体調が優れない。布団から抜け出せないまま時計を見るが、秒針はちくたくと時間を刻み続けている。時間が止まってほしいという願いと同時に、早く時間が進んで大人になりたい気持ちもある。大人になれば私は自由。ただ自由には責任が付き纏ってくる。隣の芝生は青いのだ。

 這うように起き上がって、目を瞬かせる。たくさんのぬいぐるみに囲まれた枕には多くの抜け落ちた髪の毛がついていて後頭部を撫でる。……ハゲてないみたい。よかった。

 眠気で頼りなく階段を下りる。不思議と階段を下りていると目が覚めてきて、リビングに入る頃には意識が明瞭になっている。

「おはよう、春花」母親が朝ごはんを机に置きながら微笑んだ。「おはよう」私も微笑んであげた。私の気持ちとは裏腹に、表情筋は昨日と同じ動きをしてくれる。そこに私の意思など介在してないようだ。


 机に並べられた朝ごはんを見る。用意してくれた手前、文句は言えないが朝から唐揚げは重い……。だが、文句を言ったらどんな仕打ちが待っているか分からない。箸を手に取り、「いただきます」と白米を口に運んだ。

 中学校に入ってから早食いになったせいで、十分もあれば食べ終わってしまう。その分眠れるから有り難いが、消化に悪いことは確かだから卒業したら治さねば。中学校の昼食の時間が十分しかないのが悪い。

 一度胸中で愚痴が漏れると、その穴から常にちろちろと零れ続ける。都合の悪いことを環境にせいにすることで安寧を保っている。


「いってきます!」


 元気に挨拶。あの人たちからもらった……いや、買った仏壇の前でお経を唱える母親の背中にそう投げかける。母親の背中は小さかった。触れたら崩れてしまいそうなほど儚くて、傷ついていて、お経に触れることで、仏さまに頼ることでその傷を庇っている。私はそんな母親が大嫌いだった。そんなものにお願いしても、どうにもならないのに。変えたいものがあるなら、祈ってる時間を使って自分が動かないといけないのに。ああ、やめよう。考えたくない。私は母親が嫌いだ。嫌いにならないと。好きでいたらいけない。


「いってらっしゃい」


 お経を中断させて、声だけが届く。嫌いだ。私はあなたが嫌いです。

 目頭が熱く痛んだ。

 外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。私を慰めてくれるかのように。向かいの家の住民が「おはよう」と笑いかけてきた。小さく会釈をした。ごめんなさい、声が出ないの。

 通学路から離れた別のルートで中学校に向かう。今日は階段ルートだった。

 私の家から中学校までいくつかルートがある。一つは坂道、二つ目は今行っている階段、三つ目は遠回り。遠回りだと私の唯一とも言える友達と会えるかもしれない代わりに、私を殴ってくるあいつとも出会う可能性があった。今日はそんな賭けをしたくなくて、裏道のように汚らしい階段ルートを選んだ。段差が一段ずつ違っている歪な階段の端には誰が置いたのか、植木鉢が置かれていたり、小さな花壇が作られていて、時々虫が低空飛行している。紺色のソックスに虫がついてしまうのではないか、と怯えながら階段を登りきる。


 その先には、大きな家があった。大きな車に、おしゃれな外装、小学生が母親に見送られて家を出てきた。高そうな青色のランドセル。壊れてしまえばいい。

 そんなことを思ってしまうのだから、私はあの子の視界に入っちゃいけない。その子と反対側の道を、その子を追い抜かないようゆっくりと歩いた。先にある十字路を彼は右に曲がった。私は真っ直ぐだった。肩から力が抜ける。

 中学校のすぐ近くには、果樹園があった。何を育てているのかはネットがあるせいで見えない。その横を通り過ぎて、横断歩道を渡る。誰か間違えて私を轢いてくれないだろうか。


 校門前は様々な方向から生徒が流れるように学校に吸い込まれていった。重々しい一歩を、爽やかに歩いてやった。喧騒が苦手だ。下駄箱を通る。教室に向かう。廊下では男子が全力疾走し、女子がそれを見て嘲笑していた。鼓動が早まる。身体が強張って、歩けているか分からない。変な歩き方をしてないだろうか。後ろで笑っている女子グループは私を見て笑っているのではないか? でも笑われることはないはずだ。いや、もし経血がついてたらどうしよう。周期的に生理が来ない以上、もういつ来てもおかしくない。なんだか腰が重い気がしてきた。下腹部も痛む気がする……。もし生理だったら笑いものだ。

 リュックを教室に置いてからすぐにトイレに駆け込んだ。トイレは女子のたまり場だった。でも今はそれを気にしている場合ではない。すぐに確認する。平気だった。血は出てない。それが分かると腰の重みも下腹部の痛みも引いていく。


 安堵したのもつかの間、すぐに教室に戻らないといけない気がした。今私がいない間、教室にいる奴らは私の荷物に手を出し放題だ。教科書を捨てられるかもしれない。筆記用具を盗まれるかもしれない。体操着を切られるかもしれない。本が破られるかもしれない。トイレを出ようとする。いや、待て。トイレットペーパーの音を出さずに出たら「あいつトイレで拭かないよ。まじで汚い」と噂になってしまう。噂が広まるスピードはありえないほど早い。噂は九十日というが、あんなの嘘っぱちだ。

 意味もなくトイレットペーパーをガラガラを巻いて流した。トイレから出る。何人もの女子が話している。水道で手をきちんと洗う。「あいつトイレの後に手洗わないよ」と笑われる。

 教室に戻る。私の荷物は、一瞥したところ何事もなかった。でも分からない。教室にいる全員が私の様子を伺っているように見えた。リュックから教科書を出す。全部ある。筆記用具を見る。全部ある。本は傷つけられていない。体操着も無事だ。


 ようやく一段落。本を取り出して文字に逃げる。女子の笑い声が響く。ごめんなさい、違う、私は笑われることを何もしていない。「あいつ一人で本読んでる」「ぼっちじゃん」「あんな陰キャ、本当にいるんだ」笑う。違う。彼女たちが私に関心を向けるはずがない。笑声すべてが悪口とは限らない。分かってる。声が脳に響く。私の名前を呼ぶ。


「おはよう!」


 彩花が笑った。光だった。


「おはよう」


 今日も彩花におはようが言えてよかった。

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