紫色の花束

あばら🦴

紫色の花束

 六一三ろくいちさん番。それが少年の新しい名前だった。

 入院初日にそう説明されても少年は何も感じなかった。どうせ今まで名前らしい名前で呼ばれてなかったからだ。役所に届けられた少年の存在を示すフレーズなどとっくに忘れかけていた。


「六一三番。ひどいあざだね。これらは……今回の自殺未遂の時に付いたものじゃないね?」

「さあ……。寝相が悪いんです、僕」

 このように医者や看護師の質問に不真面目に答えていたらもう何も聞かれなくなり、事務的に病室に運び込まれた。

 少年はそれが狙いだった。自分のことなんて気にしないで欲しかった。


 だが少年の思惑に従わず気にしてくる少女がいた。少年のすぐ横の窓際のベッドにいる少女だ。少年と同じ十三歳だった。

 最初に少年が病室に入ってきた時少女は眩しい笑顔を向けて歓迎していた。少年がぶっきらぼうにあしらっても笑顔を絶やさなかった少女は、少年という新しい友達が見つかったことの喜びを全身で表現していた。



「ねぇねぇ、名前なんて言うの?」

 それが少年が最初にベッドに横になった時に話しかけられた事だった。

「……。六一三」

「それここの番号でしょ。ホントの名前聞いてるんだけど?」

「親がつけた名前のこと? もう忘れたから」

 少年が雑に会話をぶった切って毛布に潜り込んで背を少女に向けた。他人を拒絶する少年の常套手段。普通ならこの時点で誰であろうと関わるのを辞めるのだ。

 しかし少女は違った。


「じゃあ私が新しいの付けるよ!」

「え?」

 予想外さと困惑さが混じった声が少年から漏れ、反射的に毛布をまくって少女を迷惑そうに見た。

「六一三番だから……ロイミー!」

 ニカッと笑ってビシッと指を少年に向ける。馬鹿らしいとも思えるそれを少年は冷ややかな目で見た。

「……勝手にすれば」と乱れた毛布を戻してまた背中を丸める少年。

「ここでの呼び方だけど、でも退院しても忘れないでよ! 外で会った時用にね」

 アハハと笑う少女の声が少年にとって鬱陶しかった。


 さらに鬱陶しかったのはその後も少女がまるで独り言のように話しかけてきて一人で笑うことだった。耐えない明るさを常に少年に浴びせて来ていた。

 少年は適当に雑な返事をするだけなのだが、それでも少女は常に楽しそうだった。これはこれで暇つぶしになるから、と少年は無理やり我慢するのだった。



「へえ! ロイミーってなんだ!」

 少年が入院して二日後に少女が知った。

 この世界では感情に呼応して『何か』が生まれる。その物体は人物によって違い、感情によってさらにどう作用するのか変わってしまう。

 少年にそれは無かった。

 そういった人間は感情欠乏症と一括りに呼ばれ、忌み嫌う人も少なくはなかった。そして少年の親も忌み嫌う人のうちに入っていた。


 なぜ少女が分かったかというと簡単だ。ふとそれっぽいから少女が聞いてみただけだ。少年も特に嘘をつく必要も無いから雑に答えて会話を終わらそうとしたのだ。

 しかし少女の次の言葉に少年は興味を惹かれてしまった。

「私も似たようなもんだよ〜! 厳密には違うらしいんだけどね」

「……なにそれ」

 本当は少女の言った事が猛烈に気になった少年だが言葉はそれだけに留めた。


「なんかね、私どんなに楽しくても何も出てこないの。でもなんか変な時に出てくるんだよね〜」

 と言って少女が窓辺の花瓶に活けられていた紫色の花を撫でた。

「この花なんだけど……」

「変な時に?」

「うん。急にそこら辺にパッて咲くの。綺麗だから好きだけどね!」

 太陽に照らされた紫色の花をにこやかに見つめる少女は確かに絵になっていたが、なんとも少女の健気な笑顔と大人びた紫の花がアンバランスで似合わないと少年は思った。



「ロイミー死のうとしてたの?」

 食事中に少女はふとした気持ちで少年の入院の理由を聞いて、返ってきたのが「自殺未遂だ」というサラッとした回答だった。

 少年は「うん」と言って特に動揺もせず食器をカチャカチャと動かしていた。少女もまた質問をした後すぐに食事を口に運んだ。

 少女は口に含んだものを飲み込むとニカッと笑いかけた。

「でも生きてたら良いことあるって!」

 純新無垢そうに言い切ってムシャムシャと病院食を食べる少女に少年は腹が立った。


 少年が食事の手を止めて、静かな怒りを込めて少女に言った。

「あんたに自分の辛さが分かるわけない」

「ん?」と少女が頬張りながら少年を見た。

「あんたみたいな四六時中笑ってられるような人間に……この辛さが分かるわけないんだ。適当な事言わないでくれよ」

 それを聞いて少女は急いで口に含んだものを飲み込んで、ニコッと笑って言った。

「そう! 分からないんだよ、私! よく分かったね〜」


「……?」と少年が困惑して首をかしげる。

「私ってさ、辛いとか悲しいとか全然分かんないんだよね! 物心ついた時からかな?いつの間にかぴゅーって消えてたの」

 アハハ、と無邪気な笑顔を少年に向けていた。

「いいなぁ、それ……」

 少年が皮肉めいて呆れるように言っても少女の笑顔は変わらなかった。無邪気で優しい笑顔が常に少年に向けられていた。


「でもさ、ロイミーもここにいる間だけは辛いこと忘れようよ! ね?」

(ここにいる間だけ……か)と少年がそう思った時、まるで灼熱の砂漠の真ん中にて一塊の冷たい氷が天から降ってきたような感覚を味わった。

 一時だけの安らぎを少年は欲した。

「……それ、嘘じゃないよね?」

 ものすごく小さな声だった。少女が「なに?」と聞き返す。

 しかし少年はぶっきらぼうに「なんでもない」とだけ答えて残りの食事に箸を伸ばした。


 その言葉通り少女は少年の辛さを忘れるようにたくさん話しかけた。少年は口では悪態を付いていたが悪い気はしなかった。

 止まることなく迫る少年の退院日。その後に待ち受ける少年の元通りの生活。親からの暴力。差別。

 入院生活の間だけ、少女の笑い声を聞くその時だけはそれらを忘れられたと言っても良かっただろう。



 窓から差し込む月の光が紫色の花を照らしていた。太陽に照らされている時よりも似合っていると少年はいつも思っていた

「今日寝て、ついに退院だね」

「うん」と俯いてつぶやく少年。

「ねえ、楽しかったかな?」

「……別に、そうでも無かったよ」

「えぇ〜?アハハ、結構頑張ったんだけどね」

 夜になろうとも笑顔が輝く少女。だからこそ少年は離れ離れになるのが悲しかった。しかしそれを悟られまいと少年は嘘をつくことにした。


「ロイミーに私、何か嫌なことしてたかなぁ?」と少女が聞いた。

「それは……。前に言ったよね。自分の辛さが分かるわけないって」

「言ってたね」

 砂漠の真ん中で一塊の氷を拾った者は、むしろその氷が完全に消える瞬間に拾わなかった時以上の悲しみを受けるだろう。

「正直……。あの家に戻るのだけだったらこんなに悲しくならなかったよ」

「ん? どういうこと?」

「分からないよな。だから言えたんだ」

 ハハハ、と少年は自分の心の小ささ、度胸の無さを笑った。


 その少年の自嘲する笑みを見た少女は、少年が初めて笑った事を喜んで目を輝かせた。

「お! やっと笑ったね! よく分かんないけどさ、その調子だよ! 笑顔は人生を変えるんだからね!」

「笑顔は人生を変えるって……そんな簡単に変わったら苦労しないでしょ」

「そんな事無いよ。私だってこのスマイルで臓器提供の話が来たんだから!」

 その話を聞いた少年が驚いて反射的に目を見開いた。聞き間違いじゃないよな、という願いを込めて少年は聞いた。

「ぞ、臓器提供?」


「あっ!これ言っちゃいけないんだった。やっちった!」

 いつもと変わらない笑顔がそこにあった。だがそれを見ても少年の心が安らがなかった。

「お金出してくれる病院の人以外言っちゃダメなんだよね〜」とまるでいつものようにおどけて少年を楽しませる口調で少女が言った。

「な、なんで、そんなことに……」

「えっとね、まあ簡単に言うとお金に困ってるの」

「なにそれ……!なんで…………」

「まあまあ、生まれで決まる人生もあるってこと。ロイミーもそんな感じでしょ?」

 サラッと言い切る少女に少年は何も言い返せなかった。辛さを感じない優しい少女にこれ以上何を言っても響かないだろうと分かったからだ。

 少年は何もしてやれない悔しさに包まれた。


 悔しさすらも分からず少年がなぜ塞ぎ込むのか分からない少女は少年を励ましたくて、もっと笑って欲しくて言葉を送った。


「だからこそ言えるの。笑顔こそが人生を変える!ってね。だからこれからも笑ってね。ロイミー」



 /



 あの夜に少女から言われた言葉は三ヶ月間ずっと少年の心に残り続けていた。

 そして今、かつての病室に戻ってきた。今度は患者としてでは無く見舞い客としてだった。

 たった一人で窓の外を見ている少女は、決まった時間以外に開くドアに驚いてバッと見た。

 少女は照れくさそうに立つ少年の姿に気がつくと、信じられないといった風に口元を手で覆い息を呑んだ。


「ろ、ロイミー?」

「もうここの番号持ってないんだけどね」

 ハハハ、と少年が笑うと嬉しさで少女が片手を大きく左右に振った。

「ロイミーはロイミーだよ!」

 身体全体を使って無垢な喜びを表現する少女。少年は見惚れていた。この姿を今までずっと見たかった。

 少女もまた少年がナチュラルに笑えているのを見て嬉しく思っていた。


 するとその時、窓辺にある活けてあった紫色の花が急速にしおれて枯れるのを少年が目撃した。

「あれ? なんで枯れたの?」

 少年が花瓶に指をさす。楽しそうに振っていた手を止めて振り返った。

 役割が終わったかのように色味を失って枯れた花。茶色く変色しどこか満足げなそれを少女は特に気にしないような反応を見せた。

「あ、ほんとだ。実は私にも分かんないんだよね」

「でもいいの? 好きな花だったんでしょ?」

「大丈夫だよ。いっぱい生えてるから。ほら来て」

 と少女が手招きして少年を窓ガラスにいざなった。一体何を見せる気だろうか、と考えながら少年は窓辺に近づいた。


 患者として居た期間に窓を見ることは滅多に無かった。せいぜい青空をチラ見するくらいで下を見る事は一度も無かった。

 初めて見る窓の外は病院の中庭に繋がっていた。そしてそこには少女が活けていたのと同じ紫色の花がびっしり生えていた。びっしりというか、もう生い茂っていると言ってもよかった。


「結構びっくりした?」と少女が何故か得意げに言った。「多いでしょ」

「これ全部あんたの…………」

「そうみたい。なんで生えてくるのか分かんないけど枯れるより生える方がずっと多いから花には困らないの。ロイミーが退院した日なんか、見て分かるくらいたっくさん生えてきてびっくりしたよ」

 太陽に照らされた、まるで小さなジャングルと思しきその紫色の花束を見て、その後少女の笑顔を見て、やはりなと少年は思った。

「あんたにあの花は似合わないよ」

「えっ?そうかな」

 アハハ、と少女が笑うと少年もそれに続くように優しく笑った。


「あっ、そうだ」

 と少年は少女にやりに来たことを思い出した。

「僕、お礼を言いに来たんだった」

「え? 私なんかしたっけ?」

 とは言いつつもワクワクが止まらないのか少女はベッドに腰掛けたままで期待に胸を膨らませた。

「したよ。あんたがこれからも笑っててねって言ったから僕はよく笑うことにしたんだ。そうしたら……なんか、親から嫌われてるのは変わらないけどめちゃくちゃ笑う僕にビビって手はあんまり出さなくなった」

 ハハハ、と少年は少女におどけるように笑いかけた。

「ありがとう。人生がちょっとだけ変わったみたいなんだ。あんたのおかげで」


 少年からのその言葉は少女の頭の中にこだまして、感極まっておもむろに目に涙を浮かべて次第にそれらを流してしまった。

 少年が優しく見守るそばでぐすぐすと両手の甲で涙を拭いながら少女が言った。

「う、嬉しいこと言って……! もおっ……! こ、こんな気持ち、初めてだから……どうしていいか分かんない……」

 少年は何も言わない。ただ、泣きじゃくる少女の横に座って笑いかけるのみだった。


 その時に中庭にある大量の紫の花の中から数十本が枯れたことに気付ける者はいなかった。

 花の数を気にする人間など、その時まで現れていなかったのだから。

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