メタリカとTシャツ

木野かなめ

メタリカとTシャツ

「なあ、ヒマけ? 遊ぼや」


 駅の駐輪場の前。振り向くと、知らない男が引きつった笑みを浮かべていた。


「ごめんなさい、急いでるから」

 私はぞんざいにその場を離れようとする。人通りは少ない。駐輪場のおっちゃんは事務所の机に突っ伏して爆睡している。早く、改札までの50メートルを踏破しないと。


「無視すんなや」

 男は、私の制服の腕の部分をぐいっと掴んできた。


 え、女子高生相手に暴力?


 怖くなった。助けてくれそうな人はいない。夏の夕方特有の、ストレートティーみたいな日差しが相手のもっさりとした眉毛に影をつくる。


 その時、男が着ているバンドTシャツに注目した。

「それ、メタリカですよね」


「そうやで? なんか文句あんのか?」

「私も好きなんです、メタリカ。えっと……」

 どうしよう、ぶっちゃけバンドの名前は知っているけど、聴いたことない。

「四枚目のアルバム、好きです……」

「アンドジャスティスか! お前、よう知っとるやんけ!」

 男は上機嫌になり、私を解放してくれた。


 よかった。

 伝説のサードアルバムを残して解散したバンドだったら、今頃私はめちゃくちゃのボロクソにされていたかもしれない。


 私は男に頭を下げて、電車に乗るべくダッシュを決めた。




 ところが、だ。


 それから連日、あの男が駅前で私を待ち伏せするようになった。

 男は花壇の赤煉瓦に腰を下ろして私に語りかける。話の内容はいつもメタリカに関するものだ。一方的に知識自慢をし、三十分くらいで解放してくれる。

 もちろん嫌だけど仕方がない。若白髪交じりのその男、名前はヨウジといい、なんと私と同じ十七歳だった。高校には行っていないのだとか。


「ミカは勉強できて得やのう」

「私、そんなに賢くないですよ」

「俺からしたら、高校でちゃんと勉強しとる子はみなカシコや。ちょ、鞄貸してみ」

 悪寒がした。ついに私物を漁られる。


 でも、私が止めるより先に、ヨウジは私の通学鞄をエアホッケーのシュートでも打つようにひったくった。


「……お、教科書や。やっぱ勉強しとるやん」

 ヨウジがページをめくったのは、古典の単語帳だった。それは昔の日本人の言葉なのだと教えてあげる。

「こんなん、なんの役に立つねん」


「その……想像してみて下さい。みんなこんな言葉遣いやったんですよ? なんか面白いと思いません?」

「ほんまや。たしかにここに、おもろいって書いとる」

「えっ?」

 ヨウジの野太い指が、少々痙攣しながら87ページをさす。

 そこには、古典単語『をかし』の説明書きがあった。


「これ、意味が違いますよ。興味深いっていう意味なんです」

「嘘つけや!」

 ヨウジは呵々大笑する。

「なんやこれ、『うす』が『死ぬ』? ほんだら、うすメタルやんけ」

 それからヨウジはずっと単語帳を読み続けたので、私は貸してあげることにした。


「あんがとな!」


 単語帳を片手で上げるヨウジの歯は、何本かがなかった。




 あれは、半日授業で、珍しく帰路を急いでいた日だった。


 いつもは公園で時間を潰す。だけど半日授業の日なら、大勢が寄り道をするから誰とも会わないかもしれない。


 私は坂を下った。ラージヒルの滑走のように、呼吸を止めて駆け抜ける。喉がネタネタして気持ち悪い。三叉路の日だまりの中――、でも、やっぱり私の運はショボかった。

「なに急いどるん?」

 横断防止柵から、同級生のリンカがひょいと飛び降りた。


 なんで。学校が終わったらすぐに走ってきたのに。


「うち四時間目自習やったから、はよ出てん」

 リンカがゆっくりと私に歩み寄る。


 そして、


 私の耳をつまみ、ぐいーっと下に引っ張った。


「なあ、金、はよ返してや」


 私はリンカにお金を借りた覚えはない。彼女は『ミカは誰にでもやらせる』というデマを垂れ流しただけでなく、私の鞄に百円玉を入れ、一秒につき一割の利子という設定で私からお金をむしりとろうとするのだ。


「泥棒か、お前」

 リンカが私の膝小僧を蹴った。靴との摩擦で肌が切れる。滲んだ血より、遅れてくる鈍痛の方が私の心をむしばんだ。

「やめてよ」

「じゃあ金返せ」

「借りてへんやん」

「うるさい! 学校辞めろや、お前!」



「お前が辞めろや」



 息を呑んだ。

 リンカの髪を束ねて持ち、斜めに揺さぶるのは、あのヨウジだった。

「痛い! だ、誰?」

「ふざけたことしとったら殺すぞ」


 私は死ぬ気でリンカからヨウジを引き離した。


 リンカは狂ったように悲鳴を撒き散らす。近所の民家から何人かの大人が出てきた。私はヨウジの手をとり、太陽に体当たりをするように疾走した。




 どうしよう。


 明日リンカはどんな仕返しをしてくるだろう。もしかしたら警察沙汰にされるかもしれない。そうなったら、お父さんとお母さんに迷惑をかけてしまう。

 私は、上歯と下歯を擦り合わせながら、ヨウジと並んで駅前の道を歩いた。


「ONE、や」

 ヨウジが唾を吐いてから、言った。


「ONEは、戦争で身体がダルマになった男の歌やろ。ミカも一緒やぞ。勉強しに学校行っとるんか。それとも、戦争ごっこやるために行っとるんか」


 ムッときた。

 私の敏感な問題を暴力で滅茶苦茶にしておいて、その言い草はないんじゃない?

「知らんよ。ヨウジさんも高校行ったらわかるんじゃないですか?」

「なんや、ボケ。俺関係ないやんけ」


 私は唇を尖らせた。

 空を仰ぐ。私が生まれる何百年も前から変わらない青が、そこにある。


 戦争ごっこ……か。

 利権を争うわけでもない。

 復讐を行うわけでもない。

 ただの、傷つけ合い。

 ヨウジのTシャツでは、白銀の鎧が勝利の方角を向いている。


「なあ」

 ヨウジが、ただでさえ大きな鼻の穴をいっそう広げた。

「ブラックアルバムの話しよや」


 私の頬が軽く上がった。

 なによ、蚊を一匹追い払ったくらいの、その軽いノリは。


 でも……うん。どうでもいいのかも。戦争じゃないし。戦争ごっこ、なんだし。


 すぐ近くにファミマがあった。今からどこかの日陰でメタリカトークをするなら、ちょっと買い出ししてもいいかも。だって私、ブラックアルバムはちゃんと聴いたし。アンフォーギブンは『2』の方がかっこいいってことも語れるし。


「ねえ、ファミマでお菓子買っていきません?」

 私が自動ドアをつんつんと指で示すと、ヨウジは歯茎を見せて破顔した。


「ええな。――興味深い」



                                   了

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