業の連鎖

日乃本 出(ひのもと いずる)

業の連鎖


 ――まもなく、一番ホームに電車がまいります。危険ですから…………。


 朝の通勤通学ラッシュによる人ごみでごったがえしている駅のホームに、電車の到着を告げるアナウンスが響く。

 そのアナウンスを人々は、ああ、これからあのうっとおしい、すし詰め状態の通勤・通学が始まるのか、というウンザリした表情を浮かべながら聞いていた。週明けの月曜日なので、そのうっとおしさはひとしおだ。

 そんな中、一人だけ、妙な表情を浮かべている少年がいた。着ている学生服と顔のあどけなさから察するに、中学校の二年生くらいだろう。しかし、そんな若さに関わらず、その少年が浮かべている表情は、同世代の少年が浮かべるそれとはまったく違う、実に異質なものであった。

 無気力――とはちょっと違う。なんというか諦観の境地に達しているかのような、いわゆる何かを悟っているかのような表情。普通に考えれば、とてもこの少年のような年齢の若さで浮かべれるような表情ではない。


 では、なぜ少年はこのような表情を浮かべているのか?

 それは、少年が今から向かおうとしているところに答えがあった。

 周囲の学生たちと同じように学校へ行く? いや、違う。それならば、この少年も周囲の学生たちと同じように、週明けの登校に気だるさを覚えている表情を浮かべていることだろう。事実、少年は少し前まではそのような表情を浮かべていた。ただし、その場合の少年の表情は周囲よりいっそう陰鬱なものではあったが。

 じゃあ、少年は朝の通勤通学ラッシュの人ごみの中、どこへ行こうとしているのか?


 ――まもなく、一番ホームに電車がまいります。危険ですから…………。


 ホームの昇降口に列をなして並ぶ人々。押すな押すなと列の先頭の争奪戦。以前は少年もそれに加わっていた。だが、今日は違う。もう、並ぶ必要などないのだ。

 列から離れ、ホームの先端のほうへと近寄っていく少年。


 ああ――これで、解放されるんだ。この――苦しい、苦しい人生から。この――醜い、醜い世界から。


 そう――少年が向かおうとしているところは学校などではなく、空の上。つまり、少年は自殺しようとしていたのだ。

 自殺の理由は、いじめであった。

 入学当初から同級生に目をつけられ、それから二年に進級した今までそれはずっと続いていた。

 一年間、少年は我慢に我慢を続けていたが、ここに至って、ついにその我慢も限界になり、少年は自殺という道を選んだのだ。


 もちろん、少年がすぐに自殺をしようと思い立ったわけではない。自殺という選択をするまでにも、少年は少年なりに悩んだのだ

 両親に相談しようとも考えたし、担任に相談しようとも考えたし、数少ない友人に救いを求めようとも考えた。

 だが、結局はそのいずれもダメだった。

 両親は共働きで忙しく、そして少年を良い子だと信じていた。そんな両親を悲しませるような相談など、少年ができるはずもない。両親が少年を心から愛しているように、少年も両親を心から愛していたのだから。

 では担任はどうかといえば、担任は事なかれ主義を具現化したらこんな人間になるだろうというような人間で、とてもではないが、まともに取り合ってくれるとは思えなかった。そもそも、そんな担任を少年は信用することができなかった。

 少年の数少ない友人はどうかというと、自分がいじめに巻き込まれるのはごめんだと、少年との関りを意図的に避けるような始末。冷たい態度をとってくれれば、まだ少年は救いがあった。中途半端に同情され、中途半端に哀れに思われることが、少年をよりいっそう傷つけた。やがて、少年の方から友人から離れていくことになった。それも、当然の帰結であろう。


 そんなこんなで少年は誰にも相談できず、一人でひたすら悩み、一人でひたすら苦しみ続けた。苦悩の日々が続くにつれ、少年の心はどんどんすさんでいった。やがて、少年は考えた。


 こんな苦しみが永久に続くのならば――――。


 もう、我慢の限界だった。もう、苦しみたくなかった。だから、苦しみから解放されたいと思った。

 そこで――少年は自殺することを選んだ。いや、正確に言えば、自殺するくらいしか考えつかなかった。

 生きているから苦しいのだ。生きているからこそいじめられるのだ。ならばそこから逃げ出すにはどうすればいい? そうだ。死ねばいいんだ。生きているから苦しむのであって、死ねば苦しむことなんてないんだ。

 さながら、天啓がおりてきたような気分だった。なんだ、簡単なことじゃないか。どうして、こんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。

 顔には自然と笑みがこぼれ、しばらく感じることのなかった安堵感が少年の心を優しく包んだ。じゃあ、早く実行しよう。早く、苦しみから解放されよう。


 そして、今まさに少年は旅立とうとしていたのだ。永遠なる救済の道へ。永遠なる安らぎへの場所へ。

 電車がホームにどんどんと近づいてくる。

 少年は、ゆっくりと夢心地といったような足取りでホームの先端へと近づいていく。

 ぷぁぁん。という電車の警笛の音。

 ああ……もう……苦しまなくても……いいんだ……。

 ホームの先端から、まるで疲れ切ってベッドに倒れこむかのように身を投げようとする少年。

 キィィィィィ!! という、死神があざ笑うかのような電車の急ブレーキの音。それをきっかけに、少年の意識はそこで途切れ…………。




 ぎぃ……。ぎぃ……。

 古い木と木がこすれあうような音がしていた。それが呼び水になり、少年の意識がじわじわと戻ってくる。

 ちゃぷん……。という水音。そしてゆりかごに乗っているかのように、ゆっくりと揺れる体。

 おかしいな。僕は駅のホームにいたはず。そして、電車に向かって飛び込んで……。

 そう。死んでいるはずだった。しかし、こうして意識がある。感覚もある。これはいったい、どういうことなのだろう?

 ゆっくりと恐る恐る目を開ける少年。その視界に飛び込んできたのは、陰鬱さを感じさせるどんよりとした曇天の空。


 あれ……? 僕、死んでない……?

 地面に手をつき、体を起こす。

 そして――――少年は驚愕した。

 見渡す限りに広がる水面。まるでそこは太平洋か大西洋か――海域はともかく、まるで大海原で遭難しているかのような気分だった。その中にポツリと浮かぶ頼りない古びた渡し船。そこに少年は乗っていたのだ。

 わぁっ! と思わず声をあげる少年。すると、


「黙っておいでよ」


 という、カエルを踏み潰したかのようなしゃがれ声が聞こえた。声のした方向に目をやる少年。そして、そこでまた少年は声を出して驚いた。

 老翁とも老婆ともとれる、醜い顔が少年をうらめしそうに見つめていた。骨と皮だけのやせ細った身体に、まとっているのは黒いぼろきれのみ。瞳はどろんとした汚濁のように濁り、口の端からはよだれがしたたっていた。


「黙っておいでよ」


 そう繰り返す老人。しかし、黙っているわけにもいかない。ここはいったいなんなんだ。あんたはいったいなんなんだ。何度もどもりながらも、必死にそう問いかける少年。老人は至極めんどくさそうに、


「あたしゃぁ奪衣婆だつえばさ。この、三途の川から死人をあの世へ運ぶ役割をしてる。言うなれば、三途の川の渡し船の船頭さ。わかったかい。だから、黙っておいでよ。あたしゃぁ、やっかましいのはキライなんさ。まったく、近頃の死人はうるさくってかなわん。理屈っぽい死人なんて、あたしの持ってるこのかいでぶん殴ってやりたいほど腹立たしい。どんなに理屈並べようが何しようが、死んじまったからここにきてるってのにさ」

「三途の川……。じゃあ、僕はやっぱり死んでしまったわけなんですね?」

「ああ。そうだよ。じゃなきゃあ、あたしがこうしてあんたを運ぶもんか。ああ。うるさい。うるさい。黙っておいでよ。じゃなきゃあ、この櫂であんたを打ち倒しちまうよ」


 そう言って櫂を振り上げてみせる奪衣婆。少年は慌てて、ごめんなさい、と謝罪をし、それっきり口をつぐんだ。それを見た奪衣婆、満足そうにうなずき、櫂を三途の川の水面へと差し込み、船をこぎはじめる。

 ぎぃ……。ぎぃ……。

 沈黙のまま、奪衣婆が船をこぐ音だけが長い間続いた。その間、少年の頭の中には色んな思いが渦巻いていた。

 僕はこれからどうなるのだろう? 三途の川って、すごくでかいんだなぁ。あれだけ苦しい思いをしたんだから、もちろん天国に行けるのだろうな。でも、天国への道先案内人としては、あんまり見た目がよくないなぁ。

 そんなことを考えながら、ふと自分の身体に視線を落とす少年。死んでいるのだったら、やっぱり幽霊みたいになってるのかな? という疑問が頭に浮かんだのだ。

 足はある。そして、身体は透明でもない。生きていたころと変わらない、普通の肉体だ。頬をつねってみる。痛い。死んでも痛いなんて変な話だ。でも、痛い。ただ、生きていたころと変わっていることもあった。

 それは、服装だ。駅のホームにいた時は学生服を着ていたはずなのに、今の少年は死んだ人が葬式の時に着せられる、白装束姿だった。頭をさわってみる。カサリと感触が一つ。どうやら、頭にも白い三角巾みたいなものが巻かれているらしい。


「まさに死人のステレオタイプって感じだ」


 ポツリとつぶやく少年。すると奪衣婆が、くぁ~~~~~っ! とタンを吐く時のような音を立てて少年に言う。


「わけのわかんないことを言うでないよ。人が死んだら、あたしから白装束に着替えさせられるってのは、はるか昔からの決まりごとさね。あたしの奪衣婆って名はそこからきてる」


 船をこぐ手を止め、奪衣婆が少年の方へと向き、ドロリとした瞳で少年を全身をなめるようにみた。そして、ドロリとした瞳の中に、強烈な侮蔑の色を浮かべて、こう言った。


「ほんでもって、罪人を地獄の閻魔様へと運ぶのも、あたしの仕事さ」


 この奪衣婆の一言によって、少年の心に雷鳴にでも打たれたかのような衝撃がはしった。


「罪人ですって? 僕が? どうして?」


 前のめりになりながら奪衣婆に訴える少年。グラグラと揺れる渡し船。奪衣婆は、ごんっ! と櫂を渡し船の先端を叩いて揺れをおさめ、


「どうして、じゃと? あたしが知るかいな。あたしは閻魔様がお決めになったことに従うだけさね。どうしてか、なんてのは小僧が直接閻魔様に聞きな。ほら。見えてきた。あそこが閻魔様のいらっしゃる、地獄の入り口さ」


 ひっひっひっと下卑た笑い声をあげながら、奪衣婆が前方を指さした。頼りなく揺れる船の上をのそりのそりと這うようにして、奪衣婆のそばへと移動する少年。そして奪衣婆の指さす方に目をやった。

 すると、水平線の先に、巨大な大陸らしきものが徐々に近づいてきているのが、少年の目に入った。なんとなく、雄大な気持ちになってしまう光景だ。水平線の彼方に新大陸を発見したコロンブスもこのような気持ちだったかのしれないな。

 だが、大陸が近づいてくるにつれて、少年の雄大な気持ちは消し飛んでいき、代わりに色濃い恐怖が少年の心を支配していくことになる。それは、大陸のあまりの異様な光景が原因であった。

 まず目につくのは、鋼色にギラギラと鈍く光る巨大な山脈の数々。最初、少年は雪が光を反射しているのかと思ったが、大陸に近づくにつれ、山脈の銀色が雪などではなく、どうやら金属が光を反射しているのだとわかった。

 いったい、この山脈は何で出来ているのだろうと、少年は目を凝らして見てみた。

 そして、少年は肝をつぶした。


 鋼色の山脈の正体は、針の山だったのだ。切っ先を上に向けた巨大な針が、途方もないほどに連なって、その鋼色の山脈を形成していた。

 針の山……。ということは、ここは地獄?! 僕は、地獄に連れていかれてるのか?!

 果たして、ここは本当に地獄なのか。それを目で確認してみようと、少年が針の山から視線を落とし、大陸の全容を見ようとした。

 しかし、外からの視線を遮るようにしているのか、巨大な木造の壁によって、大陸の外周はつつまれていた。これでは、中の様子を垣間見ることなど、不可能だ。

 気が気でない少年は、奪衣婆に問いかける。


「ここが地獄だっていうんですか?! どうして僕が地獄なんかに?!」

「あぁ~~~~うるさい。うるさい。言ったろう。あたしは、閻魔様がお決めになったことに従ってるだけさね。小僧がどうして地獄に来たかなんてぇのは、閻魔様に直接聞けっていってるじゃないか。だけど、ここが地獄かどうかってことだけは答えてあげるよ。そうさ。ここは地獄さ。小僧のような罪人を、未来永劫に罰するために偉い方がおつくりになられた、地獄という名の罪人の拷問場さ」


 ひ~~~~っひっひっひっ~~~~~~! と狂ったように笑う奪衣婆。茫然とする少年。その時、突如として響き渡る、ジャァン!! ジャァン!! という銅鑼の音。


「ちょうどいいじゃないかい。小僧。よぉ~くあの針の山を見な。口で言われるより、実際にその目で見りゃあ、いやでも納得するだろうさ」


 奪衣婆に促され、針の山に目をやる少年。一体、何が起こるんだ。

 少しの間の後、針の山に変化が表れた。頂上部分が、まるで血液が固まったときのようなドス黒い色の雲で覆われ始めたのだ。

 息をのみながら、それを見つめる少年。やがて、針の山の雲が雲散霧消していく。

 そして、針の山から雲が完全に消え去ると、少年は顔をしかめた。先程まで頂上部分は鈍い鋼色できらめいていたのだが、今は何かいくつもの黒い点々によって頂上部分が埋め尽くされ、針の山の鈍い鋼色がなりを潜めていたのだ。

 それどころか、頂上部分からふもとへとむかって、じわじわとなにやら赤い色が針の山を染めあげていっていた。

 一体、何が起こっているんだ? 首をかしげる少年。


「ひ~~~~っひっひっひっ~~~~~~! 見えないかい? それとも、見たくないのかい? どっちでもいい。どっちでもいい。ただ、みたけりゃ、これを使ってみるといい」


 そう言って、奪衣婆は懐からかなり古い望遠鏡を取り出し、それを少年に向かって差し出した。その時の奪衣婆の表情は、形容のしがたいほどの醜いものであった。あえて形容するとするならば、世の全て蔑みを集約したかのような表情、といえばいいだろうか。ともかく、醜かった。

 だが、少年は、その表情をどこかで見たような覚えがあった。どこだったかな。そうだ。あいつらだ。僕をいじめていたあいつらも、同じような表情を僕に向かって浮かべていた。

 奪衣婆の表情に少年は背中に戦慄を感じながらも、奪衣婆が差し出した望遠鏡を手に取り、それを異変が起こっている針の山へと向けてのぞいてみた。


「――――うわぁぁぁぁあああああああああああああああッ!!!!!!!」


 喉を潰しそうなほどの悲鳴をあげ、しりもちをつく少年。少年が思わず手落としてしまった望遠鏡を、奪衣婆が、さっ! と素早い動作で空中でつかみとる。その素早い動作から察するに、きっと慣れているのだろう。それはつまり、ここに連れてこられる死人全員が、少年と同じ反応を示すということの証左であるともいえた。


「ひ~~~~っひっひっひっ~~~~~~! 見たかい、小僧? あれが罪人の末路さね!」


 信じられない光景だった。

 針の山の頂上部分の黒い点々――それは、奪衣婆と負けず劣らずな骨と皮だけの姿となってしまった、亡者の群れであった。

 そして、針の山を赤く染めあげていたのは、亡者の群れの足元からしたたる、鮮血。

 その光景――まさに、地獄と形容するほかなし。

 あまりの衝撃的な光景に過呼吸になっている少年に向かって、奪衣婆が下卑た笑みを浮かべて言う。


「ひ~~~~っひっひっひっ~~~~~~! いつ見ても、胸がスカッとする光景じゃないかえ。あれに罪人共の悲鳴がついていれば完璧なんじゃけど、あいにく、罪人共は舌を引き抜かれっちまってるからねぇ。小僧。悲鳴をあげたいのなら、今のうちにい~~~~~っぱいあげておいでよ。ああなっちまったら、未来永劫、悲鳴をあげれなくなっちまうんだからね!」


 渡し船が大きく揺れてしまうほどに、ガタガタと全身を恐怖で震わせる少年。

 嫌だ……嫌だ……!! あんな仕打ちをうけるなんて嫌だ!! 地獄なんて嫌だ!!

 慌てて三途の川へと飛び込もうとする少年。奪衣婆は、その少年の腕を素早くつかみ、物凄い力で引っ張り足元へとひざまずかせて罵声をあびせる。


「えい。なにを往生際のわるいことだよ。あんたはまだ小僧時分だから情けをかけてやってたけど、あたしの仕事を邪魔するってんならそうはいかない。こいつでコツンさ。大人しくなりな」


 櫂を振り上げ、少年へと勢いよく打ち下ろす奪衣婆。激しい衝撃が少年の頭にはしる。そして、そのまま少年は意識を失い…………。




 ……ずるり。……ずるり。

 どうやら、何者かにひきずられているらしい。おぼろげながら意識を取り戻した少年がまず思ったことは、それだった。意識がはっきりしてくるにつれ、それは確信へと変わっていった。まちがいない。装束の襟をつかまれ、力任せにひきずられている。

 少年は目を開き、辺りを見渡そうとした。しかし、少年の目に入ってくるのは墨汁でぬりつぶされているかのような漆黒の闇ばかり。これでは、何がどうなっているのか知りようがない。


「あの……すみません……」


 自分をひきずっている何者かに向かって、少年はおずおずと声をかけてみた。反応なし。聞こえていないのかな?


「あのぉ――――」


 先ほどより少し大きな声で呼びかけてみる。すると、今度は聞こえたのか、少年をひきずっている者がピタリとその動きを止めた。それに勢いづき、少年は自分をひきずっている者に向かって、


「ええっと、ここは一体どこなのでしょうか? ここは本当に地獄なのでしょうか? 僕はこれからどうなるのでしょうか? あなたは一体どなたでしょうか? それに…………」


 考えつく、ありとあらゆる質問をなげかける。だが、少年の質問に対する答えが返ってくることはなかった。それどころか、突如としてその何者かの大きな手によって、少年の首が物凄い力で絞められはじめたのだ。


「うぅっ?! ぐぅ……ぐぐ……!!」


 思わぬことに、うめき声をあげることしかできぬ少年。みしみしと音をたてる少年の首。またしても、徐々に意識が遠のいていく。ああ。僕、このまま死んじゃうのかな。いやいや、もう死んでるのに、死ぬっておかしくない?

 少年の意識がまたしても途絶えそうになる寸前、少年の首を絞めていた大きな手が、何の前触れもなく少年の首を放した。

 げほっ!! げほっ!! とむせる少年。しかしそんな少年の様子など意に介さずとばかりに、大きな手の持ち主は少年をどこかに引きずっていくことを再開する。


(……きっと、黙ってろってことなんだろうなぁ)


 無言の圧力に空気を読んだ少年は、されるがままに身を任せることにした。どうせ、もう一回死んでいるんだ。まさか、また死ぬなんてことはないだろう。

 ずるり……。ずるり……。

 時間にして、二分ほど引きずられたころだろうか。周囲が少しずつ明るくなっていきはじめた。どうやら、引きずっている者が目的としている場所に近づいているらしい。

 いったい、どんな人が僕をひきずっているのだろう。少年は、自分を引きずっている者が何者かと見上げてみた。

 じわじわと大きくなっていく明かりが、少年を引きずっている者の顔を照らしだしていく。そして――――、


「わっ?! わぁぁぁぁぁぁ!!」


 少年を引きずっている者の顔が完全に明らかになったとき、少年は割れんばかりの叫び声をあげた。

 それもそのはず、少年を引きずっていた者の正体は、鬼だったからだ。それも、馬の頭をした鬼――馬頭めずだったのだ。

 必死に馬頭の手から逃げようともがく少年だが、馬頭の力はすさまじく、少年の抵抗などまったく問題とせずに、そのまま少年を明かりの方向へとひきずっていった。

 やがて、明かりが周囲の全てを照らし出した――そして、少年はまたしても大きな悲鳴をあげることになった。


 辺り一帯、紅蓮の炎が壁のように燃え盛り、その炎の壁の中に、裁判所のような光景が広がっていた。ただ、傍聴席はなかった。その代わりにあるのは、炎。燃え滾る、紅蓮の炎の壁。

 ガタガタと震える少年の首根っこを馬頭の大きな腕がつかみあげる。うぅ! とうめき声をあげる少年。しかし、そんなことなど知ったことかと、馬頭は少年の首根っこを掴んだまま持ち上げ、少年の身体を炎の壁の中へと勢いよく放り込んだ。


「うわぁっ?! わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 悲鳴をあげる少年。そんな! 生きたまま丸焼きにされるなんて! いや、生きてはいないんだよね? 死んだまま丸焼き――って、もう火葬されてたらすでに焼かれてるわけだし……でも、どっちにしたって焼かれるのはいやだぁっ!!

 混乱する頭の中で心配する少年だったが、ところがどっこい、少年の身体に火が燃え移るなんてことはなく、少年の身体は炎の壁をまるでなんの手ごたえもない空気の壁がごとくすり抜けていった。ただ、顔面から地べたに落ちたので、それだけは傷みがあった。


「いてて……まったく。生きてるのか死んでるのか、もう一体どっちなのかわかんなくなってきたよ」


 赤くなった鼻をさすりながら起き上がる少年の後ろから、少年を投げ飛ばした馬頭が炎の壁の中を悠々と歩いてきて少年のそばで立ち止まった。ひょっとして、あの炎って本当は熱くないのかな? そんなことを思っていると、馬頭が身も凍るような声で少年に告げた。


「罪人ハ、証言台ノ前ヘトススメ」

「証言台……?」


 少年がおずおずと馬頭に聞き返すと、馬頭がゆっくりと前方を指でさし示した。馬頭の指さした方へと目をやると、なるほどそこには証言台と思しきものが裁判官が座る高い席の前にあった。


「えっと――――」


 そもそも僕は罪人なんかじゃないんですけどと言い訳をしようとする少年を、馬頭はイラだった声で急かした。


「罪人ハ、証言台ノ前ヘトススメ」


 とりつくしまもない馬頭の様子に、少年は仕方なく従うことにした。従わなければ何をされるかわからない。そんな雰囲気を、馬頭は全身から発していたのだ。

 少年が証言台の前へと立つのと同時に、ジャーーン!! ジャーーン!! という激しい銅鑼の音が辺りに響き渡った。その音を聞き、馬頭が感極まったような声で叫ぶ。


「エンマ大王様ノオデマシダ!! 罪人ヨ!! 頭ヲサゲヨ!!」


 エンマ大王……。馬頭の言葉に茫然とする少年。ということは、僕は本当に罪人として裁かれてしまうのか……?!

 少年が恐怖に身を固まらせていると、馬頭が少年の頭をひっつかみ、力づくで無理矢理少年の頭を下げさせた。

 やがて、馬頭が少年の頭からその手を放した。頭をあげる少年。すると、目の前の高い席の前に、顔を真紅に染め上げたエンマ大王が、厳しい視線で少年の姿を射抜いている姿が目に映った。


「あ、あの――――」


 必死にエンマ大王に問いかけようとする少年の声を、エンマ大王の地響きにも似た声が打ち消した。


「罪人の罪状を、これに」


 エンマ大王がそう言うと、少年の後ろからいつのまにか牛の頭をした鬼――牛頭ごずが馬頭の横に控えており、牛頭が巻き物をその手に持ってエンマ大王の元へとその巻物を届けた。エンマ大王は巻き物を受け取ると、牛頭にさがってよいと告げた。牛頭は馬頭の横へと戻り、エンマ大王は巻き物を広げて中を改め始めた。


「罪人よ。貴様の罪状は、自殺のようだな」


 見られただけで魂が抜けてしまいそうな恐ろしいエンマ大王の眼光が少年を射抜く。


「そ、そうです。確かに僕は自殺をしました。ですが、自殺したことで僕が罪人として扱われるなんて、そんな理不尽な事ってありませんよ!!」


 涙目になりながら訴える少年。現世でも苦しい思いをしたのに、死んだ後も地獄で責め苦を負わされるなんて、たまったものじゃない!!


「黙れぃぃ!!!!」


 身も凍るようなおぞましい雄叫びをあげ、エンマ大王は巨大な木づちで机を打った。びくりっ! と身を震わせ、恐怖に押し黙ってしまう少年。


現世うつしよの法が如何なる法かは知らぬが、古来より幽世かくりよの法においては、自ら命を絶つことは極刑に処することになっておる。罪人よ、貴様に判決を申し渡す――一万年の地獄巡りだ!!」


 一万年――気の遠くなるほどの数字をきかされ、少年は恐怖をなんとかぬぐい去ってエンマ大王に申し立てた。


「そ、そんな! 待ってください! 僕の話も聞いてください! 僕は確かに自殺をしたかもしれない! でも、僕は誰にも迷惑をかけちゃいないはずだ! それなのに僕が地獄に行かなきゃいけないなんて、そんな理不尽なことがあってたまるもんか! 僕が地獄に行かなければならないのなら、僕を自殺に追い込んだあいつらこそ地獄に行くべきじゃないんですか!」

「なんと図々しい罪人だ。貴様、己が誰にも迷惑をかけていないなどと、真にそう思っておるのか? ならばワシの前で誓ってみよ。己は決して、人に迷惑をかけてはおらぬとな。ただし、もしそれが嘘であった場合には、貴様の舌を抜くぞ、よいな?」


 ギロリとエンマ大王から睨まれたが、ここで引き下がっては地獄行きは確定だ。少年は負けじと言い返した。


「ええ! 間違いありません! 僕は絶対に、誰にも迷惑をかけてはおりません!」

「ならば、見せてやろう。貴様の罪咎を。おい、鏡をここへ」


 エンマ大王が牛頭と馬頭に目配せをすると、牛頭と馬頭は炎の壁の向こうへと歩み去って行った。そしてすぐにエンマ大王の言う鏡をもって戻ってきた。

 その鏡の大きさはかなりのもので、二メートルは優に超えている牛頭と馬頭が両側を支えてなければならないほどの巨大さであった。


「罪人よ、見るがいい。貴様の罪咎を」


 エンマ大王がそう言うと、鏡が光を放ち始め、鏡の中に何かの映像が流れ始めた。少年が映像に目を凝らしてみると、そこには首を吊った中年の夫婦と、その夫婦にすがりついて泣き崩れている少女の姿が映っていた。

 思わず目をそむける少年。だが、これと僕にいったい何の関係があるというんだ。少年がエンマ大王にそう問いかけようとしたとき、


「見えたか、罪人よ。この者達は、貴様が自殺したことによって、自殺に追い込まれた者達だ。貴様は電車に飛び込んで自殺をした。それにより、電車の遅延が起こり、その中年の男は大事な商談に遅れてしまい、勤めていた会社に多大なる損害をおよぼしてしまったのだ。その結果、中年の男は会社をクビになり、それから何をやっても上手くいかず結局は自殺に追い込まれてしまったのだ。わかったか、罪人よ。貴様の罪咎は重い。貴様の行為によりこの者達は自ら命を絶つことになり、それすなわちこの者達もこの地獄の罪人となって、長い責め苦を負わされることになってしまったのだ」

「そ、そんな……!」


 茫然自失とする少年。まさか、そんなことになってしまうなんて……。そんな少年に、エンマ大王がたたみかける。


「最近の罪人は屁理屈が多いからな。貴様もきっとそうであろう。ならば、反論のできぬように貴様の罪咎を思い知らせてやらねばならぬ」


 エンマ大王がそう言うと、またしても鏡が光を放ち始めた。そして、鏡の中の映像が別な映像へと切り替わる。切り替わった映像を見て、少年は絶句した。


「か、母さん……!!」


 鏡の中に浮かんでいたのは、血に染まった包丁を握りしめて、激しい憎悪で醜くゆがんだ表情を浮かべている少年の母親の姿であった。


「たとえ別な方法で貴様が自殺したとしても、貴様の母親が貴様が殺されてしまったのだと憎しみにかられ、貴様を追い詰めた者共を殺してしまうのだ。そして貴様の母親が死んだとき、貴様の母親は最も厳しい責め苦を地獄にて未来永劫受け続けることになる。わかったか。自ら命を絶つことの罪の重さをわかったか。誰にも迷惑をかけていないだと? 罪人如きが知ったふうな口を利くな!!!!」


 エンマ大王が一喝すると、少年の後ろに控えていた牛頭と馬頭が少年のそばへとやってきて少年を拘束し、エンマ大王の前までひったてた。必死に叫び声をあげながら少年は抵抗するが、最早それはただの無駄の抵抗にしかすぎなかった。


「まずは貴様の舌を抜く。その後、針の山、血の池……ありとあらゆる地獄の責め苦を受けてもらおう。一万年の時の責め苦を、な」


 ガチガチと歯を鳴らしながら震える少年の顔を、牛頭と馬頭の大きな手がつかみあげ、少年の口を力づくで開けさせた。助けて!! と叫ぼうとしても、それはもううめき声にしかならなかった。


「では、執行といくか――――」


 そう言ってエンマ大王が袖口に手を突っ込み、袖口から舌を引き抜く拷問器具を取り出した。それを見た少年のうめき声が一層高くなる。

 嫌だ!! 嫌だ!! 助けて!!

 少年が心の底から願ったその思い――それを神か仏かわからないが、どうやら誰かがすくいあげてくれたらしい。エンマ大王が拷問器具を取り出したとき、エンマ大王の袖口から何やら一枚の紙がひらりと宙に舞った。


「むぅ?」


 エンマ大王はその紙を手に取った。何かが書かれてあるらしく、エンマ大王はその紙をじっと見つめていたが、やがてこう言った。


「ほぉ。罪人よ、貴様はどうやら運がいいようだ。貴様は本来はあの場で助かる予定だったのだが、何かの手違いで幽世へときてしまったらしい。地獄は死人の罪人を裁く場所。まだ生きている者を裁くことはできぬ」


 ドンッ!! と、エンマ大王が木づちで机をたたくと、少年を拘束していた牛頭と馬頭が少年から手を放し、少年の身を自由にした。ぜぇ! ぜぇ! と息も絶え絶えの少年に、エンマ大王が言葉を続ける。


「心せよ、罪人――いや、若人よ。貴様が自ら命を絶てば、貴様はこの地獄へとまた来ることになり、貴様が自ら命を絶てば、そのことによって様々な者が不幸になることを心せよ」


 ゴクリ、と少年が息をのんだ、その瞬間。突如として少年の足元の感覚が消え去り、少年はドンドンとひたすらに落下をしはじめた。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………!!」


 いつまでも終わらない落下感。いつまでも終わらない絶叫。やがて、少年の意識は薄れていき…………。




「あぁっ?! 先生!! 先生!! 動きました!! 息子が動きました!!」


 母親の涙ながらの絶叫が少年の耳に入った。母親の言葉に応えるかのように、恐る恐る目を開いていく少年。すると、真っ白な清潔そうな天井と、母親の涙に濡れた哀願するような表情が少年の視界に入った。


「か、母さん……?」


 力なく呟く少年の手を、母親が力強く握りしめる。


「よかった……!! よかった……!! あなたが駅のホームから落ちて頭をぶつけてしまって意識不明だと連絡を受けた時は、本当にどうなることかと思ったわ!!」


 母親はそう言うと、少年の身体にすがりついて泣きじゃくりはじめた。それを後ろで見ていた白衣の初老の医師が、ほっとした顔つきになって言った。


「うん、どうやらもう大丈夫のようですね。しかし、息子さんは本当に運がいい。駅のホームに息子さんが落ちた時、本来ならば電車に引かれていたはずなのですが、その時、偶然にも電車の信号機が不調で、電車が徐行運転をおこなっていた。だから、電車は息子さんをひくことなく停車し、息子さんがホームに落ちたのを目撃した駅員が慌ててホームへと飛び込んで息子さんをひきあげてくれた。本当に、運の強い息子さんだ」


 ほっほっほっと柔和な笑みを浮かべながら、初老の医師が少年の元へと近づいていった。


「どうかな。これは何本に見えるかね」


 人差し指を一本だけたてて、少年に問いかける。


「……一本です」

「うん。認識能力も大丈夫。一週間は検査と経過観察のために入院していただくことになりますでしょうが、まあ大丈夫でしょう。まさか、あの高さから落ちてたんこぶ一つで済むなんて、息子さんは本当にうんがよろしい。いや、ひょっとするととんでもない石頭なのかもしれませんな」


 ほっほっほっと笑う医師。医師や母親とのやりとりから考えて、少年は自分がどうやら病院の一室にいるのだと察した。ということは、エンマ大王が言っていたように、自分はどうやらまだ死んではいないようだということが、少年の心の中にじわじわと染みこんできた。

 その時、病室の中にスーツ姿の一人の男が飛び込んできた。少年の父親だ。病室に飛び込んでくるなり、父親は泣き崩れている母親のそばへと歩み寄り、母親が握っている少年の手の上に自分の手をそっと重ねた。


「よかった……うん、それだけしか言えない。本当に……よかった……」


 感無量といった体で身体を震わせながら、ベッドで寝ている少年の身体を優しく父親が抱きしめた。久しぶりの父親のぬくもりに、思わず少年は涙があふれだしてきた。


「う……うう……!! と、父さん……母さん……!! ごめんよぉ…………!!」


 少年は思い知った。如何に、自分が愚かであったか。父親も母親もここまで自分を愛してくれているのに、そんな父親と母親に遠慮をして最初から助けを求めなかったということが、如何に愚かなことか。少年は今、そのことを父親の抱擁からひしひしと感じることができた。

 後で、全部話そう。僕がいじめられていることを。僕はホームに落ちたんじゃなくて、本当は自殺しようとしてたんだって、父さんと母さんに全部打ち明けよう。確かに、そうすることでこれからもつらいことや逃げたくなるようなことがまた増えてくるかもしれない。でもだからって、逃げようとして自殺した後で地獄で終わらない責め苦を受けるよりはきっとマシさ。

 それに――――僕はもう、両親につらい思いをさせたくはない。

 心の中で少年はそう誓い、今はただ、せきを切ったかのように、力いっぱい泣きじゃくるのであった。




 病室での少年たちの光景を、巨大な鏡で見ていたエンマ大王がうなずきながら、


「うむ。これでよし」


 と漏らした。そして牛頭と馬頭に鏡を元の場所へと戻せと命じた。鏡を運びながら牛頭と馬頭はお互いにこう言い合っていた。


「シカシ、ナンダナ。エンマ大王様モ、物好キナモンダ。自殺シヨウトスル人間ノ魂ヲ一時的ニ地獄ヘ呼ビ寄セ、説教ヲカマシテ二度ト自殺スル気ヲ起コサセナクスルナンテナ」

「マッタクダ。エンマ大王様ガオッシャルニハ、最近ハ地獄ニ来ル人間ガ多イカラ自殺スル人間マデハ面倒ミテオラレンナンテイッテタガ、ムシロ、コノホウガ手間ガカカルコトオビタダシイ」

「マア、ショウガナイ。アア見エテ、エンマ大王様ハオ優シイ方ダ。タダ、見テクレガアンナモンダカラ勘違イサレヤスイ」

「知ッテルカ? 最近ジャア、エンマ大王様ミタイナ方ノコトヲ、地上ジャ『ツンデレ』ッテイウラシイゾ」

「ツンデレカ。エンマ大王様ハ、ツンデレカ」


 鏡を運び終わり、ゲッゲッゲッ!! と大笑いをしながら帰ってきた牛頭と馬頭を見て、察しの良いエンマ大王は、おそらく自分のお節介を種に笑っているのだろうと、牛頭と馬頭に強烈な刺々しい視線を一瞥いちべつくれてやった。

 それに気づいた牛頭と馬頭は慌てて大笑いを引っ込め、いつもの仏頂面――といっても、牛のツラと馬のツラだが――を取り戻し、エンマ大王からの御沙汰おさたを待つべく、地に控えた。エンマ大王はうなずき、重々しい声で、牛頭と馬頭に言い渡した。


「次の罪人を――――これに」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

業の連鎖 日乃本 出(ひのもと いずる) @kitakusuo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ