リスク
染井雪乃
リスク
ふらりと入った居酒屋で、声をかけられた。
「
せっかくの一人飲みで、知り合いに出くわすなんて、ついてない。要はそんな思いを隠して、笑顔を浮かべ、振り返った。
そこに立っていたのは、高校時代の誰ともわからないくらい垢抜けた、ファッション系かヴィジュアルバンドにでもいそうな青年だった。耳のピアスの数も多いし、髪には青のメッシュが入っている。
「……誰?」
「高校にいただろ。
青年――糸川凪は、要の右隣の席に断りもなく座った。
糸川凪。その名前は要にも記憶がある。生まれつき片耳難聴だと担任からクラス全体に説明があった、高校の同級生。いつも一人でいたけど、いじめられていたとかではなかった、ように思う。
「……ああ、糸川。あまりに変わってたから、わからなかった」
糸川が大変身を遂げていたことに、要は内心感謝した。大変身を遂げていなくても、要は糸川に気づけないなんて、知られずにすむ。
「遠野は相変わらず、嘘が上手いね。それだけ嘘が上手かったら、就活も楽勝だったんじゃない?」
低い声であからさまな嫌味をぶつけて、糸川凪はビールを注文した。糸川の声をあまり聞いたことがない要でも、悪意を向けているからこその、この声なのだと判別できた。
「嘘って、何のことだ? それと、俺は就活はまだしてない」
要の方を見て、糸川はくすっと笑う。
「遠野、人の顔の見分けついてないんだろ?」
がしゃん。
要は手に持っていたビールジョッキを取り落としてしまった。すぐさま店員が駆けつけて、後片付けをして、要に拭くものを渡してくれる。
「すいません、本当に。手が滑っちゃって」
店員は、大丈夫ですよとにこやかに笑う。この店員のことも、帰り際にはきっと判別できない。要にはその確信があった。
「へえ、やっぱりか」
獲物を見つけた捕食者のごとく、糸川凪の目が輝いた。ぞっとして、要は勢いよくビールを飲み干そうとした。ここにいるべきでない、と第六感が告げている。それは、大概正しいのだ。
「待ちなよ」
要の分の伝票を素早く奪い取り、糸川凪は告げた。
「おまえ、そうやって、面倒そうな人間から逃げてたよね。そういう傍観者気取りにどれだけの人間が傷ついたかなんて、考えたこともないんだろ」
純粋な悪意だった。
要は困惑した。混乱してさえいた。今日は院試の合格発表で、その祝いに一人で飲もうと思って居酒屋に入った。それなのに、こんな悪意をぶつけられて、最悪もいいところだ。
「伝票返せよ。帰るから」
傷ついたとか、傷つかなかったとか、そんなどうでもいいことに、いい気分を台無しにされてたまるか。過去なんか、使えなければただのゴミなんだから。
それにしても、と要は思った。
高校時代、糸川凪を知って、こいつはリスクが高いから、関わらないようにしようと決めたのは正解だった。何に傷ついたんだか知らないが、いい気分を台無しにしてくるくらいには、攻撃的なのだから。
「”リスク”だから、関わんないようにしようって? 変わってないなあ」
過去のことは全く覚えてないが、要は今糸川凪に嬲られている。それは間違いない。
それにしても、”リスク”だなんて、要の考えそのものの言葉をどうして糸川凪は知っていたのだろう。
面倒そうなやつは、全部”リスク”だ。そういった会話を要は高校時代に友人達とよくしていた。当然そのなかには、糸川凪も入っていた。世話をしてやらなきゃならない相手は、皆面倒だ。進学校にありがちな、効率重視の思考だ。
だからと言って、いじめに発展することがないのは、そんな暇がないのと、大人に知れたときのリスクをわかっているからだ。
要のいた高校とは、聡明で、他人に無関心で、清潔な空間だった。
「座れよ。いつまでも傍観者でいられると思うなよ」
ぎらりとした目に、迫力に要はたじろいだ。
「俺が糸川に何したって言うんだ……。糸川、酔ってるならタクシー呼ぶくらいはしてやるから帰れよ」
「残念、ここが一件目。遠野が次行きたいなら付き合おうか」
「絶対に嫌だ。いい気分で飲む酒を、何でおまえに台無しにされなきゃならない」
「こっちだって、行きつけで遠野になんか出会いたくなかったんだけど」
「それなら声かけるなよ」
「本当に無自覚なやつは質が悪いな。いらつく」
勝手にいらついていろよ、俺に構うなと思ったが、要はもう言葉にしなかった。
「はあ……俺おまえに何もしてないだろ……」
ため息をついた要を、糸川凪は冷たく見つめた。
「最初に、俺が
それ、俺のせいじゃないけど、と要は思う。皆、どうしていいかわからなかっただけじゃん。
「聴こえなくて聞き返したら、逃げられる」
まあそりゃあの学校だもん、そうだろう。他人にコストなんてかけたくないんだ。現に、校外で友人に会うのなんて、模試くらいだった。
「そんなのが毎日続いてさ、ある日遠野の友達が髪型変えて、それが俺にそっくりで、遠野、一瞬間違えてこっちに笑いかけたんだ。覚えてないだろうけど。で、俺のことはスルーして、友達のところ行った」
そんなん、よくあるだろ。そんなことのために、こいつは俺の院試合格祝いを台無しにしやがったのか。
要は怒りに任せて、発言していた。
「だから何だよ。俺が、もしくは俺達同級生がおまえを避けてたとして、何が悪いんだよ。誰も、おまえに嫌がらせなんかしてないだろ」
避けていたと言っても、必要最低限の連絡は行き渡っていたと思う。メッセンジャーのグループに入れないとか、そんなことはしていない。
「それで、極めつけに、人をリスク呼ばわりする会話を見た。知らないだろ? 唇って読めるんだよ」
うわあ、面倒くさい。
要はげんなりして、糸川凪を視界から追い出したくてたまらなくなった。
「だから、何。俺が糸川に関わらないようにしてたから、それを責められてんの? うぜえ」
本当にこんなの、わざわざ居酒屋で絡んでまでやることか。呆れた。
糸川凪の手から伝票を奪い返し、要は立ち上がった。
「……遠野に非がないんだったら、あそこにいた誰にも非がないんだったらさ、聴こえないから、リスクだから、関わらないでおこうってされたのは、何なんだよ。差別じゃないのかよ」
泣きそうな糸川の声に、要はぽつりと呟いた。
「俺だって、余裕ないんだよ。他人のこと構ってたら、今の位置にはいられない」
糸川の顔は見なかった。さっきの店員と同一人物かわからない店員に会計をしてもらって、店を出る。夏の、むっとした湿り気が要を襲った。
必死なんだから、仕方ないなんて、言い訳なのは、要自身よくわかっていた。
(了)
リスク 染井雪乃 @yukino_somei
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