マッチ売りの少女:another:

初見 皐

マッチ売りの少女:another:

「マッチはいかがですか?マッチは……っ」


 冷たい、冷たい空気を吸い込んで、元来小さな声を精一杯に張り上げる。少女が手に持ったかごには、数の減らないマッチの束が収められている。


 いくら声をかけても、少女の前に立ち止まる人はごく僅か。立ち止まったところで、大抵の人は1本や2本しか買いはしない。一度蝋燭に火をつけてしまえば、その蝋燭から他に火を移せば事足りるのだ。こんな不景気の時代、値の張るマッチをそう何本も使う余裕のある家庭などそうは無い。

 ましてマッチ売りなどどこにでもいる。火事の危険さえあるマッチを買い溜めする必要なんて無い。

 もう日が落ちようとしているというのに、手元にはまだマッチの束が3つも残ったまま。



 ——と、ここまで考えて少女は思考を断ち切るようにかぶりを振る。


「とにかく、やるしかない……!」


 左手に籠、右手にはマッチの束を握りしめ、少女はまた一人一人に声をかけていく。

 無闇に愛想を振り撒くことはしない。彼女とて年頃の少女。そうして不埒な輩に見初められ、身を滅ぼした仲間を彼女は知っているから。





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 ——「こんなはした金しか稼げねぇのか」


 そうやって父親になじられたのは、昨日の夜。いや、昨日の夜、と言うべきか。


「……」


 ——悲しい。

 詰られることそれ自体は構わない。それで父の気が晴れるというのなら、もういっそそれでもいい。

 ただ、お金の話で詰られるような、そんな関係になってしまったことが。昔はそうではなかったのに、今は父と私の間にあったはずの「家族」という関係が、どうしても見えなくなってしまったことが。ただ、ひたすらに悲しい。



 どうして、そんなことを言うの? どうして、そんなふうになってしまったの? どうして、どうして——

 悪いのは父なのか。私が悪いのか。いなくなった母が悪いのか。それとも、誰か他に悪者が——が、いるのだろうか。


 訊きたいことは多すぎるほどにあるのに、口には出せない。口にしてしまえば、多分私は涙を流してしまうから。そうなったらもう、どうにもならなくなってしまう。


 ちら、と後ろを振り返れば、まだ幼い弟が不安そうに目を合わせる。

 幼いながらに、彼は賢い。賢すぎるのだ。その身に余る不幸を理解してしまう。無理解に逃げることができない。幸せだった頃の思い出がはっきりと残る私と比べてさえ、あまりにも不遇だ。不幸せだ。


 ——だから。私だけは、折れるわけにはいかない。逃げ場のないこの狭い家の中で、私が弟を護らなくてはいけないのだと、そう自分に言い聞かせて、私はこれまで生きてきた。私だけは逃げてはいけないのだと、自らを追い詰めて。

 そうして、また顔を上げる。



 父は声を荒げることをしない。しかしそれは決して優しさではない。

 ただ、それをするだけの気力がないというだけ。それをするだけの価値を、私たちに見出していないというだけの話。


 ——だからこれは、この時が初めてだった。


 私が手渡した硬貨を拳に握り込んで、父が私に殴りかかってきたのは。

 一体、何がきっかけだったのだろう。


「——っ」


 一発。酒に酔ったせいか重さの無いひ弱な一撃を、理由もわからず頬に受ける。たったそれだけが、あまりにも重かった。

 大切な——大切だったはずの家族に、頬を殴られて。


 ——私は今まで、どうやって立っていたんだろう。


 もう、何もわからなくなってしまった。

 砕けそうになる膝を折りたたんで、それでも体を支えられずにうずくまる。



 ——心が、寒い。


 漏れ出した嗚咽は、もう弟にも隠しきれずに。





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「今日はちょっと帰る気にならないな……」


 あの後、弟とは一言も言葉を交わさないまま眠り込んで、朝も早くに家を出てから帰っていない。

 せめて多く仕入れてしまったこのマッチを全て売ってから。そう思って見上げた空はもう真っ暗で、仕事帰りの人混みもほとんどけてしまった。

 それでも、手元にはまだマッチの束が2つ。



 場所を移動しようと足を踏み出す。


「あれ、前が——」


 ——見えない。

 視界の端が真っ黒で、ほとんど目をつむっているような錯覚に襲われる。平衡感覚を失って、前に踏み出したはずが背後のレンガ壁に背中を打ち付ける。


「無理、しすぎたかな……」


 思えば、昨日から水しか口にしていない。

 頭を抱えてめまいが落ち着くのを待っていると、どうしても昨日のことを思い出してしまう。こんな生活が一生続いていくのだろうか。


「……っああもう!」


 ——死にたい。

 などとは、口が裂けても言えないのだけれど。

 体も凍え切って、立ち上がる気力もない。実際、命に関わる状況ではあるわけで。



 何分、そうしてうずくまっていただろうか。体の感覚は麻痺し切り、冷気は心さえも蝕んでいく。


 何を

   考えるの——


       も

         億劫に




            なって——




     。


    。   。       。 

 。

           。

     。

   。

             。

  。    。


     。

       。        。

 





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「やっぱり、受け取ってくれないよな……」


 そうひとりごちて、彼は頭をがしがしと掻きむしる。寒さに赤くなった左手に銀貨を数枚握り込み、白い息を吐く。


「無理にでも置いてくるつもりが……って」


 ポケットに突っ込んだ手をすぐに引き抜いて、今しがた通りすがった路地の先を怪訝そうに見つめる。その目線の先には、うち捨てられたぼろ切れのように丸まった少女の姿がある。


 ——憐れに思う。でも、だからこそ。普段なら、足を止めないはずなのに。

 それでも、そのベージュ色の髪を、どこかで見たことがあるような気がして。


「レナ…ちゃん……?」


 ついさっき目にした丶丶丶丶丶丶丶丶丶、写真の女の子と同じ髪の色。写真の中では小さかったあの子が、貧しく不摂生に幾年かを過ごしてしまったら、きっとあの、ボサボサの髪になるのだろうと——


「……くそっ」






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    「君、大丈夫?」


 ——。


    「……っ!ねえ!」


 ——?


    「起きろって!   こんなところで寝たら   死ぬぞ!」


 ——死ぬ、か。それも、いいのかな。

 そんな思いが、寝ぼけた頭をよぎった気がして。






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「……え?違っ、私何考えて……!?」


 突然、少女は弾かれたように顔を上げる。絡まった瞳の焦点を結ぶのに数秒を要して、


「うぇぁっ!?だれなになんですか叩かないでください……っ、ひぐぅ……」


 彼女の視線を追った先には、振りかぶった自分の手が。数秒、思考が凍りつき——


「わっ、いやそのっ、無理にでも起こさなきゃ死ぬと思って……」


 数歩後ずさって両手を挙げる。

 少女の警戒が解けるのを確認してから、用意していた言葉を投げかける。


「とりあえず……俺はハンス・アンドルフ。君の名前は?」


「……。——レナ・ブラウン、華の16歳です!学無し、文無し、宿も気分的に無し、命もヘタしたら無しってなりそうなんですけどそれは置いといてやる気はあります!」


「面接だったら絶対落ちる自己紹介をありがとう」


 彼のすげない返事に少女はほおを膨らませ、意趣返しとばかりに言葉を返す。


「それで、お兄さんはみじめな少女の死に様を見届けにきたクソ野郎ですか?それとも金づるさんですか?」


「たぶん後者だけど後者って言いたくないなぁ!金づるとか言われたの5年ぶりだよ!」


「えっ、5年前は金づるって言われてたんですか……」


 少女の憐れみの視線を得てしたり顔。みじめすぎる。



「って、じゃなくて。マッチを買いにきたんだ」


「はいはい、金づるさんですね。一本ですか?」


 マッチの束を手に取って、一本抜き出そうとする少女を制して、ひょい、と束ごと取り上げる。余った手で籠の中にあるもう一つの束も手に取って、


「あるだけ買うよ」


 と、口にする。


「……?一生に一度は言ってみたいセリフです……?」


「いい感じに困惑してる……」


 首を傾げて固まる少女を尻目に、ポケットから取り出した銀貨5枚を少女の手に握らせる。


「うぇ?……え?……え…と……?」


 いよいよもって困惑を深める少女に言葉を継がせる間隙を与えず立ち上がり、きびすを返す。



「子供が空元気なんて張るもんじゃないよ」


「……バレてましたか」


「じゃ、強く生きろよ」



 彼が歩き去っても、冷たい空気は丶丶丶丶丶丶暖かいままだった丶丶丶丶丶丶丶丶






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 店仕舞いの途中だった屋台で手に入れたホットドックを籠に入れて、人気ひとけの少なくなった家路を急ぐ。

 考えるのは、ポケットにしまい込んだ5枚の銀貨のこと。

 銀貨5枚ともなれば、初対面の相手に易々と渡すような額ではない。


「お金持ちの評判稼ぎ……それか、タチの悪いナンパの始まり……?」


 ただ、そんな理由だとはどうにも思えなくて。この銀貨は、ありがたく受け取っておくとする。



 一度にこれだけのお金が手元に踊り込んで、どうしても考えるのは——


「この生活からの、脱却」


 どこか遠くに出掛けているという、母。夜逃げか、出稼ぎか。はたまた別の用事なのか。もう長い間連絡も取っていない。父に訊いても「遠くにいった」の一点張りで、何も話してはくれない。

 記憶の中では愛情深かった母ならば、私たちの居場所にだって——


「都合のいい考えだって、わかってるけど……」


 ——それでも、どこかに希望を託さなくては、生きていけないから。





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「やってしまった侵入はいってしまった……っ」


 ——現在地は父の書斎。よわい16にして初めてのお茶目である。


 空回る思考を制して、自らの目的を思い返す。

 ここでなら、母の所在を知る手がかりが手に入るのではないかと、そう思って。


 部屋を見渡してすぐ目についたのは、埃っぽい部屋の中で唯一埃をかぶっていない一冊の日記帳。

 白紙のページを開いた日記帳を手に取り、初めのページを開き直した。



 ——



 ——。



 ——、——。



 、 、 、 ……



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 ——妻が死んだ。



 %…%…%…%…%…%…%…%…%…%…%…%…%…%…%…%…%…%…%



 そのページに記されていたのはその一言だけで。



 次のページをめくって、また戻って。

 いくら目を凝らしても、間違いを訂正する言葉は見つからなくて。


 ——ページを、めくる。



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 ようやく文章が書けるようになってきた。


 妻の——リサの死を、子供たちにはまだ話せないでいる。


 いつまで、この涙を隠していられるだろう。いつまで——自分を、誤魔化し続けられるのだろうか。





 ——めくる。





 レナからリサがいつ帰ってくるのかと尋ねられた。


 リサが戻ってくることは、もう二度とない。そんなわかりきったことが、文章として頭をよぎってしまったからだろうか。枯らしたはずの涙がほんの少し、溢れてしまった。





 ——ページに垂れた水滴を、指でぬぐって。


 ——めくる。めくる。





 僕の言葉がいくら怪しまれようと、現実を言葉にさえしなければ構わない。


 言葉にさえしなければ、子供たちに現実を直視させないで済むはずだから。それで……いい。





 ——めくる。めくる。めくる。





 酒はいい。酒は嘘を嘘でなくしてくれる。


 酒を飲むと、泣かないで済む。自分を騙しきれている証拠だ。人を騙すには、自分から。


 これでいい。これで構わないはずだ。





 ——めくる。めくる。めくる。めくる手がはやって。





 レナが働きに出ると言い出した。マッチを売って生活費の足しにするという。

 家計はそんなに追い詰められていただろうか。頭が回らない。心のどこかでは、まだあの頃のまま、時間が止まっているような気がする。

 脳の半分が凍りついたように動かない。レナを止めようにも、言葉が浮かんでこなかった。酒が悪いのだろうか。この文章もうまく書けているのだろうか。わからない。





 ——めくる。めくる。


 ——めくる。めくる。めくる。





 もうだめだ。酒はやめなければ。今日1日の記憶がほとんどない。僕はレナに何を言った?ノアに何を言った?何を言われた?


 わからない。わからないのに、何かを言われた気がする。自分はそれになんと応えたのだろう?なにかを応えたのだろうか?


 ついさっきまで、リサの死を忘れていた。リサを迎えに行こうと外に出ていた。行く当てなんてどこにも無いのに。




 ——ノア。弟の名前だ。


 ——めくる。めくる。だんだんと、一枚をめくるのがつらくなって。





 日記は昼の間に書くことにする。レナが帰ってくる時間になると、どうしても酒に手が伸びてしまう。リサと鏡写しのベージュの髪が、僕をなじっているような気がして。僕に似たみどりの瞳が、僕を嘲笑っているような気がして。


 酒など買う金があるのなら、レナとノアにもう一欠片でもパンを買ってあげたい。もう少しでも美味しいものを食べさせてあげたい。……そう、思っているはずなのに。





 ——めくる。めくる。1枚を飛ばして、2枚を飛ばして。


 ——零れ落ちる水滴と、乾いた水滴の跡。シワの寄った紙を、逃げるようにしてめくっていく。


 ——ふと、めくる指が止まって。





 今日はレナの誕生日だ。少しずつ貯めてきたお金で、クマのぬいぐるみを買った。


 レナには少し子供らし過ぎるだろうか。レナ本人に生活費を稼がせておいて、プレゼントなどというのも烏滸おこがまし過ぎるだろうとは思う。


 レナの稼いだ金額を記した帳簿も、けたが大きくなってきた。


 今日だけは——いや、今日からは。酒など飲まずに。


 今夜、子供たちには全てを話す。


 レナにも、昨日のことをちゃんと謝ろう。

 レナの決意をたたえたまっすぐな瞳は、リサが時折見せた表情によく似ていた。

 彼女が僕を叱るときにだけ見せた、あの瞳を思い出すことができた。


 昨日のことだけじゃない。これまでのこと全てを、謝ろう。


 謝って、謝って、そしてその後に、感謝を伝えよう。



 全てがこじれたあの日から、今度こそやり直そう。





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『今日、ハンスが訪ねてきた。昔の教え子だ。数ヶ月前に会ったっきり連絡が無いと思ったら、急に押しかけてきて帰り際には僕の靴に銀貨を詰め込んで行った。いや流石にそれはバレるだろ。僕だって酔ってない時は見送りに出るくらいはする』


 追記の文字を指でなぞって、クスリと笑う。


 ——今回は、ハンスさんの悪巧みに加担しちゃおうか。



 5枚の銀貨を机に載せる。

 籠に入れたホットドックは、もう冷めてしまっただろうか。


「ノア!父さん!ホットドック買ってきたよ!」




 少女が走り去った後の書斎は、今では暖かい空気に満たされていた。

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