看板の喝破

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

玉も石も眠る鉄筋の密林を行く

 昨年のKACでは確か、直観というお題があったように記憶しているが、今回は第六感ということでいかにもファンタジー色やホラー・サスペンス色の強いテーマである。

 それに去年は文芸評論で挑み、今年はエッセイで挑もうとしているのであるから天邪鬼もいい所であるのかもしれない。

 まあ、エッセイであれば然程に苦労することもなく、挑む方もそれなりに多いのかもしれないが。


 さて、私の周りでこの第六感が強いと言えば、母をおいて他にない。

 何かにつけて物事の行く末なり、ある人の現状なりを喝破することが多く、その多くは何かしらの理由があったとはいえ説明のつかないものも少なからずあった。

 特に人の死を見抜くことには長けていたように思う。

 それこそ虫の知らせという形容が相応しいのであるが、親類の容態の急変を聞くよりも先に、それも離れていたところから準備を済ませていた。

 今のようにスマホで気軽に連絡を取り合える時代ではない。

 時に医者よりも鋭い感覚がどこから来ていたのか、今となっては謎である。


 少々話が逸れるが、母が滅多に作らない料理に春雨スープがあった。

 というのも、母がこれを作ると謀ったように訃報が入る。

 これが親類だけであればまだ良いのだが、父の友人なども含むため何かに呪われているのではないかと疑ったほどだ。

 これもある種の虫の知らせであったのかもしれない。

 なお、私が作ったところでそのようなことは起きないため、今では好きに春雨スープをいただくことができる。


 このような第六感であるが、その定義は五感以外の特別な感覚とある。

 五感は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の総称であるが、それを受容する器官として目、耳、鼻、舌、皮膚の五つが人間には備わっている。

 このことを考えると、本当に第六感という感覚があるとすれば、その感覚器官が存在するのではないかと思うのだが、それが何かはよく分からない。

 拙著の中で特殊能力の発動を察知することができるという表現を時に用いるのだが、この小文を書くにあたって少々気にかかってしまった。

 感覚器官が一つの感覚のみを受容するというのであれば困ったことになっていたのだが、舌という恒例があるため新たな感覚器官を設定する必要はなさそうである。

 さしづめ目か皮膚あたりが機関としては最適であろう。


 話を現実の第六感に戻そう。

 この第六感の意味を紐解いた際、武道でも作用すると書かれた一説を目にしたが、確かに相手の動きを判断する能力が明らかに常人よりも早い方もいる。

 無論、動体視力の良さというものもあるのだろうが、電気信号として伝えられる以上、それにも限界がある。

 そう考えると、このような方々が第六感を利用しているというのはあながち間違いでもあるまい。


 私自身はこうした第六感があまり働く方ではないように思う。

 センター入試の際の笑い話として、数学の大問一つをまともな計算をせずに勘で埋めて得点を重ねたというものがあるが、ここでの勘働きは与えられた数字を基にした類推であった。

 これでは虫の知らせというにはほど遠く、神秘性も偶然性も微塵もない。

 また、今日はいい日和だから宝くじを買いに行こうと思っていくのだが、これまでに上手くいった例がない。

 あれば今頃は家を持ち、デミオも綺麗に整備され、悠々自適に旅をして回っているのだろうが、あくせく働き詰めて爪に火を点しているのが現実である。


 ただ、三十路になってからの飲み屋選びは成功率が七割近くとなっているが、これは第六感と言うべきか勘働きと言うべきかそういうものが大きく関わっている。

 二十代前半の頃はまず調べるということに集中し、その上で伺っていたのだが、近頃はまともに調べもせず、むしろ事前情報を空にして気になった店に入ることが多い。

 旅先ではそれが顕著になってきており、お陰で楽しく過ごすことができている。

 この基準を言語化したいと何度も試みているのだが、まだ明確にできていない。

 無論、店の前を通るだけであるから味覚情報は得られないのだが、それ以外でも多くは触覚や聴覚も制限される。

 そうなると視覚情報の持つ意味合いが大きくなるはずなのであるが、似た面構えであっても判断が大きく変わるからこれだけとは言い難い。

 試みに避けた方の店を訪ねてみると、やはり肌に合わないからそれなりに正確なのだろう。

 五感を総動員できない中での選択の後に、五感が満たされていくというのは何ともおかしな話だ。


 もしかすると、この辺りに第六感の大元が潜んでいるのかもしれない。

 思えば、母は生来多病で何度か死線を超えてきた。

 それだけではなく、その分だけ多くの知り合いの死に臨み、そこで得られたものが大きく影響してきたのだろう。

 また、玉磨かざれば光なしということわざもあるが、二十代半ばから後半にかけて我武者羅に飲み屋巡りをしてきたものが、今になって結実して私の中に第六感なるものが生まれつつあるのかもしれない。


 それならば、私もそのうち億万長者になるべく宝くじ売り場に向かう日を感じ取れるようになるかもしれぬ。

 ここまで考えたところで、未だに大きな当たりくじを得たことがないことに思い至り、なかなか人生は上手くできているなと笑ってしまった。

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