恋人の愚痴は女将も食わない

高田あき子

恋人の愚痴は女将も食わない

 ここは帝都のとある酒場。一人の肝っ玉母さん……もとい女将が仕切っている小さな立ち飲み屋だ。

 本来は酒場という特性上夕方からの営業である。客層も当然兵士や仕事帰りの工夫たちといったむさ苦しい男たちばかりだが、『閉店』の札がかけられた酒場の中には女将とは違う一人の女。

 彼女を客と言っていいのかはまた別として、先ほどからカウンターに突っ伏しておいおいと泣いているこのなさけない女を放っておくのも忍びなく、女将は水の入ったウイスキーグラスを傾けていた。


「あのさあ。いつまで泣いてんのよ」

「だぁーってぇーー」


 駄々っ子のようにじたじたと両手足を動かす彼女は女将の古い友人だ。実のところ彼女は女将よりいくつも年上なのだが、彼女が甘え上手なのか女将が甘やかし上手なのか、年の逆転した姉妹のような関係になっていた。

 そのために、今日も今日とて営業時間外に彼女の相手をしているのだ。ぐずっている赤ん坊をあやすほうがまだ好ましいと思ってはいるものの、なんだかんだといって世話をしてしまうのは女将の気質によるものが大きい。


「うう、アレックスのばかぁー! やっぱり若い子がいいんだあの陰険ー!」

「カレシの愚痴聞くことほど時間の無駄と思うことないわ」

「だってだって! また両側に女の子はべらせて! ハーレムかっての! こっちには甘い言葉ひとつ囁かないくせにぃ……」


 入店当初から彼女が嘆いているのは己の恋人に対することだった。彼女はまあ、要するに職場内恋愛というものをしているのだが、その恋人が新入りの娘たちに囲まれているのが気にくわないらしい。そのためことあるごとに仕事場を抜け出しては泣き言を叫びに酒場へやってくるのだ。

 彼のことは女将もよく知っているからその容姿が女性受けすることは理解できるし、仕事に真面目で部下に優しいその態度は憧れ以上の眼差しを向けられることもよくわかる。だがよく知っているからこそ、彼が浮気などしない――というか彼女にベタ惚れであることなど重々承知だ。しかし恋する乙女(というには大人すぎる年齢)になっている彼女は実に盲目で、己もかつては恋をしていた身として何事にも一喜一憂……いや主にマイナス思考を働かせて嘆いてしまうのもわからなくはないのだが、それはそれとして愚痴と惚気を聞いているくらいならさっさと仕込みを済ませてしまいたい気持ちになるのは仕方がないことだろう。


「泣いてたって変わらないでしょ。昼休みに職場抜け出してくるのも何度目よ」

「あんなもん目にして飯が美味いと思えるかー!」


 地団駄、地団駄。愚痴にはなにを言っても無駄なことはよくわかっている女将のことだ。同意するのもまた面倒だし、とカウンターに突っ伏した彼女に適当な相槌を打ちながら昼飯を作ることにした。

 どうせこのまま休憩時間いっぱいまで居座るのは目に見えている。昼飯を食い損ねて彼女の仕事に支障が出るのも後味が悪いので、泣き言をBGMに適当に仕上げてしまおう。

 そうしてしばらくの間。延々と述べられた恨み言も尽きてきたころ、カウンターの内側から漂ってきた匂いにようやく彼女が顔を上げた。


「……おひるごはん?」

「まあね」


 ぐずった鼻先をかすめるそれに瞬く彼女に、プレートへ盛りつけたランチを差し出す。

「はい。『ローレライの乙女慰めランチ』、みたいな?」

「まだ悲恋してないもん!」


 でもいただきます、と差し出された皿を受け取る彼女。

 女性向けにありがちないくつかの副菜と主菜が乗せられたプレート。見てわかるのは小さなサラダと薄切りのパン。そして焼き色のついたココットの一品だ。

 まずはサラダをひと口。シャキシャキの緑黄色野菜たちが口の中で踊る。ちょっぴり酸味の強いドレッシングが唾液の分泌を促していた。

 次にココット。木匙を使ってすくい上げるととろーり伸びたチーズ。断面にはマッシュポテトとミートソースだろうか。これは間違いない組み合わせだ。ぱくりと口に入れるとほくほくの芋とミートソースの味がチーズに包まって幸福感を運んできた。


「罪な味がするぅ……」

「罪っていうな。幸せの味って言え」


 カロリーを気にする乙女は多い。それゆえに食べ過ぎれば体重に直結する組み合わせにも思えるが、エネルギー源としても悪くはない。なにより小さめのココットに入っているということで、罪な味ながら罪悪感なく食べられてしまうのだ。これは幸せ。我ながら罪な味とか失礼よね、と心の中で思ってしまうほど。

 お次はパンの隣に添えてある……これまたミートなソースと、豆を粗くすりつぶしたもの、そしてアンチョビのペースト。


「これパンにのせて食べたらいいの?」

「そうそう。好きなのつけて食べて」

「はーい」


 であれば遠慮なく、パンの上にのせていく。まずはミート。これはココットのものとは違うようで、水分を煮詰めて飛ばしてあるようなごろっとしたタイプだった。

 多めにひと匙のせてぱくり。薄切りのパンはカリカリに焼いてありサクサクっと小気味良い音を立て、続いてスパイシーな香りが鼻をついた。やや香辛料のピリッとした風味が強く、次から次へと食べてしまいそうだ。

 そんな気持ちを抑えて次は豆の粗つぶしペースト。こちらは塩とセサミの香りがする。先ほどのミートより優しい味付けで、ペーストだけでもそのまま食べられそうなくらい。潰しも粗くしてあるためペーストのとろみと触感の違いが楽しめる。

 最後にアンチョビのペースト。これはよく知ったもので間違いがない。豆のペーストよりも塩気の強い、オイリーでガーリックの効いたもの。酒によく合うだろうなあ、と考えつつ、まだ昼時ということでワインも飲めない事情を少々悲しんでしまう。


「どれもおいしーい! どんどん食べちゃうわあ。お酒飲めないのがつらくなっちゃうのが玉に瑕だけど」

「そりゃどうも。これなら夜のメニューに合わせて出しても良さそうだね」

「夜も出すの? 食べたい食べたーい! ついでにワインも飲みたーい!」


 先ほどと打って変わって彼女に笑顔の花が咲く。子どものようにコロコロと表情が変わる彼女を見ているのは飽きないもので、呆れと安心半分の息をつく。

 彼女の恋人もまた、こういったところを好ましく思うのだろう。もちろん人によっては辟易するかもしれないが、少なくとも女将を含め彼女の周りに自然と集まっていく者たちはそういった部分を好いている。

 素直な感情表現ができる、いつまでも純粋さを忘れない少女のような爛漫さ――誰もがいつの間にか忘れてきたようなものを、彼女はいつでも拾い上げて見せてくれるのだ。

 しかしそろそろ時計の針が別れを告げようとしている。満足げな表情の彼女に小さな紙袋を渡して、女将は軽くその背を押した。


「ほら、デザートも作ってるからカレシと二人で食べな。話のネタくらいにはなるでしょ」


 目をぱちくりとさせる彼女はその言葉にぱあっと表情を明るくさせた。


「うん! 午後もがんばってくるねー!」

「はいはい。気をつけてな」


 駆け出して行った彼女が躓かないことを祈りながら、女将もまたその笑顔につられて笑うのだった。


 

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