液体になる

くれは

雨の音がする

 雨が降っていた。だからわたしは雨の音を聞いていた。

 彼の手はまるで柔らかな雨粒のようだった。その指先が肌に触れると、わたしの体は水溜りのようになる。その優しい指先が触れたところから、まあるく波紋が広がってゆく。その小さな波はわたしの体を広がっていって、足の先、手の先、頭の先まで届いて、跳ね返ってまた体の中を巡ってゆく。

 きっとわたしの体は液体なのだ。彼の指先が、腕が、わたしの体の奥深くをかき混ぜて、わたしの液体の体はぐるぐると渦を巻く。水の中に落ちて、溺れて、輪郭を見失う。彼の名前を呼ぶことすら覚束ない。

 わたしがわたしを見失いそうになる頃、彼の手が優しくわたしの頬を撫でた。そっと水を掬い上げるような手付きで、水の底に沈みかけていたわたしの輪郭を探り当てて辿る。それで、わたしはわたしの形を取り戻す。彼の手がわたしの輪郭を掴まえて、水の中から引っ張り上げようとする。

 わたしはさっきまで水になっていたものだから、呼吸の仕方も忘れてしまっていた。急に空気の中に引っ張り出されて、顎を持ち上げて浅い呼吸を繰り返す。瞬きをすれば、ぼんやりとした視界の中で、彼がわたしを見下ろしていた。

 目が合って、彼は少し眉を寄せて微笑んだ。この表情はきっと心配と不安。初めてのときだって彼は優しかったのだけれど、それでもわたしはとても怯えてしまったものだから、その後ももう何回目かなのにずっと、彼はこんな表情をする。

 大丈夫、と言ったつもりだったのだけど、一度液体になったわたしは声の出し方も忘れてしまったらしい。掠れた声は浅い呼吸に紛れて、きっと彼には届かなかった。わたしの声を拾い上げるように、彼の指先がわたしの唇を撫でる。彼の顔が降りてきて、彼の唇が耳元に寄せられる。ごめん、と囁かれたその声は熱を孕んでいて、その熱さが耳から入り込んで体を巡ってゆく。ようやく取り戻してきた輪郭が、風に撫でられた水面のようにまた揺らぐ。

 また液体になってしまう前に、わたしはもう一度、大丈夫、と伝えた。微笑む彼と顔を見合わせて口付けをする。その優しさも、優しさで覆い隠された熱も、わたしを液体に変えたり戻したりする大きな手も、わたしを覗き込むために丸められた背中も、わたしは全て好きなのだから。

 雨の音がする。強くなった風に揺さぶられて、窓枠ががたがたと音を立てている。ひどい風に翻弄された雨粒が窓ガラスに叩きつけられる音が聞こえる。

 液体になったわたしの体がばらばらになってしまいそうになると、彼の大きな手が掻き集めて繋ぎ止める。わたしの体を一滴だって零さないとでもいうように、彼の腕がわたしをその中に閉じ込める。わたしは曖昧な輪郭で彼の体を包む。好き、と言ったつもりだったけど、それは言葉になっていなかったかもしれない。

 たくさんの雨粒がわたしの体を叩く。たくさんの小さな波紋が体の中を行きつ戻りつするうちに、それはじきに大きな波になる。

 雨の音が聞こえていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

液体になる くれは @kurehaa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る