短編 「怖いんだね」

@mmitei

第1話 怖いんだね

怖くないのかい?


怖いって、何が。


君は怖くはないのかい?


ああ、さっきの男のことか。別に怖くないさ。彼女は俺を愛した。自分の旦那を差し置いてね。こんなネズミみたいに薄汚い男を選んだんだぜ。ちょっと迫っただけでさ。


彼はどんな目つきをしていたんだい?


変なことを訊くね。彼の目つきにどんな意味があるって言うのかね。俺にはさっぱり分からないよ。


君ならどんな気持ちになるんだい?


そりゃあ怒るさ。彼と違って妻も間男も両方逃がさないし、冷静でいられるなら訴訟だって起こすつもりだ。


冷静じゃなかったら?


そんなの場合によるとしか言えないじゃないか。手元にハンマーがあればそれで殴るし、ハンドガンがあるなら撃ってしまうかもしれない。手元にないからってわざわざ取りに行くようなマヌケはいないだろう?


見逃したんじゃなくて、取りに行ったんじゃないのかい?


……彼のことか。おいおい、怖いことを言うなよ。そんなことあるわけないじゃないか。こんな人込みでそんな馬鹿な真似


ジャギッ……


なあ


何だい?


今、物音がしなかったか?


どんな音がしたんだい?


ハサミみたいな音だ。追ってきたわけじゃ


ジャギッ……


……嘘だろ。あり得ない。そんなはずない。


……彼はをしていたのかい?


早く逃げなきゃ、人混みはダメだ、いつ刺されるか分かったもんじゃない。そうだ。警察だ。警察に匿ってもらおう。


カッ、カッ、カッ、カッ


ヤツは追ってきてる。間違いない。だって、足音がするんだ。ヤツの足音なんだ。


それは人混みの足音じゃないのかい?


そんなわけない。ヤツのだ。ヤツのに違いないんだ。


ジャギッ……ジャギッ……


おかしい。さっきから走って逃げてるのに、ハサミの音が鳴り止まないんだ。


それは本当にハサミの音なのかい?


決まってるじゃないか。耳が悪いのか? もうこんな近くまで来ている。こんなはずじゃなかったのに、なんで。


どんなはずだったと言うんだい?


追われるはずじゃなかったと言っているんだッ! なぜ分からない! 聞いてばかりでないで自分から話せないのかッ! 聞かせてくれ! なぜ警察署がどこにもないんだ! 教えてくれ! 俺の安息の地を!


ピー、ピー、ガガガ……目的地まであと0分の1m、お近くの交番はこの先4294967296mを右折してください。


満足したかい?


………ハ、ハハ。こんなの悪い夢だ。だから、早く。早く覚めてくれ。


辛いのかい?


ああ。


怖いのかい?


ああ。


やり直せるのなら、やり直したいのかい?


……ああ。


なら戻してあげる。


ご飯美味しかったですね!


! こ、ここは?


――さん、どうかされました?


あ、いえ。いや、なんでも。


その……この後、どうします? ……さっきも言った通り、夫は単身赴任で


ごめんなさい。遠慮しておきます。


やり直した今、どんな気分だい?


……晴れやかだよ。もうあんなことはしないさ。なぜあんなことが起きたのか、あれがなんだったのか、結局よく分からなかったけど、何をすればいいのか分かったよ。


本当に分かったのかい?


違うのか? ぜひ教えて欲しいな。


心が、記憶がある限り君を蝕み続けるもの、過去に戻ったところで消えないもの、君を……殺すもの。








罪悪感だよ。


これから先君はずうっと、自分が作ったハサミの音を耳元で聞き続ける。


震えているんだね。


怯えているんだね。


怖いんだね。



終わり。

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