体育祭
遠のいていた意識が戻ってくる感覚は、急速に現実に引っ張られた気がして大嫌いだ。
真っ先に感じたのは大きな歓声と肌が焼ける痛みだった。周りを見回して、今私がどこにいるのかを理解するのに時間を要した。それも仕方ないことだろう。私が見慣れている普段の中学校の校庭とは違って、テントが張られてたくさんの保護者がテープの後ろで子どもの様子を見守っていた。教師たちも普段着から動きやすそうな服やクラスの色が取り入れられた服だったり、はちまきを巻いていたりして全く違う。
私も体操着で、全校生徒も体操着で、今は体育祭か、とようやく事情を飲み込んだ。クラスの子がトラックを走る。声援が劈く。手に握られていたしおりには競技の流れが書いてあり、眼前で繰り広げられている百メートル走と照らし合わせる。どうやら午前の部の盛り上がりらしい。これが終わったら部活動リレーがあり、昼食に入るようだった。
クラスの女子が私を見て、隣の子に耳打ちをした。いつものことだけれど、なんだか胸がざわつく。正体不明の不安感が押し寄せてきて吐き気がこみ上げてくる。熱中症か、視界がぐらりと揺れて脳みそが揺さぶられたような不快感に襲われる。
いつもこうだ。
目を閉じて今もなお動き続ける地面をシャットダウンする。周りの歓声が鼓膜を突き破って、それなのに聴覚はやけに鋭いのが嫌になる。
「あれ、百メートル走じゃなかったっけ?」
喧騒からわずかに聞こえた光。瞼を開いてその声の方向を見ると、彩花が首を傾げて立っている。彼女は私をまじまじと見つめると、すぐににこりを笑みを浮かべた。
「……なんでクラス違うのに彩花がそれ知ってるの?」
「聞いたから。それより……うん、やっぱり!」
彩花が私を見ると頷いて「待ってて!」と言って入場門と書かれた網が取られたサッカーゴールの近くにいる教師に向かって走っていく。タオルを首にかけたままの体育教師に彩花は何かを話している。すぐにその教師と一緒に私のもとへ戻ってきた。
「誰か百メートル走出れるやついるかー?」
体育教師がそう呼びかけた。女子たちがざわつくのを感じる。
そんなのを気にせず、彩花は私の手を握った。「保健室行こ」と、繋がった手を引かれる。太陽が見下ろす校庭を大回りしているうちに彩花と私の手の間は汗で湿っていく。手のひらの間に熱気がこもり、彼女の体温とまだ残暑が厳しいことを知らせてきた。
彩花に手を引かれるがまま保健室の前まで着く。ドアをノックすると、中で待機していた養護教諭が顔を出し、私を見つめる。
「……えーと」
珍しく彼女が言葉に悩んでいて、おそらくそれは私のせいだと分かった。「大丈夫だよ」と言えば彩花が一瞬だけ眉を顰めてから「……星乃さんが体調悪いみたいで」と嘘を養護教諭に伝えた。先生は信じたのか、嘘だと分かった上で容認してくれたのか、私たちを保健室に入れてくれる。ふかふかなソファーに二人で腰を下ろして、先生がベッドの準備を終えるのを黙って待っていた。
まだ手は繋いだまま、うんざりする熱をより高め合う。滲んだ汗が混じり合って、もはやどちらの手汗なのか分からない。汚いはずなのに、相手が彩花ならばなんだか許せてしまう。
「星乃さん、一応横になって休んで」
彩花はぱっと手を離した。冷気が私たちを引き裂く。
養護教諭の言う通り、ベッドに横になった。寝心地の悪い枕も、カーテンが閉められたら私一人の空間になるのだと思うと心地よい。保健室はそこがいい。静かで、程よくアルコールの臭いがする。
私が布団を被ると、先生はカーテンを閉めて「何かあったら呼んでね」とだけ言い残した。カーテンが閉じきる寸前、彩花が微笑みを浮かべながら私を見ていた。
「連れてきてくれてありがとね。もう大丈夫だから戻っていいよ」
「……はーい。いってきます」
彩花の残念そうな声が聞こえて、すぐに扉が閉められる音。養護教諭だって学校側の人間だから意味もなく生徒をズル休みさせることはできないのだろう。いや、もしかしたら先生は彩花が体育祭を楽しんでいると勘違いしているのかもしれない。大人は子どもを理解できないのは経験上知っている。
ベッドの中で体を丸めて、今私を見ている彼女を睨みつけた。そこにあの子がいるのかは分からないけれど。
「いいご身分だよね」
この言葉はあの子に届いているだろうか。それとも彼女は完全に眠りに落ちているのだろうか。
すう、と意識が遠のいていく。切り替わるように。
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