみたかったんだよね」
「ですよね」
二人は二つのオムライスにそれぞれ一つずつソースをかける。
「じゃ、分けるね」
晴樹君がスプーンでオムライスを割る。
「あっ、ニンジン」
ころりと大きめに切ったニンジンの他、玉ねぎやサイコロ状の煮豚が出て来た。
「余り物、増し増しだね」
「かえってご馳走かも!」
「はい、交換ね」
二人はオムライスの半分を皿に乗せ合った。トマトソースとホワイトソースが溶け合う。
「美味しい! いっそのこと最初から半分ずつかけて欲しいくらい!」
「それ言っちゃう? でも本当に美味しいね。期間限定なのが残念だよ」
二人はオムライスをあっという間に食べてしまった。客席を見ると、家族で分け合ったり、仲間同士で半分にしたり皆が楽しんで食べてくれている。
「誠也君のお皿がすごいことになってますよ」
「本当だ。あれは食べられるかな?」
山の様なオムライスを頑張って食べているのを、みずえさんと母親が笑いながら見守っている。やっと誠也君の望んでいたことが現実になったとはいえ、ちょっと大変そうだ。
「そうだ。この後のバースデーケーキもとっても楽しみです」
「うん。喜んでくれるといいな」
晴樹君は伯父さんと二人でランチタイムの仕込み前にケーキを焼いたらしい。
みずえさん達が食べ終わったのを見計らって、バースデーソングを流す。
「あらあら、まあ。これは照れるわね」
特大ケーキを持つ私と晴樹君の登場に合わせてお客さん達が一斉に歌いだす。
「ばあちゃん、火を消して」
誠也君も嬉しそうだ。
何度か吹いても消えず、最後は誠也君と母親も混ざって火を消した。
「お誕生日おめでとうございます!」
「有り難う。本当に素敵な誕生日よ。これで――」
「これで何も思い残すことない、なんて言わないで下さいね。口喧嘩出来るひと、いなくなっちゃったら、つまらないですから」
「貴女もよく言うわねえ。私は長生きしますよ」
「――望むところです」
「もう何なんだよ。二人とも急に生き生きして」
誠也君は二人から離れ、ケーキを配る私のところへ来て手伝い始めた。
「ありがとう。でも、お客さまなのに」
「いいんだ。もう、二人で喧嘩しててくれって感じ」
「でも、良かったですね」
「――そうだね。願いも叶ったし」
「はい」
「今度は、僕とオムライスを半分こしてくれない?」
「えっ」
「嫌じゃなければね。わあ、ケーキも美味しそう。ここで食べても良い?」
カウンター席に座ってケーキを三人並んで食べる。
「僕もアルバイト、雇ってくれないかなあ」
「何を言ってるんだ。君、受験だろう?」
晴樹君がちょっと意地悪な顔をした。
「まあ、そうですけど。僕、まあまあ勉強出来るので」
今度は二人の間で謎の火花が散っている。
「ケーキ、すごく美味しいです!」
それに構わす食べる私に二人はため息をついた。
「喧嘩し甲斐が無いんですけど」
「だな」
「――食べないんですか?」
「彩美ちゃん、イチゴ食べる?」
「僕のもあげるよ」
私のケーキはあっという間にイチゴまみれになった。
「幸せっ」
いつか私もこんな風に誰かと幸せを半分こ出来たら良いなと思いながら、甘酸っぱいイチゴを口いっぱいに頬張った。
春の風が、賑やかな店内を羨むように窓を鳴らして去って行った。
了
二分の一オムライス 射谷 友里 @iteya_yuri
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