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目々
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玄関のドアを開けたくない。
冷蔵庫には何もない。買い出しに行かないとその場凌ぎに炊く米すらない。通販で注文した商品の確保メールが来たからコンビニに支払いに行かないといけない。払わなければ運よく買えた限定版が自動キャンセルになる。通学定期があと一週間分しかない。駅で継続分の購入をしなければならない。そもそも財布に金がないから駅前のATMで現金を引き出す必要がある。
金曜日の午後三時。休講により降って湧いた幸福な空き時間を無駄遣いするほど俺は馬鹿ではないはずなのに、するべきことの第一歩たる外出を予感という理屈の通じないやつが全力で妨害してくるのだ。
気合を入れてドアノブに触れれば肌に伝わる金属の冷たさがひどく悍ましく感じられて、俺は慌てて手を離した。
忌避する理由が分からない。冷や汗が背中に滲む。動悸がする。なんだかひどく嫌な気分になる。薄い上着のポケットに安い財布を突っ込んで外出の支度を済ませ、百円のビニール傘が壁際に立てかけられた狭い玄関にくたびれた靴を履いて立っている──ただそれだけのことなのに、自分が何かとんでもない危機の手前で間抜けに突っ立っているような焦燥だけがじりじりと胸を焦がす。
大学進学を期にひとり暮らしを始めた。だから近所には故郷のように親族どころか知り合いも住んではいない。友人はいるがあいにく近所に住んでいるやつは誰もいないから買い出しを頼むというわけにもいかないし、そもそも馬鹿な子供でもないのに迎えを頼むわけにもいかない。合鍵を渡すような関係の相手もいない。そもそも候補がいたとしても『外に出ようとすると気分が悪くなるから買い物を任せたい』などと頼んだら正気を疑われるだろう。現状の自分でもどうかと思っているのだ。
ひとり暮らしである以上、当たり前だが俺の問題を片付けるのは俺しかいないのだ。唐揚げの衣をつけ終わったところでサラダ油が切れたことに気づいても自分で買いに行かなければどうしようもないし、風呂場の電球だって切れたら自力で交換しなければいつまでも真っ暗なバスタイムが確約されるばかりだ。
今までに経験した生活の不便を頼りに、冗談のように震える指がどうにかU字ロックを外す。金属が壁に打ち付けられる音で胸がまたざわついた。本命の鍵は未だ掛かったままだ。
背後から軽快な電子音が鳴り響いて俺は息を呑んだ。
慌てて部屋へと駆け戻る。食卓兼作業机の上にはスマホが置きざりになっていて、画面には高校時代の友人の名前が表示されていた。
通話ボタンを押す直前に靴を履いたままだったことを思い出したが、手遅れだと諦めがついた。
「ああ徳山?
お前ちゃんと勉強してんのと久方ぶりの挨拶に罵言を混ぜ込んできた友人に俺は遠慮なく舌打ちを返した。
「講義が休みだったんだよ。それより何? 久しぶりだけど」
「去年の夏以来だなお前冬帰ってこなかったから……お前そういうとこあるよな、薄情っていうかドライっていうかさ、目新しいのにすぐ夢中になるから色んなものを取りこぼすっていうかさ」
久方ぶりに掛かってきた途端に説教のような内容になり始めた電話に俺は呆れながら、愚痴を遮るように聞き返した。
「要件を早く言えよ。俺外出る用があるんだよ」
ぐだぐだと続きそうな世間話に苛立ってきつい声を出せば短い唸り声が聞こえた。
「俺だって用があって掛けたんだよ。
「……埴谷が? 埴谷って埴谷だよな、同級生っつうか、俺──」
「その埴谷だよ」
告げる声が存外に静かで、却って現実味がないように聞こえる。頭が内容を理解するのに手間取って、俺は黙ったままスマホを握り直した。
「俺もさっき知ったよ。突然だったからさ、とりあえず連絡取って回ってんの」
「マジで、その──」
「死因は俺も知らねえの。ただまあ病気じゃねえと思うんだよな。あいつ高校のとき一人だけインフル引かなかったし。頑丈だったのにな」
懐かしむように呟く平方の語尾が僅かに掠れる。そのまま重たげな溜息が続いた。
窓越しに吹く春一番が思いのほか大きな音を立てた。
「あの、葬儀とかはどうだろう。俺予定とか、その」
「うん。その辺もうちょいしたらまとめて連絡入れるわ。まだ伝えないといけないやついるし」
とりあえず細かいことはまた夜あたりなと掛かってきたときと同じく一方的に告げて、慌ただしく通話が切れた。
さすがに呆然としたまま、雑然とした部屋の中で立ち尽くす。唐突に知らされた
心臓はすっかり大人しくなり、鳥肌がびっしりと立っていた両腕もいつも通りのかさついた肌に戻っている。
「虫の知らせとかそういう……そういうやつだったのか、これ」
言い聞かせるように独りごちる。胸騒ぎも不安も嘘のように治まって、ただスマホを握り締めたままの手がうっすらと汗を掻いている。
大学に進学してからしばらくは連絡も取り合ってはいたが、忙しくなってからは次第に疎遠になっていた。いつでも連絡が取れるなとトークの痕跡を眺める度に思い出しては、日常の雑事に後回しにしていたのだ。
懺悔のように埴谷との記憶を辿る。
中学校で同じクラスになってから、通学路が重なっていた関係でつるむ機会が多かった。同じ高校に進学してからも同様で、放課後になれば駅のホームで中々来ない電車を待ちながらくだらない話をしていた。学祭の準備委員会に揃って立候補して、泊りがけで制作物を仕上げたこともあった。数学の授業で問題の回答役に指名される日の朝に、解けていない順列問題の解き方を教えてくれと俺が泣きついたこともあった。三年生の夏、予備校の特別授業をサボって喫茶店で隣の市まで出かけて何の興味もない美術館を眺めた。帰りの電車で眺めた夕日は世界の終わりのように赤かった。
今更のように過去を浚う。それぞれの場面に浮かぶ埴谷の顔は影のようにぼんやりとしていた。
葬儀にもし参加できるとしたら、喪服やその辺りは実家の両親に連絡を取る必要があるだろう。どのみち平方からの連絡がないことには何をするのも決めるべきではないだろうに、何もできないことと何をしていいのかも分からないという事実が嫌な重みを増した。
初めて友達が死んだな、と俺は何となく足元がひどく頼りないような錯覚に襲われる。視界が揺らぐような現実感のなさが徐々に意識を覆っていく。人が死んでも天気はいいし風は吹くんだな、と当たり前のことを考えて、俺は風に軋んだ窓の方へとのろのろと視線を向ける。
ガラス戸越しに見える空は柔らかな青色をしていた。
とりあえず目下の問題を片付けなければいけないのだから、俺は買い物に出なければならない。このふわふわと浮足立つような感覚も、胸に砂が溜まるような息苦しさも外を歩けば治るはずだ。
気を取り直して廊下を土足で歩く。帰ってきたら一応雑巾を掛けようと考えながら、俺は微かな違和感に玄関口で立ち止まる。意味もなく靴の爪先で床を叩けば、解けていた靴紐に気づいた。結び直そうと、その場で屈み込む。
玄関の鍵が目の前で音を立てて回った。
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