役割

 活字には色がある。その単語が纏う雰囲気がある。その雰囲気を最大限に活かしたのが小説だと、私は思っている。だからたまに日本語をダサいと言う人や、小説をただの文字だと眉を顰めている人を見ると、やるせない気持ちになってしまう。

 例えば、そう。彩花だ。彼女が紡ぐ言葉はぶっきらぼうな風だけど、どこか寄り添ってくれるような感覚がする。掴みにくいのに時々見せる彼女の本音というか、本質がそう思わせるのかもしれない。

 読み終えたばかりの小説を枕元に置き、今日はぬいぐるみと共に小説も添い寝対象だ。目を閉じて余韻に浸る。今日読んだ小説は、悪くなかった。でも私が執筆する上でお手本にしたいほど面白かったかと訊かれると「そこまでじゃない」と断言できる程度。

 一番大きなぬいぐるみを抱きしめて、今日は久しぶりに穏やかに眠れそうだった。意識が少しずつ落ちていく。

 そういえば何かの小説で、リアルが充実していれば小説なんて読んでいない、と本好きのキャラクターが言っていたのを思い出した。

 私は小説が好きだ。でも、そのうち嫌いになれたらいいと思う。



 私はどこか分からない場所にいた。部屋は薄暗くて何があるのかがよく見えない。ただ、この場所は私の知らない場所ではない気がした。多分、私が知っている場所だ。どこだろう。

 これは夢なのだろうか? 金縛りのように身体は動かず、目線だけが自由だった。私の身体は宙に浮いているらしい。それが感覚的に理解した途端だった。

  ――落ちている。どこへ?

 分からない。でも、多分私は地球の真ん中に引っ張られ続けている。終わりのない穴に落ち続けている。これ以上落ちることはないと思っていたのに。

 それなのに目の前に広がる光景は変わらない。ということは、落ちていないのだろうか。それともこの空間ごと落ちているのだろうか。

 落ちている感覚だけが襲ってきている可能性もある。とにかく、ここは夢の中だろう。夢なら何があってもおかしくない。

 警戒して視覚だけで周囲の情報を取ろうと辺りを見回す。

 何か気配があった。人ではない気配だ。

 私に影が重なる。目を凝らしてその影の正体を見つめる。真っ黒だけど、どこか悲しげな雰囲気がある。


「おはよう、彼方」


 彩花の声が鼓膜を揺らし、その影の正体が彩花であることを理解した。ぼんやりとしていたそれは輪郭を持ち、真っ黒から真っ白な肌に変わった。真っ白な髪に変化していく。いつもみたいに彼女は笑った。すぐ近くにいるはずなのに、どこか遠くで見ているような気分だった。


「……おはよう、彩花」


 私が返事をすると、弾むような声色で「もう、一人で寂しかったんだよ」と言った。私はまだ動けないのに、彩花は華奢な身体を翻し背を向ける。

 表情は伺えないが、きっと笑っているのだろう。

 笑顔を浮かべているはずなのに、その背中は寂しそうに見える。何か言葉をかけなければならない気がした。でも何を言うべきか分からなかった。

 数分間、静寂が部屋を包み込んだ。彩花が眺めている方向を見ても、暗闇が広がるだけで何も存在していない。ブラックホールのようだった。あの場所に入ってしまったら最後、きっと跡形もなく消えてしまうだろう。

 そのブラックホールを見ていると、胸がズキズキと共鳴するように痛む。泣きたくなるほどの痛みに呼吸を乱し、心の底から体温が抜け落ちていくような薄っぺらい絶望が爛れていく。


「……彩花」


 彼女はくるりと振り返って「どうしたの?」と口角を上げた。私を数秒間見つめて、すべてを理解したように微笑んだ。いつもの笑みとは違って優しさと……仄かな諦めが混じっているように見えた。

 彩花は慈母のような笑みで私の手を掬う。指が絡まって、私は初めて体温を知った。動かなかった身体は嘘のように自由を取り戻した。膝立ちで私を見下ろす彩花に空いている片手で服を握る。上体を起こしたばかりで軽く目眩がする。ぐわぐわと揺れる視界が不快で目を閉じてやり過ごす。


「彼方が甘えん坊だ」


 彼女が困ったように笑声を上げた。絡まった手を離されて、彩花の細い腕が背中に回る。ずっと、私が望んでいたものだった。誰かに抱き締められること。誰かに大切にされていると実感すること。体温に触れること。

 これさえあれば、私はきっと普通に戻れるはずだった。

 肩口に額をつけ、胎児のように彩花の腕の中で丸まって服に縋る。

 背中を擦る音が響く。頭を撫でてくれた。それだけで今までの苦しみが少しだけマシに思えた。


 私は、このたった一瞬のためだけに一年以上も戦ったの。

 私は、このたった一瞬のためだけに感情を殺し続けた。


 厨二病みたいな言い方だけど、こう言う以外、どう言葉にしていいのか分からない。でも、おかげで気づいた。感情は、鮮度を失っていくのだ。鮮度を失った感情は、乾いた血のように変色して心の底にこびりつく。どれだけ洗っても、どれだけ幸せで上塗りしても意味がない。不意に浮かび上がってきては、私には今までの色んな種類の絶望を思い起こさせてまた心の底に戻っていく。

 でも、私は今日初めて、鮮度が良い状態のまま救われた。

 それは乾いていない血を拭いてくれるのと同じで、若干跡は残ってしまうけれど乾くまで放置されるより断然良い。

 彩花が抱き締める力を強めた。『ありがとう』と言いたかったのに、零れ落ちそうな涙がそれを邪魔する。喉の奥が痛い。目の奥が熱い。

 代わりに口から出た言葉は、おそらく私がずっと言いたかった言葉なんだと思う。


「――助けて」


 初めて、私は助けて欲しいんだと知った。




 目が覚めると、外からは陽光が差し込み眩しかった。不思議と心は軽く、最近は毎日のように感じていた「起きてしまった」という憂鬱さがない。これもまた久しぶりにスムーズに上体を起こすことに成功した。どうやら心の調子が良いらしい。

 抱き締めていたぬいぐるみは私の腕からすっぽ抜け、足元に転がっている。「ごめんね」と一言呟いてから、他のぬいぐるみたちと一緒に寝かせる。

 枕元にはいつものようにぬいぐるみたちが布団をかけて眠っている。彼女たちに埋め尽くされた枕元は、私ではなくぬいぐるみたちが寝やすいように設計されており、彼女たち以外の物は置かれていない。

 もしぬいぐるみたちがいなくなることがあれば、ドライヤーとか照明のリモコンとかが散らばるのだろう。


「……助けて、か」


 夢の中で見た、私の本音。助けて欲しい。ヒステリックの母親に、母親を避けて帰ってこない父親と兄。母親に怒られたとき、「お母さんを怒らせるようなことをするから」と私を責める姉。助けて欲しい。こんな家を、どうにか出来る人がいるのなら、正義のヒーローみたいに助けに来て欲しい。……ううん、きっと私がその正義のヒーローにならないといけないんだと思う。でも、私には出来ないよ。

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