羽化

ハヤシダノリカズ

羽化

「タイムリープって知ってるか」

 タカアキはそう言った。ここのところ塞ぎ込んでいるように見えたタカアキを心配して話しかけたその先に、彼はそんな話を持ち出してきたのだ。

「タイムリープっていうのは、簡単に言えば過去に戻るって事さ。人生の分岐点だったと思える頃に戻ってやり直す事ができたらいいなと思った事くらいあるだろう?」

「まあ、なくはないけどな」

「だろ? それが出来るんだよ。インターネットで見つけたその方法を毎晩試しているんだよ。オレは中学一年くらいからやり直すつもりだ」

「何をバカな事を……。そんな事に情熱を傾けるくらいなら、もっと今のお前を高める努力をしろよ。大体最近のお前は……」

「うるさいうるさいうるさい! 恵まれた今を生きているオマエにオレの一体何が分かる! オレは、やり直すんだ!」

 俺の言葉を遮って憤慨するままに叫んだタカアキは、「じゃあな」とさえ言わずに去って行った。公園のベンチに一人取り残された俺はタカアキの背中をぼんやり見ていた。「あんな妄言を言うようになっている今のアイツは相当しんどいんだろう。何か力になれる事はないのかな。小学校からの付き合いなんだ。アイツのいいトコロをオレはたくさん知っている……」様々な思いが浮かんでくるけれど、上手くまとまらない。


 ―――


「なぁ、話を聞いてくれないか」

 電話口の向こうのタカアキの声に張りはなかった。この間、公園で会った時とはまた違う危うさをその声に覚えた俺は二つ返事で「あぁ。こないだの公園で会おう」と言った。

「頼みがある」

 開口一番、タカアキはそう言った。俺たちは前回と同じように公園のベンチに並んで腰かけていた。「このあいだはすまなかった」とか、「今日は急な呼び出しなのに来てくれてありがとう」なんて事を、昔のタカアキなら言ってくれたはずなんだけどな。まぁ、いい。

「どうした。何をしたらいいんだ?」

「オレを試してみてくれ」

「なんだよ、それ」

「なぁ、長い付き合いだろ? オマエなら、オレのおよその出来る事、出来ない事、出来そうな事、出来なさそうな事を知ってるだろ?」

「ちょっと何を言っているのか分からないけど、長い付き合いだしまあまあ知ってるつもりだよ」

「なんでもいいからオレを試してみてくれよ」

「はぁ?試すって……。クイズとかなぞなぞとか?」

「ああ。なんでもいい」

 タカアキの望んでいる事が何なのか、俺にはまったく分からなかったが、ふざけている訳ではなさそうだ。真剣にこちらを見ている。

「じゃあ、パンはパンでも食べられないパンはなーんだ……みたいななぞなぞでもいいのか?」

 流石に、こんなものでいい歳の男を試す事になるとは思わないが、思いついた事を俺は言ってみた。ちょっとずつタカアキの望むものに近づけていくしかないだろう。

「え……。なんだよ、それ」

 キョトンとした目でタカアキは俺を見てくる。

「あぁ、ごめんごめん。流石にこんなもんでは試すもクソもないよな。えーっと、そうだな……」

「ちがう。え、何? バカバカしい位に簡単な問題だってことかよ。さっぱり分かんねーよ」

「オマエ、マジか。小学校一年生くらいでふざけながらやってたようななぞなぞだぞ?」

「ふざけてなんかないよ。答えは?」

「フライパン……って、マジで言ってる?」

「フライパン……。パンはパンでも……ってそうか!なるほど!」

「ふざけてない……のか? え、マジで? じゃあ、7かける7は?」

「えーっと、しちしち……しちしち……なんだっけ、なんだっけー」

「ちょっと待って。ホントにふざけてない? ……よーし、腕相撲しよう。タカアキ、オマエ腕相撲強かったよな。ちょっと花を持たせてやる。それで、オマエ、落ち着け」

 俺はベンチから立ち上がり、そしてしゃがんでそのベンチに右の肘を立てた。ズボンが砂まみれになってしまうけど、それどころじゃない。タカアキがおかしい。タカアキも対面にしゃがんで肘を立て、手を握り合った。

「レディ……、ゴッ!」と俺は掛け声をかけた。本気で勝つつもりなら掛け声と同時に力を込めるのだが、今日のコレに勝つ意味などない。タカアキの力で捻挫をしない程度に立てた右手をキープするくらいにしか俺は力を入れていなかった。のに、タカアキは必死の形相で力を込めているように見える。俺の右手はタカアキの力をまるで感じない。幼稚園児でも相手にしているようだ。

「あ、あぁ。すまん。タカアキ、オマエ、今日は随分調子が悪いみたいだな。病院行くか?ついて行ってやろうか?」決着をつけるのも悪い気がしたので、組んだ手をほどいて俺はまたベンチに座った。

 呆然とした表情でゆらゆらと立ち上がり、俺と同様ベンチに座り直したタカアキは言った。

「違うんだ……。置いていかれたんだ……。オレは、置いていかれた……」と。


 タカアキの説明は要領を得なかったが、どうやら言っていたタイムリープとやらが成功したようだ。

 タカアキが言うには今朝目覚める直前くらいに見た夢の中で、圧倒的な力で身体から魂を引っ張り出されるような感覚があったらしい。肉体から半ばはみ出た魂は、暴風のような引力でタカアキが望んでいた過去へ引っ張られていたのだと、タカアキはその時感じたそうだ。そして、「やった。人生のやり直しが叶う」と思ったその時、バリバリと剥がされるように、ぬるぬると抜け出ていくように、自分の魂が分離して、分離したもう一つの魂だけがその引力に引かれて過去へ飛んで行ったのだとタカアキは言った。そして、暴風のような引力が消え、残された魂は肉体に戻って、そして目が覚めたのだ、と。

 その剥がれて過去へ向かったもう一つの魂は「オレのあらゆる才能や能力があっちにいってしまった」とタカアキに感じさせたらしい。

 それで、俺に電話をかけてきて、今に至るという訳だ。

「そんなバカな……」ひとしきり話を聞いた俺がなんとか口に出来たのはそれだけだった。

 あり得ない事だ。タカアキは悪夢にうなされただけだろう。そして、混乱しているだけさ。そうさ。そうに決まってる。


 季節外れの蝉の声が聞こえてきた。もうすぐ10月にもなろうかというのに。

 タカアキはカッと目を見開いた。そして、言った。

「ぬけがら……」と。

「タカアキ……」俺は声をかけるが、タカアキには届いていないようだ。タカアキは不意に立ち上がり、ふらふらと歩いていった。

 陽炎のように溶けて消えてしまいたい、そんな気持ちが歩いている背中から見て取れたが、くっきりハッキリ見え続けているタカアキの姿を俺はずっと目で追った。

 季節外れの蝉の声よりずっとくっきりした輪郭でタカアキはフラフラと歩いていく。

 木の幹で羽化を成し遂げた蝉が飛んでいった姿と残された抜け殻をイメージしながら俺はタカアキを見送っている。俺たちはたとえ過去へ飛んでいける蝉になれたとしても、世界をなかった事になんて出来ないんだから、抜け殻役は必要なんだ。

「まさか、そんなことなどあり得ない」そう思いながらも、蝉と抜け殻のイメージは強まるばかりだ。


 あぁ、季節外れの蝉がうるさい。


 ー終ー

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