後編

 予定通りに、まずは、既に目と鼻の先にある元上司の会社を訪ねた。

 東芝工場の北辺を歩き切ると、訪ねる会社の隣では、社屋から、ヘルメットを被った社員たちが、外に出て点呼をしていた。

 社屋はプレハブっぽい造りで、さぞかし揺れただろうと思われた。

 私の訪問先はしっかりした鉄筋コンクリートのビルだった。

 元上司と会い、挨拶を交わし、ロビーのテーブルで話をしたが、二人とも軽く興奮していた。

 ロビーの大画面テレビでは、地震の情報を流していた。

 その間にも、何度も余震が来た。

 仕事の話をするどころではなかった。

「また、別の日にゆっくりお会いしましょう」

と、訪問先を早々に辞した。

 本来ならば、二人で飲みに行くはずだった。


 訪問先を出て、家に電話をした。

 電話はつながった。

 当時、私は、「イーモバイル」という弱小なキャリアの、スマホのはしりの様な端末を使っていた。

 利用者の少ない新興キャリアだったのが幸いしたのだろう。

 大手キャリアに加入している妻の電話からは、掛けても通じなかったという事だった。

 急いで家に帰ると告げて、電話を切った。


 私は、臆病者なくせして、のんびりしているところがある。

 妻は、「都内の鉄道が止まっている」と言っていたが、大した事はないだろう、都内というのは都心の山手線や京浜東北線の事だろうと思った。

 だが、北府中駅まで戻ると、武蔵野線は、見事に止まっていた。

 復旧目途は不明という。

 となれば、徒歩か別の交通手段である。

 私は、臆病者だがのんびり者である。

 自分の位置は分かっている。ここは北府中、東京郊外の多摩地区の真ん中である。

 南北には府中街道と小金井こがねい街道が走り、東西には甲州街道、東八道路とうはちどうろ、JR中央線、五日市街道などが通っている。

 少し北側には、「はけ」と呼ばれる国分寺崖線がそびえ、その裾には野川が流れている。台地の上には玉川上水が流れている。

 近くには、東京農工大学のキャンバスがあるはずだ。

 そうしたランドマークがある限り、ここは、私が生まれ育ったホームタウン、“ふるさと”である。

 畑や雑木林、住宅など見慣れた武蔵野の光景がある限り、私は途方に暮れる事はないと自信がある。

 まずは、小金井街道に出て、府中-小金井間のバスの運行を確かめよう、と、私は、府中刑務所の前の道を東に向かって歩き出した。


 街は妙に静かだった気がした。記憶のせいだろうか?


 妻とは、幾度か電話連絡はついた。

 だが、向こうからの発信はやはりつながらないらしい。

 妻も不安だろうが、こうした災害時に電話を多用するのもどうかと思い、「とにかく、急いで帰るから。全然、問題ないから」と告げて電話は控えた。


 後で地図を見れば2キロほどの距離を歩いて、小金井街道にたどり着いた。

 午後の、バスの本数の少ない時間で、時刻表を見ると、20分ほど待つようだった。

 バス停で、また、子供連れの若い女性と

「動いてますかねえ?」

などと会話をした。

 こういう時、話し相手がいるのは落ち着く。

 結局、40分ほど待って武蔵小金井行きのバスは来た。

 武蔵小金井へは、すぐである。

 次をどうするかだが、JR中央線は、律儀に運転見合わせである。

 バスで真北に移動して清瀬きよせ東久留米ひがしくるめに出ても、その先で、西武鉄道が動いていない可能性が高い。

 東側の三鷹みたかへ行くバスがある様だった。三鷹に出れば保谷ほうや行きのバスがあり、保谷からなら、大泉学園までは一駅である。

 という訳で、三鷹ゆきの、初めて利用するバスに乗った。

 これが失敗だった。

 夕方のラッシュ時間にもかかったためか、動き出しても、ちっとも進まない。小金井から三鷹などという電車ならば3駅の区間に2時間ほどもかかった。

 明るかった日も、とっぷりと暮れてしまった。


 後日の事だが、新宿で企画会社を経営していた友人と話す機会があった。

 神楽坂かぐらざかの取引先に書類を届けに車で行ったところ、普段ならば15分ほどの道に2時間ほどもかかってしまったそうだ。

 新宿から神楽坂など、歩いたところで何という事もない。

「なんで、車を使うかね?」

と、友人には呆れて言ったが、よく考えれば、私も人の事が言えたものでなかったかも知れない。


 三鷹から保谷は、スムーズだった。

 そうして、保谷からは、保谷新道を歩いた。

 この道は、週末の散歩などで歩き慣れた道である。

 だが、暗い夜道(暗いというのも、記憶のせいかも知れない。停電していた訳ではなかったはずだ)を、都心の方から、大勢の人が歩いて来る。

 鉄道のマヒを、改めて感じさせられた。


 8時半くらいに、家に帰りついた。

 電話で確認は取れていたものの、妻も母も無事で安堵した。

 家の中も、物が落ちたなどの様子もなかった。


 だが、居間に入って、テレビの画面を見て、肝が潰れた。

 宮城の平野を、真っ黒な海の水が飲みこんで行く。

 松島が炎上している。

 東京湾でも、母がしばらく暮らした内房で、石油コンビナートが燃えている。


 そうして、福島第一原子力発電所の事故が報道された。


 平成23(2011)年3月11日。

 日本が、世界が、激震した。

 1986年のチェルノブイリ原発事故と同様に、そこに住む人々が“ふるさと”の光景を失い、その土地から避難を余儀なくされる、そんな事態がこの日本で起こった。


 あれから、ほんの11年。


 祈りの日であるべき 3.11 を目前にした 2月24日に。


 ロシアのウクライナ侵攻と、原子力発電所への攻撃、核兵器による恫喝に抗議します。


(終)

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あの日 デリカテッセン38 @Delicatessen38

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