紅茶好きの橘先輩
棚霧書生
第1話
ミステリー同好会所属の三年生、橘は部室でのんびりと紅茶を飲んでいた。
「今日はアールグレイにしたんだね。いつものダージリンも好きだけど。こっちもいいね」
橘は深い香りを存分に楽しんだ後、紅茶をいれてくれた宮野に微笑みかける。
「あっ、わかりますか。さすがですね」
テーブルを挟んで橘の正面に座っていた宮野がパッと顔を上げた。手にはスマートフォンを持っている。
「この紅茶、銀座に本店がある、結構いいところのやつじゃないかい?」
「そこまでわかるんですか。先輩、凄いです。先輩の言うとおり、銀座の紅茶ですよ」
「会費で買ったの? あの守銭奴の会長がよく許したね」
「いやいや、まさか。この間、手芸部のぬいぐるみ失踪事件を先輩が解決したでしょう? その御礼にって手芸部の人たちが持ってきたんですよ」
「ぬいぐるみ失踪事件? そんなことあったかな……」
橘が首を傾げる。そこに宮野が畳み掛けるように言葉を続けていく。
「先輩は名探偵ですよ! 数々の事件を解決してますから。ひとつひとつの事件の記憶が薄れちゃうんですね、きっと」
橘は眉を寄せて記憶をたぐり寄せる。が、橘が思い出す前に部室のドアが乱暴に開けられた。
「タチバァ! 俺のために知恵を貸してくれ!」
金髪の男が駆け込んでくる。橘の前にかしずいたかと思えば、持ってきていたノートパソコンを開き、見ろとばかりに画面を指差す。
「やあ、目黒君。そんなに慌ててどうしたの?」
落ち着いた様子で橘が尋ねる。
「ちょっと何なんですかあなた。先輩はティータイム中です。出直してください」
宮野が冷たく言い放った。しかし、橘に目黒と呼ばれた男は気にする素振りも見せず、用件を早口に話し始めていた。
「エクセルのブックにパスワードがかかっていて、開かないんだ。このパソコンは俺のじゃなくて、後輩のものなんだが今日の午後3時までにデータを修正して印刷をしなくちゃならない」
「ひとのパソコンのデータを勝手に開こうとしてるの? それは駄目だと思うよ、目黒君」
「まあ話は最後まで聞けよ、タチバァ。午後3時にこのパソコンの持ち主はある授業でプレゼンをする予定になっている」
目黒が壁掛け時計を指差す。橘と宮野は目黒の指に釣られて時計を見た。時刻はもうすぐ午後2時になるところである。つまり、プレゼンとやらは約1時間後にあるらしい。しかーし! と目黒は大きな声を張り上げて逆接をつなげる。
「彼は学生によく付きまとう怠惰という化け物に運悪く目をつけられてしまっていた。そして、プレゼン準備は当日になっても終わっておらず。今日の午前中、彼は死力を尽くしていた。俺が証言しよう。とにかく彼はめっちゃ頑張っていた……と。そして、ようやく資料の完成が見えてきて、やれやれ、なんとかプレゼンに間に合いそうだぞと彼が思ったそのとき想定外のことが起きた!」
目黒が一呼吸置く。橘はじっと話に聞き入っている。反対に宮野は胡散臭そうに目黒を睨んでいた。
「なんとゼミの教授に呼び出されたのだ!」
「あらら……」
「その後輩さん、これからプレゼンがあるのに教授からの急な呼び出しに応じたんですか?」
宮野が目黒の話に横槍を入れる。目黒は一瞬だけ嫌そうな顔をしたがすぐに表情を戻す。
「急な……、ではなく、前もって面談の予定を入れてあったのを忘れていたらしいぞ!」
「彼はうっかりさんなんだね」
「……それで、あなたは後輩さんに資料の用意を頼まれたということですか?」
宮野は目黒のことが気に入らないらしく、不審そうな目を向けている。目黒は宮野の視線には気づいていたがはっきりと無視した。
「そう! 俺は後輩を助けようと思った。しかし、パスワードがかかっていてはどうにもできない。なあ、タチバァは俺のこと助けてくれるだろ?」
「目黒君は良い先輩だね。ピンチの後輩君のために一肌脱ごうだなんて。僕で良ければ力になるよ」
橘は迷うことなく協力を承諾した。が、宮野は、そんなに安請け合いしちゃ駄目ですよ先輩、と橘に耳打ちする。それを見た、目黒はすかさず叫んだ。
「タチバァの後輩は感じが悪いな! 一体、どういう指導をしているのかね、タチバァくん?」
「なんだって? 俺のことはいいが、橘先輩を悪く言うんじゃねえ、汚ねェくすみパツ金野郎!」
宮野はもう少しで目黒に掴みかかるかというところだった。そこに橘が止めに入ってくる。
「やめなさい宮野君。目黒君、ごめんね、たしかに僕の指導力は足りてなかったみたいだ。謝るよ」
「いやぁ〜、タチバァに謝らせたいわけじゃなかったんだけど。まあ今は時間もないしパスワードを解いてくれればいいよ」
宮野は目黒のことがすこぶる嫌いになった。
データにかかっていたパスワードはいとも簡単に解けてしまった。パソコンのパット付近にパスワードについてのメモが貼り付けてあったからだ
『21,binary』
メモを見て、パスワードの答えをそのまんま書いてるじゃないかとツッコミを入れたのは宮野だった。橘も苦笑している。
目黒は喜び勇んでパスワードを入力した。すると開かれたエクセルのシートにはデータはひとつも載っていなかった。代わりにデカデカと
『目黒先輩、宿題は自分でやりましょう』
という文言が入力されていた。
「は? えっ、ちょ、嘘だろ……!?」
目黒が慌てふためく。
「どういうことかな?」
橘が首を傾げて、宮野に意見を求めた。
「目黒さんは嘘つきだったってことですよ。後輩のプレゼン資料を準備するため、なんて橘先輩の協力を得るための真っ赤な嘘。本当は後輩のデータを盗んで、ズルしようとしてたんです」
「目黒君……」
橘が悲しそうな顔で、パソコンの前で頭を抱えている目黒を見つめた。
「後輩さんの方が一枚上手だったみたいですけどね」
言いながら宮野が鼻で笑う。
「おい、目黒さん、もう用は済んだろ。俺と橘先輩は優雅なティータイムの続きをしなきゃならない。さっさと出てってくれ」
「キミ、性格が悪いな!! 本当にお人好しタチバァの後輩なのか!?」
宮野はうなだれていた目黒をドアまで引っ張っていき、外に追い出す。廊下に出て橘に会話が聞こえない位置まで来たことを確認してから宮野は言った。
「アンタみたいなクズが俺の最推しに近づかないでください。もう二度とミステリー同好会に来ないで、よろしく」
「サイオシ?」
「神様みたいなもんです。さ、帰った帰った!」
宮野は紅茶を献上するために橘のいる部室へと戻る。穏やかな笑みで。
紅茶好きの橘先輩 棚霧書生 @katagiri_8
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