郷愁

M.S.

郷愁

 もう、両親が死んで大分経つ。父は脳卒中で死に、母は過労で倒れてそのまま逝った。

 なので、別に地元に帰って来ても結局は何処どこにも帰る場所が無いのは必然だったのだが、ついこの前仕事を辞めて時間を持て余したので、新幹線に乗ってその車窓から流れる景色を見ようという気になった。別に自分の知らない、流れる景色をぼーっと見つめる事が出来るのだったら札幌だろうが博多だろうが何処でも良かったのだが、気付けば手元には地元に帰る切符を握っていた。

 理由はよく解らない。今更故郷をおもう気持ちがある訳でもない。でも、無意識でその切符を買ったという事が何か啓示のようにも思えて、僕は唯々ただただそれに従う事にした。時間は幾らでもある。

 東京から新幹線で二時間程。

 その地方都市の主要駅を降り、そのまま地下鉄に乗り換える。数駅移動して、また別の路線に乗り換え、数駅移動。本籍地でもあった分譲マンションの最寄り駅まで来ると、地下鉄の風は火葬場で対面した両親の遺体のような匂いがした。


 駅から徒歩数分で僕が住んでいたマンションに着く。両親の死亡に伴って部屋が空くので鍵は返却せねばならないかと思ったが、そのまま持っていても管理会社からは特に何も言われなかった。

 試しにエントランスのオートロックに持っていた鍵を差し込んでみる。ひねると、さながら帰郷した僕をねぎらうかのように入口は開いた。けれどそのドアの、ウィーン、という音を敢えて言語化するなら、「何しに帰って来た?」という所だろうか?

 住んでいた部屋までエレベーターで上がってみようか思索している間に、向こう側から誰かがやって来た。年配の女性だ。

「あら?」

 その女性は僕に気が付くと、そう声を上げた。

「もしかして、S君じゃない?」

 確かに僕はSで、その年配の女性の面影にもおぼろげに記憶があった。確か......

「K君のお母さんですね」

「ええ、そうよ。覚えていてくれたのね。......こっちに、帰って来ていたの?」

「はい。少し、時間が出来たので......、って言っても、もう帰る場所なんて無いんですけどね」

 はは、と乾いた笑いを浮かべたが、Kの母は顔を曇らせる。まぁ、親の死を出しにして言う自虐というのは、ある程度年齢のいっている人に言う事でもなかったかもしれない。話題を逸らすようにして、僕はKの近況を訊いてみる事にした。

「......そう言えば、K君は最近どうしているんですか?」

「ああ、Kはずっと地元に残って、ずっと同じ所で働いているわよ。S君みたいに、少しは地元を出て冒険すれば良かったのにね。近くに住んでいるの。今はもう結婚して、奥さんと暮らしているわ。そろそろ孫が産まれるから、楽しみなのよね」

 そうは言って僕を持ち上げるような事を言ってくれたが、その表情からは人間としての営みをまっとうしてくれた自分の子供に対して誇らしい、とでも書いてあるような顔だった。

 やはり、得てして歳を重ねて来ると、老後の楽しみは自身にでは無く、子供や孫に見出すものだろうか。それはそれで大分消極的な気がしたが、人間の種の保存本能に逆らって生きている僕がそんな事口に出せる訳もない。どうせ子孫を残したところで孫の顔を見せる親も居なければ、見せようと思う親戚、友人も居ない。

 やはり、知った人間の近況など、訊くものではないな。

「......そうなんですね。羨ましいです。僕も、相手が欲しいんですけどね」

 思っても居ないありきたりな常套句じょうとうくを言ってKの母親と別れた。


 住んでいた階は十三階。飛び降り自殺に必要な高さはマンションで言えば大体七〜八階という事らしいので、僕の住んでいた階は推奨高度の二倍近く地上から離れていた訳だ。今住んでいるボロアパートで一番現実的なのは首吊りだろうな。

 いや、食傷とした変わり映えしない生命活動に嫌気が差してきたのは事実だが、別に死に場所を探しに来た訳ではない。このマンションも、墓標にしては目立ち過ぎだ。買った新幹線の切符を片道にするつもりも、今はまだ無い。そういう考えは無為の極みなのだが、そういうことばかり考えるのは、まぁそういう事なのだろう。

 エレベーターを降り、共用通路の内廊下からこの地方都市の中心部の方を眺めて見る。そびえ立って都会を自負したがるビル群は僕が此処ここを出た時とあまり変わってはいないようだが、一応ゆっくりとは人口は増え続けているらしいのは意外だった。

 まぁ要するに、他所よそへ逃げる爪弾つまはじき者より、生まれ育った街で生きようとする人間の方が多いと言う事だろう。僕みたいなのは、例外だ。この街の人間は地元愛が強いと聞いた事があるが、そもそも核社会に愛が無かった僕にとって地元愛の方が家族より勝るというのは心境が複雑で、あまり考えないようにしている。

 故郷を旅立ったと言えば聞こえは良いのだが、その実、僕を知った人間との関係を全て消去しておきたい、というのが本当の所だった。


 かつて、何回も開閉した玄関扉の前に立つ。表札の銀プレートには本来入居者の苗字が丸ゴシックで彫られるのだが、何も書かれていない。かと言って現在も入居者が居ないかと言えば、そう断定も出来ない。最近の時勢だと表札を出さない家、というのも増えているらしい。

 確かに僕が子供の頃にはもう既に、同じ階の住人と廊下ですれ違っても挨拶をするというような風習は廃れていて、此方こちらから挨拶をしても返って来ない事もしょっちゅうだった。今の町田のボロアパートに入居する時も、不動産屋に「御隣おとなりに菓子折りでも持って行った方が良いか」と訊いたが、「今はそんな事はしなくて良い」と言われた事を思い出す。両親は「昔、醤油が切れたら隣や向かいに貰いに行ったものだ」なんて言っていたが、今ではあり得ないし、それを実行したらお縄に掛かって終いだろう。

 正直、不必要な接触を避ける昨今の風潮は僕にとって好都合と言えるが、それはそれでこの国の将来が心配にならないでもない。......そこで、もっと心配した方が良い将来が身近にある事に気付いて考えを止めた。

 そうして、扉のドアノブを引いてみる。当然引っ掛かって開く事は無い。玄関前のスペースを観察してみる。大抵、雨具が立て掛けてあったり、自転車を壁にもたれさせている所が多いが、この部屋にはそういったものは見当たらない。廊下の地面の汚れも心做こころなしか他所と比べてさっぱりとしたように思える。

 生活感が無いのだ。

 家が、死んでいるみたいで。

 それだけで、入居者が居ない事を確信出来た。そういう雰囲気だった。もし、仮に住人が居る上でこのような空気をかもし出していると言うのなら、住人は孤独死した老人の死体か何かだろう。

 鍵を通してみる。捻ると、がちゃ、と解錠を示す音が鳴った。上下に二つ錠が付く二重ロックになっているので下の方にも鍵を挿して捻ると、同様に解錠出来た。

 扉を開くと、昔、この家が家だった頃の、家の匂いがした。その匂いに少し懐古を感じてしまうのは、両親亡き後、新たに入居した人が居なかった所為せいで時間が止まっているとでも言うようだ。

 確かに、この部屋を管理している不動産屋が真面目に売り出さないなら目に付ける客も居ないような物件ではある。もし心理的瑕疵かし物件として説明されていたら、尚更だ。

 向かって左側に、僕の部屋だった部屋。右側に母の部屋だった部屋。真っ直ぐ行くとリビング、隣に繋がるようにして父のパーソナルスペースだった洋間。それぞれの部屋の扉を開けて中を確認していく。

 まるで忘れ物を確認するかのように。

 実際、忘れ物などは無く、あるとすればそれは形の無いものなので確認の必要は無いのだが、確認しても損は無いだろう。

 予想通り、生活感どころか家具の一切も無かった。埃すら無い。清掃業者が定期的に入って熱心に掃除をしてくれているお陰だろうか。

 一通り部屋を見て周り、両親の亡霊が居ない事を確認してからベランダに面する窓のサンシェードを引き上げて光を入れ、リビングに大の字になって横になった。

 天井を、ぼぅ、と眺めていると、ふとキッチン近くの真上の天井が黄ばんでいるのに気が付いた。おそらく、煙草のやにだろう。確か、父はいつもあの辺で椅子に座ってマイルドセブンを吸っていた。ベランダで吸っていたら、上階の人間が「洗濯物に臭いが付いた」と文句を言いに来て父と玄関先で喧嘩になったので、その事があってから家の中で吸い出したのだ。その事で、一階の掲示板に「ベランダで煙草を吸わないで下さい」と警告が貼り出されたくらいだった。

 いつもリビングで煙草を吸う父を、母がいさめるという光景を見ていたな。

 〝ここで煙草を吸わないでよ〟

 〝何でだ?〟

 〝臭いが付くし、天井の色が変わるでしょ〟

 〝臭いが気になるなら自分の部屋に行けば良い。天井なんざ色が変わろうが生活に支障は無い。お前は家の中で常に上を向いて生きてるのか?〟

 今思えば偏屈な性格は父親譲りで、神経質な性格は母親譲りだな、と思う。もうちょっとましなものを譲って欲しかったが無い物強請ねだりをするには少し歳を取った。その代わりと言っては何だが諦観をするようになった。

 〝死期と諦めは早い方が良い〟

 幼い頃、晩酌の話し相手に付き合わされて、白い煙の食卓でそう言われた事を思い出した。その頃は唯々ただただ煙草の煙が鬱陶しいだけでさっさと話が終わってくれないかと思いながら相槌を打っていたが、何だか今は、そう言う話をもっと聞きたい気分だな。

 結局、その言葉通り有言を実行して、平均寿命を大分下回って親族に迷惑を掛けずに(母と僕にはそこそこ迷惑を掛けたが、ここで言う迷惑とは要介護に於ける迷惑という事にしておこう)逝った事は、父の人生での数少ない偉業と言えた。

 僕の胸ポケットには常にセブンスターが入っているのも、その父の言葉が一緒にそこに入っているからに他ならない。どうやら、僕の人生も〝死期と諦めは早い方が良い〟みたいだ。

 死期は煙草が早め、諦めは僕が早めるのだ。


 黄ばんだ天井の真下で父と同じようにセブンスターを吸い、足りなかったのでベランダでも一本吸おうかと思ったが、上階の人間から「住人の居ないはずの部屋から煙草の臭いがする」と通報されるのも面倒なので止めておいた。掲示板に「亡霊の喫煙を禁止します」と貼り紙をされても参るしな。

 昼間だと、何かしら業者が来る可能性もある。鉢合わせすると面倒なので、名残惜しさを多少抱えながらも家の鍵を閉めて出る事にした。しばらくは此処ここに滞在するのも、悪くない。また後で来る事にして、その場を後にした。


 結局、僕の中で〝帰る場所〟と言うのはマクドナルドかドン.キホーテの二つの事らしい。折角帰ってきたのだから他に何処か、この街にしかない場所へ行けば良いのに、当てもなく適当にそぞろ歩いているとその二つがある方面へ歩が向いていた。果たして、僕が昔利用していたマックはまだそこにあった。

 昔から家に居辛いづらければその二つのどちらかへ行って、時間を潰すのが常だった。全く、今も昔もやっている事は変わってない。そういう場所に身を置いて落ち着く事が、身体に染み付いている。敬虔けいけんな修道者が決まった時間に祈りを捧げるように、マックとドンキに通うのだ。

 一先ひとまず、マックの窓際二階に落ち着いて一番安いコーヒーを頼んだ。ふと、窓から向こうを眺めると、僕がこの街を出る時には無かった老人ホームが建っていた。ついぞ、僕の両親はそういう施設に世話になる事は無かったが、入る事になっていたら、少しはしおらしくなっていただろうか? ......いや、ならないだろうな。父だったら「もう、早く殺せ」と言っただろうし、母だったら「こんな刑務所みたいな場所は、もう沢山」と愚痴をこぼしただろう。

 そんな、もうあり得ない世界の妄想をしていると、不意に後ろから、声が掛かった。

「おい、お前、Sじゃないか?」

 振り返ると、同年代だと思われる男が立っていた。その男の顔を見て、記憶を検索してみる。そうは言っても検索する程の膨大な記憶は僕の薄っぺらい人生で形成されている訳も無くて、すぐに検索は終わったものの、だが引っ掛かりそうな人物を見つけ出す事は出来なかった。

「ああ、此処ここまで出掛かっているんだけれど......」

 僕は相手を傷付けないよう言葉を選んで、首に手を当てる仕草をした。実際出掛かってなどはいない。

「ほら、中学の時のAだよ」

「ああ」

 Aであれば辛うじて覚えている。中学二年生の時に学級が一緒で、彼は委員長をやっていたはずだ。何でもそつなくこなし、部活動でも学業でも中々の実績があり、よく表彰されていたのを覚えている。孤立気味だった僕にもよく声を掛けてくれたものだ。

 僕とは正反対の人間。

 通学路の帰り道、よく「彼のような人間に生まれていれば」と考えながら帰路に就いたものだ。

「隣、座っていいか」

「勿論」

 はっきり言えば、今、一番会いたくない種別の人間である事は言わずもがなであったが、久闊きゅうかつじょそうという彼の心遣いを無下にも出来なくて、口では了承した。

 暫く当たり障りもない世間話をした後、やはりお互いの近況の話になった。

「Kは結婚してすっかり世帯持ちらしい。さっき母親に会ってそう聞いたよ」

「ああ、俺も人伝ひとづてに聞いた」

 人伝て、とは妙だった。彼のような人間であればKの結婚式に出席していそうなものだった。だが、勿論招待されていないにしても、僕も出席していないのでそこにとやかく言えはしなかった。

「この歳になると、皆んな、結婚していくな」

 その言い草も妙だった。てっきりAのような人間はもう結婚していて、下手したら子供は二人くらい居るのではないかとさえ思っていた。

「Aは、結婚していないのか?」

「ああ、していない。それどころか、今は仕事すらしていない」

 はは、と自嘲的に笑うAを見て、僕は驚いた。そういう呵責を内に抱えているような笑い方は、今までに僕がしてきた薄ら笑いと種類が似ていて、親しみを覚えてしまったからだ。

 決して〝あの〟Aがするような笑い方ではない。

「じゃあ、僕と一緒か」

 僕は、仲間を見つけたような不謹慎な喜びを抑えつつも、そう言った。

「はは、やっぱりそうか」

 そこからは、お互いの不幸自慢とそれに付随する傷の舐め合いが繰り広げられた。

 どうやらAは大学卒業後、仕事に就いては辞め、という事を繰り返して遂には放蕩者になって、嘗ての僕のようにスーパーやドンキのフリースペースで時間を潰すという日課を従順に熟しているらしい。

 それで今日は偶々気紛れでマックに訪れた所、僕に会ったという事らしかった。

「親は金を持ってたからアルバイトもしなかったし、勉強も大して力を入れなくてもある程度は完璧に出来た。それが良くなかったんだろうな。......きっと就職後もそうやって人並み以上の人生を送れると思ってたんだ」

 Aが懺悔じみたように話し始めるから嫌味のようにも聞こえず、僕は黙って聞き役に徹した。

「何がいけなかったんだ?」

「失敗をして来なかった事じゃないか? 就職以前の人生は、失敗なんかした事も無かった。握るものが鉛筆だろうがバットだろがラケットだろうが女の乳だろうが全てにいて成功していた。旅行に行こうと思えば予報が雨でも晴れたし、嫌いな芸能人の死を願っていたら次の日にそいつの遺影がテレビに出たり、って具合にだ。全部出来過ぎてた。失敗に免疫が無さすぎたんだ」

 きっとその頃のAと言えば地球の回転軸が自分であると信じて疑わなかったんだろう。実際中学の頃のAはそういう顔をしていた。

「ある日、仕事であるミスをしてな。......別に良くある、ありふれたミスだとは自分でも思うんだが、その事で怒られたんだ。自分がそうなった時の事を想像して欲しい。Sだったら、怒られてどう感じる」

「〝ああ、またやってしまったな〟って思うよ」

「......それが、普通だよな。......唯、俺の場合は違ってその途端に全てが終わったんだ。今までの自分の価値観、アイデンティティ、呼吸、存在、そういうものを全て否定されてしまったように感じたんだ。〝またやってしまった〟の〝また〟が今までに無かったんだ。......大切にしていた宝石を落として、傷を付けてしまったような......、意味が解らない所で完璧主義なんだよ。俺はその場で嘔吐しちまって、逃げるようにそこは辞めた」

 それは、終着点は全く同じなのだが、過程は全くの逆という異質さが、僕とAの間にはあった。僕は成功した体験と記憶が無くて、彼はその逆。なのに辿り着いた場所が互いに一緒である事に、今度は親しみというか、憐憫を禁じ得なかった。僕と違って彼は〝歩き易い道〟を歩いて来た。だがその分、道からドロップアウトした先の谷の深さはそれなりな筈である。僕と言えば失敗を前提にした人生を歩んでいたので、何か失敗があっても〝それが普通〟と思えるような一種、精神不感症とも言える精神体系をはぐくんでいたお陰で失敗には免疫がある。

 その代わり、成功に対する免疫は無いのだが。

「......悪いけど、その悩みは、僕にとっては贅沢な悩みにしか聞こえない」

「......何?」

 仮に、Aが適応障害で苦しんでいるとしても、僕の考えを伝えておこうと思った。 

 失敗ばかりして来たからこその、薄っぺらでは無い励ましを述べる事が出来そうだった。

「僕みたいに〝失敗の免疫〟を付けた人間より〝成功の免疫〟を持った人間の方が、よっぽど救いようがある。これから僕の人生で何か成功があったとする。けれど僕はそれをこれから一生素直に受け取れない。何か裏があるんじゃ無いかと勘繰ってしまう。高額の宝くじが当たった後、盗まれる心配をずっとするような。そういう風に、なってしまった。でも君は違うだろ? まだ助けの手が差し出されたらそれを素直に取れるし、何か良い事があったら笑える筈だ」

「だが、俺も、お前が成功を怖がるように、失敗が怖い。どうしようも無い」

「慣れだ」

「は?」

「失敗はな、成功よりありふれていて、数、こなやすい。成功の慣れは時間が掛かるが、失敗の慣れはその分、身に付け易いんだ」

「......」

「精神医学に於いて、認知行動療法、暴露療法というものがある。パニック障害などに使われるんだが、患者が嫌悪する状況にあえてその身をさらさせて、徐々に慣らすって言う寸法だ。成功と違い、失敗という状況はそこかしこに転がっている。バイトの面接を受けて落ちれば失敗、受かっても仕事でミスすれば失敗、バックれれば失敗。人間発達学上で言う臨界期を越えて以後は性格は変えられない。でも、何かに対する耐性を付ける事は出来る。僕は臨界期以前に失敗が多過ぎて、多過ぎたまま臨界期を越えてしまった。こっちはもう、手遅れだ。君は、まだ間に合うだろ?」

 そこまで言い切ると、Aはたがが外れたように、静かに笑い出した。

「......お前は、そういえば、中学の頃からそうだったな」

「?」

「お前は他人が失敗すると、〝自分の失敗の方が酷い〟と、意味の分からない寄り添い方をするんだ」

せよ。恥ずかしい」


 その後、近くのドンキで酒と煙草、適当なつまみを買って〝実家〟に二人で帰って来た。

「おいおい、良いのか」

「ああ、ずっと持ってた鍵が使えたから、良いだろう」

「はは、なんだ、それ」

 Aは僕の提案に忍び無い様子を見せた。そういう態度からも、まだ僕と違って道徳心のある善良な人間である事が窺える。けれど、このやり方が僕なりの励ましだと感じ取ってくれたようで、無粋な真似はせずに付いて来てくれた。

 ベランダで煙草を吸おうとしたAを制して屋内で一緒に喫した後に、Aはベランダに出て色々な方角を指差しては、あそこに住んでいたあいつは何処に行っただとか、あっちに住んでたあいつは結婚したけど奥さんに逃げられただとか、僕が東京に逃避していた間に起こった事を、色々教えてくれた。

「Kは、あそこの中古の家を買い上げたらしい」

 そう言ってAが指差した一軒家は丁度此方こちらに向かい合うように建ち並ぶ住宅の一軒だった。三階建ての家だ。そこそこ値段がしただろうに。そんな事を考えている間に、家の玄関から男女が出て来た。Kとその妻だろうか。妻の方はそろそろ臨月なのだろうか、遠目でも大分腹部が大きくなっているのが見える。二人は車に乗り込んで何処かへ向かって行った。

「奥さんを産婦人科にでも連れて行ったのかな? K、あいつ中学の頃オール1だった癖に、今はしっかりやってるな」

「君はオール5だった癖に放蕩してるし、似たようなもんだろ」

 暫く、そのような調子で話に花を咲かせた。


「お前さ、そう言えば何で帰って来たの?」

 つまみの6Pチーズと柿の種とアルコールで腹が膨れてきた頃、Aは僕にそう訊いた。

「ちょっと前に仕事辞めて、時間が空いたからさ」

「ふぅん」

 そして、嵐の前の静けさのような沈黙が暫く続いた。よく彼がクラスの剽軽ひょうきんな奴を説教する時、今と同じような雰囲気を出す癖のようなものがあった。

 彼のかたわらにはストロング系チューハイの空き缶が五、六本転がっていたが、酒に強いのか顔は素面しらふのままだ。アルコールで気が大きくなったので僕に意趣返しをしよう、という訳では無いらしい。

「仕事、戻ったらどうだ?」

「......」

「やっぱり、お前の言ってる事を聞いてると、向いてると思う。逆に言えば、お前みたいな奴こそ、やるべきなんじゃないか、とすら思うよ」

「......人を救う仕事をするならさ、他人を救う前に自分が救われている状態じゃないと可笑しいって、思ったんだ。それが、辞めた理由だよ」

「お前は、今日、一人救った。......その仕事を辞めていた立場にも関わらずな。要するに、他人を救う事が、そのまま自分を救う事にならないか?」

「正直、解らない」

「それが違っていても良い。もし失敗したら、帰って来い。それまでに俺が、なんとかこっちでお前の帰る場所を作っておいてやる」

「はは、そんな大口、叩いておいて大丈夫か?」

「最悪、俺は親父のコネでなんとでもなるさ」

「良いじゃないか。使えるものは使っておいた方が良い」

「そうだろ? だから、お前もその時は俺を使ってくれよ。......けれど、多分その心配は杞憂だな。俺は人を見る目には自信がある。人の目利きには失敗した事が無いんだ」


 酒に呑まれるまで飲んで、そのまま迎えた次の朝。きっと昨晩はアルコールの所為で恥ずかしい事まで言ったかもしれないが、可笑しな気不味さなどは無く、散らかしたものの後始末だけして、最後に煙草を一服して出る事にした。

「暫くこっちに居ようと思ったけど、今日、向こうに帰る事にするよ。......あんまり長居してたらその内、此処が脂部屋やにべやになりそうだからね」

「はは、間違い無い」


 最寄りの地下鉄のホームまで二人、無言で歩いた。居心地の悪いたぐいの沈黙では無い。沈黙が正解だった。

 結局、嫌な事しかなかった街でも、離れる時には物寂しくなるみたいだ。けれど、東京の寂寞せきばくと比べたら、幾らかこっちの静けさの方が優しい気がする。  

 小田急線のホームに吹き荒ぶ風と比べて、地下鉄構内の風は懐かしい匂いがする。

 そういうものに、黙って五感を捧げたい気分だった。

 何回も聞いた事のあるアナウンスが鳴って、何回も乗った事のある電車がやって来た。

「この鍵、渡しとくよ」

 僕はAに、〝実家〟の鍵を渡しておいた。

「いいのか?」

「ああ、苦しくなったら資本主義社会からの逃げ場として、好きに使ってくれ。けど、昼間は清掃業者が来るかもしれないから、気を付けてくれよ」

「......ありがとう。お前も、何かあったら、いや、何かなくても、偶には帰って来いよ。......俺の親父のカードで何か、美味いもんでも食いに行こうぜ」

「そこは君が稼いだ金で、食わしてくれよ」


 何も無い筈の実家と故郷なのだが、離れる程に苦しくなった。

 もう暫くは帰りたくないな、と思う。

 新幹線の車窓から見る、流れていく地方都市のビル群が手を振っているように見えて、涙を溢してもいいか、という気分になった。

 ものおもいにふける心の距離は、新幹線二時間分の距離以上らしい。

 きっと町田のボロアパートに着く頃に僕の心は、東京を通り過ぎて地球を何周もして疲弊していると思うけれど。


 けれど明日になったら立ち上がり、シュレッダーに掛けてしまった精神保健衛生士の免許を再発行しに、役所へ向かおうと思う。

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郷愁 M.S. @MS018492

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