後編
「先に出とくわよ、はやく来てね」
病室のドアに手をかけながら、敦子さんが私に声をかける。片手には大きな手提げを持っていて、中には私の使っていた日用品と服が入っていた。
今日は、私の退院の日だった。
「もう、行ってしまうの?」
「うん」
二人だけの空間、私達はいつものように言葉を重ねる。
「私を置いて行くの?」
「……そうじゃない」
いつだって、話しかけるのは華からだった。
「同じよ。だって、雪はここに戻ってくる気なんてちっともないじゃない」
華がまっすぐ私を見つめてそう言った。口元に笑みを浮かべて。
「どうしてそう思うの?」
華はいつでも笑っていた。二人で本を読むときも、二人で中庭を歩いたときも。でも、こんなに冷えた笑顔を私は知らなかった。
「だって、あなたの後ろで枯れた花が舞っているもの」
そう言うと、華は私の後ろを指差した。まるで、私を責め立てるように。
私は臨床試験を引き受ける代わりに、高額な治療を受けて病を克服していた。それを紹介してくれたのは敦子さんだった。
「華には、私の気持ちなんて分からないよ」
「どうしてそんなことを言うの?」
いまも華は笑っている。こんな話をしているのに。
「私は普通になりたい。母さんにも殴られなくて、学校にも通える普通の子供になりたい。……華を見てると、バケモノだった頃を思い出すの。だから、もうここには来ない」
私は扉に向かって走り、後ろを振り返ることもなく病室を出た。背中を扉にもたれて、そのまま座り込む。鼻の奥がツンと痛んだ。それが、病院の消毒の匂いのせいなのか、それとも涙のせいなのか、それを指摘してくれる人は周りに誰もいなかった。
廊下を一人で歩いていくと、敦子さんがいた。備え付けのソファーに座り缶コーヒーを飲んでいる。私の視線に気付いたのか、彼女はこちらに顔を向けた。
「やっと来た。って、何て顔してるのあんた?ひっどいわよ」
敦子さんのその言葉に、私は行き場のない感情を抱えたまま俯くしかなかった。
「まぁ、いいわ。お別れはちゃんと言えたんでしょ?」
私は、胸を掻きむしられるような、強い後悔に胸が締め付けられ息ができなくなる。
「……言えてない。ちゃんとなんて言えてない。敦子さん、私あの子になんて言ってあげたら良かったの?私すごく酷いこと言っちゃった。悲しくならないなんて嘘だ。だったらなんであんな顔できたの!」
扉を閉める瞬間、私は確かに見たのだ。華が俯いて身を縮めるのを。その顔に笑顔なんてなかったのを。
私はその場に崩れ落ちた。周りの空気が低くなり、雪が舞う。瞬間、頭に強い衝撃を受けた。鈍い痛みに顔を顰めながら見上げると、敦子さんが笑っていた。
「一丁前に、悲しめるようになったじゃない!死人みたいな目をしてた最初と見間違えるわ」
片手に持っていた缶コーヒーをゴミ箱に投げると、敦子さんは私を優しく抱きしめた。
「大丈夫よ、まだ間に合う。あなたは私と違うから。今のあなたの気持ちを、そのまま彼女に伝えたらいいの」
ゆっくりと体を離すと、敦子さんは私に見せるように袖を捲った。そこには、私の右腕にある傷と同じものがあった。
「私も昔、感情欠乏症でね。そのせいで多くのものを失って、それを取り戻そうとしてがむしゃらに頑張ったけど、残ったのはお金だけだった。」
袖を戻しながら、敦子さんは言葉を続ける。
「あの日、あなたを見つけてすぐに思ったの。この子を助けたら、無力でただ傷つけられるしかなかった頃の自分を、助けられるんじゃないかって」
「敦子さん、私……」
声をかける私に敦子さんは首を振る。「もういいの」とそう言って。
「さぁ、彼女に謝ってきなさい!はやく!」
「わぁ!」
ぐいっと体の向きを変えられ、そのままドンっと背中を押される。その勢いのまま、私は病室に向かって走り出した。背中に敦子さんの温もりを感じたまま。
誰もいない廊下に足音が反響する。私は息を切らせながら、華がいる病室に辿り着いた。深呼吸をして、扉を開ける。
「……なに、してるの?」
瞬間、激しい動悸に自分の声が震える。白い花が咲き乱れる病室の中、乱れたベッドの上でぐったりと体を横たわらせる華がいた。
ふらつく足でそばに寄り、華の体に触れる。
「ねぇ、どうしたの。返事をしてよ」
体を揺すっても華はなにも言わない。そのことに焦りを感じた私が、強く手を動かすとゴロンと体が上を向いた。華の顔が見えて、私は思わず息を呑んだ。
華は泣いていた。
「……どうしたの雪?なんで戻ってきたの」
涙が落ちるたび、そこから小さな花が咲く。それは、小説の挿絵で見た雪柳の花だった。
「華に謝りたくて、私酷いこと言ったから。華は私の大事な友達なのに。」
「もう会いたくないんじゃなかったの?」
吐き捨てるようにそう言って、華は私から顔を背ける。目元が赤く滲んでいた。
「そんなことない。絶対また会いにくる」
部屋に沈黙が落ちる。ただ、蒸せ返るような花の香りだけが私達を包んでいた。
その静寂を破ったのは華だった。
「……許さない」
押し殺すような華の声に、胸が苦しくなる。目が熱くなって視界がぼやけた。
「だから」
切実な響きと共に、腕が強く引っ張られる。私はバランスを崩して、華の顔の横に手をついた。睫毛が触れるほど近く、私達はお互いを見つめる。世界には私達しかいなかった。
「謝りにもう一度会いにきて、雪」
彼女の瞳に私が映る。求められているのはたった一言だけだと私は知っている。
「わかった」
無機質な病室に雪が舞う。あの日、冬のベランダで見たものと同じ白く綺麗な雪が。
それから少し経った頃、私は学校に通っていた。季節はすっかり春になって、暖かい日差しを体に感じる。約束の日がすぐそこまできていた。
彼女にまた会いに行こう。少しの花束と本を持って、雪柳が咲く頃に。
雪柳が咲く頃に 谷風 雛香 @140410
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