人形遊び

 夕日が差し込む教室で彩花は一人机に向き合ったまま日誌とにらめっこしていた。シャーペンを動かす手が時々止まっては鼓舞するように手首を撫でてまた動かす。少しずつ日誌の白紙部分が埋まっていった。

 それを前の席に座って待つ。冷たい壁に背を預け、小説を読むフリをしながら彼女の様子を伺う。彩花は視線を向けられると手が震えてしまうから、こうして視線を向けていないとアピールしないといけないのだ。極度のあがり症、で片付くならば可愛いけれど、きっと彩花のそういう性格は別の要因がある。

 真剣に日誌を見つめている彩花の首元が妙に赤くなっていることに気づく。彼女に気づかれないように注意深く見ていると、無意識なのか、彩花の爪が伸び切った左手が首に巻き付き、やがて爪を突き立てた。そこを掻きむしり、それを数分行うと今度は右手首を撫でる。


「彩花、終わりそう?」

「あとちょっと! ごめんね、待たせちゃって」

「ううん。いい時間稼ぎ」


 彩花が「なら良かった」と笑った。本に視線を落とすと文字が綴られる音が聞こえる。今日の授業内容は書き終わり、一日の感想欄に取り掛かっていた。だが、その手は止まっていて彩花の表情が一瞬だけ曇った。

 しばらく悩んでから、ぐちゃぐちゃになった日誌に偽りの日常が描かれる。今日は欠席者が少なく、みんな仲良く過ごしていた。授業中に指名されたとき、ちゃんと答えられなかったから、勉強を頑張ろうと思います。ありきたりな嘘を書き終わると、彩花は立ち上がって「おわり!」と日誌を閉じた。


「本当のこと書けたら良いのにね」

「日誌はみんな見るからね。それに、言ったところで教師だから無理だよ」


 その言葉に苦笑いが漏れる。どんな人にも優しいし偏見を持たない彩花が唯一嫌っていてくだらないと偏見を持っているのが教師という人種だった。それもそうだろう。彩花の信頼を裏切り続ける教師が悪い。いや、正確には教師という立場が悪い。


「早く提出して帰ろう!」


 日誌を持った彩花についていく。ほとんどが部活動や帰宅して人がいない廊下を歩き、職員室に向かう。外から運動部の声が聞こえた。体操服を着て必死に校庭を走り回っている彼らを高い校舎から見下ろす。


「運動部って上下関係大変そう」


 私がそうぽつりと漏らすと、彩花は頷いた。「上下関係は家だけで十分だよ」何気なくそう呟く彼女の一歩後ろを歩いていく。外から音が聞こえるのに、視覚から入る情報に人というものはなくて、その矛盾に頭がくらくらした。


「早く帰って寝たい」

「待たせちゃってごめんね?」

「私が好きで残ってたんだから謝んないで」

「うん、ありがと」


 えへへ、とわざとらしい笑声を上げる彩花を一瞥する。短い袖から見える、本当に食べているのか不安になる細い腕は真っ白で、だからこそ紫が映えた。アツミゲシのような紫が彼女の境遇を物語っている。露骨に証拠が残っているのに、彩花の周りには人がいない。彼女の環境が見えるから、誰も近づかないのだろう。誰だって面倒事は苦手だし、誰かを救うなんて幻想を現実にする気なんて持ち合わせていない。彩花もそれを理解している。

 職員室に到着し、彩花がノックする。ドアを開けて「失礼します」と声を上げても誰も反応しないどころか、邪険にするような空気が一瞬にして漂う。この空気が大嫌いだ。どうして教師はくだらないことにこだわるのだろう。生きていく上でこの空気に慣れる必要があるというのなら、私たちはもういらないくらい慣れている。

 これが普通な彩花は何事もなく担任の名前を呼んだ。不承不承と席を立ってドアまで来る。お前が彩花を居残りにさせたんだろ。睥睨すると、背が高い担任は大人の圧を使って睨み返してくる。でもそんなの、私たちには効かないよ。だって私たちは慣れているんだから。


「日誌終わりました」


 彩花が日誌を返すと、担任はそっけなく返事をしてからため息をついた。これだから教師は大嫌い。学校は私の嫌いで出来上がっている。大して冷房が効いていない教室も、そのくせ職員室だけは涼しいのも、教師も、同級生も、座るのに適さない椅子も、書きにくい机も、全部だいっきらい。


「次からはもっと早く書けよ。あとみんなの物なんだからもっと丁寧に扱うこと」

「……はい、ごめんなさい」


 何も知らないくせに。だから大人は嫌だ。自分が見えている小さな偏見が世界のすべてだと思っている。嫌い嫌いきらい。

「失礼しました」と締めくくった彩花が珍しく早足で教室に戻っていく。私もその後を追って静かな廊下を一言も発さずに歩いた。

 担任は、本当に彩花が日誌を雑に扱ったせいでぐちゃぐちゃになったと思っているのだろうか。一ミリも、いじめという言葉が過ぎらないのだろうか。

 舌打ちが漏れそうになる。でもそういうのが彩花は苦手だから必死に抑えた。同級生どもの獣みたいな理性の欠片も感じられない笑声が再生される。彩花が席を外したうちに日誌を奪い、感想欄にしょうもないことを書いた。それを見て「あいつがこれ思ってるって考えると面白すぎるだろ」と笑った。たった今、自分たちが書いたのだと忘れてしまったらしい。あまりにもグロテスクな人形遊び。

 それを見て巻き込まれたくないから、と廊下に逃げる一部の女子グループ。中学生らしい、下品な言葉を連呼する男子グループ。その中にいるのは気が狂いそうで、読んでいた小説に意識を戻した。彩花が戻ってきて、そのページを見つめていた姿は、いじめっ子たちが望む姿そのままだった。


 彩花は、どこかいじめやすい空気がある。彼女は、人の嗜虐心をくすぐるのが上手だ。無意識のうちに人の凶暴で冷酷な一面を引き出してしまう何かを纏っていた。彩花の姉や兄はあまり酷い虐待にあっていないのはそういう理由もあるだろう。

 席に座って日誌に書かれたくだらない言葉が担任の目に入らないように消していく。筆圧が強く書かれているせいで、何度消しゴムで擦ろうと完全に消えることはなかった。それでも彩花は消そうとした。……担任からいじめの事実を隠すために。そのせいでぐちゃぐちゃになった日誌のページに、彼女は必死に最大限「普通」に近い学校生活の一部を創造した。


「……彩花、帰ったらゲームしよう」

「うん! 何時から通話いける?」

「夜かなぁ。でも彩花に合わせるよ」

「わかった。じゃあ出来るようになったら言う!」


 鞄を持って夕暮れの教室から出る。部活動に励む彼らを横目に、校門を抜けた。ふと、振り返ると忌々しく威厳を示す校舎。嫌いだ。学校も家も。地獄から次の地獄へと足を踏み入れる。


「じゃあね! 付き合ってくれてありがとう!」

「ううん、大丈夫だよ。じゃあね」


 彩花が背を向けたのを見守ってから帰路に就く。今日の私は嫌いで溢れていた。この調子で帰宅してしまうと、ストレスが溜まりやすい。少しだけ遠回りをしてから帰ろう。こんなにも夕日が眩しいのに、それを堪能しないのはもったいない。

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