雨の予感

直木美久

第1話

 第六感だとか、虫の知らせだとか、そんな便利な機能を兼ね備えた人間というのが時々いるらしい。

 うちの夫がそうだ。

 どんなすごい能力かというと、朝、その日に雨が降るかどうか絶対に当てる能力。

 ………正直、ちょっとだけしょぼい。

 主婦であれば洗濯物を干すのに便利だとは思うが、夫は会社勤めのサラリーマン。しかも外を歩くのはうちの目の前(徒歩一分)のバス停までの移動くらいで、バスは駅の地下に止まり、そのあとはひたすら電車。電車は二子玉川駅を過ぎれば地下鉄になり、駅を降りてから地下を通ってオフィスに行ける。

 まぁなんて便利。傘いらず。

 というわけで、彼の能力も結婚してこの家に来てからは、ほぼ無用の長物と化している。まぁ最近は夫でなくともアプリが降りそうな時間を教えてくれるわけだし。

「みっちゃん、傘」

 結婚する前はデートの朝、そんな一言をよく送ってきた。あの頃はまだLINEもなくて、メールだった。それが少し遅れると、むしろ喧嘩の種になった。

「なんでもっと早くメールくれないの?もう出ちゃったじゃん」

 そんな風に。


 雨粒が地面を叩くようにしては跳ねている。こんな風に外で雨宿りをしたのはいつぶりだろうか。

 公園の隅にある小さな倉庫は少しだけ屋根が出っ張っていて、入っていないよりはだいぶマシだった。

 倉庫の扉に背中をくっつけ、白いセーターが汚れないか気になったが、戻るにはまだ私の心は荒んでいた。

 些細なきっかけだった。何度言っても洗い物籠に入れてくれない靴下に、元の場所に戻してくれないリモコンに、終わった後下げてくれない便座に。

 結婚して七年目。半年前、ローンを組んで新築の家を購入した。引っ越しの荷物も片付き、疲れていたのかもしれない。

 新婚時代一度は諦めた様々なことが一挙にぐわっと持ち上がり、ローンも組んで、もう、本当に簡単に別れるなんてできないと、今更不安の塊が私の心を重くした。

 彼はわかっているだろうか。さっき私が怒ったのが、鼻をかんだティッシュをごみ箱に捨てずにテーブルの上に集めているからだけじゃないことを。

 ため息はほんのり白く、春の雨は冷たい。

 思わず何も持たずに飛び出して、三十分ほどブランコでポケットに入っていたスマホをいじっていたら、突然の大雨。それまで土曜日の昼下がりを楽しんでいた数組の親子もあっという間にいなくなった。

 飛び出すとき、聞こえた「みっちゃん」と私を呼ぶ声。あれは引き止めるんじゃなくて、もしかしたら「傘」とそのあと続けたかったのかもしれないと思った。なにせ、LINEのメッセージ一つ来ない。

 そういうところだ。そういうところが、時々許せなくなる。

 でも、それを伝えるのが難しい。

「毎回言ってよ。ため込まないでよ」

 結婚して一年目にも大きな喧嘩をした。そして、今みたいに、私は外に飛び出した。あの時も近所の公園にいた。

 隆はそういうけれど、小出しにしてたらうんざりするじゃない。

 私だって、自分で自分が口うるさいと嫌になるし。

 六年前と何も変わらないまま、私はただ歳を取っている。

 お気に入りのスニーカーのつま先が、すっかり泥だらけになってしまった。

 雨は一層激しさを増している。

 ため息はやはり、ほんのり白く漂った。

 ざっざっざっ

 砂利の上を歩く足音が聞こえて、私はそちらを向く。大きな傘を差した隆が、こちらに向かって歩いてくる。

 ほら、迎えに来たのに、差してる傘、一本だけじゃない。まったく、どうしてそんなに抜けてるのかしら。

 私は、思わず微笑んだ。

 あなたには、私じゃなきゃダメだね。

「ここがわかったのも、雨予報みたいに、第六感?」

 彼の差す傘に入る。隆の肩は途端に濡れて黒くなった。

「違うよ」

 隆は私をまっすぐに見て言った。

「ただ、わかるんだ。いつも、みっちゃんのこと、みてるから」

 

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