第47話 《月子》 優しい国で




優しい国に生きている。


そう言ったあたしに向かって、静かに微笑む。


その笑顔に、どうにも胸が詰まる。



あまりに、穏やかな笑顔だったから。




「……そうだな。今の自分には何のしがらみもない。700年前に引きずられる必要もない。それは皆そうだ。――でも、選んだ」





思い出すことを。


全部受け入れることを。


別に無視してもよかった。


甦った前世に気づかないふりをして、今世の生活を大事にしていても、それは今のこの人の生き方だから、誰も咎められない。


むしろそれは正しいことかもしれない。


だって、前世のことはもう一度終わっている。そこに囚われることは不健康だ。



でも、そうしなかった。




その瞳がそっとちづ姉に向く。




「――その上で、千鶴子と一緒に生きたい」





全部、全部、ひっくるめて。


前世も今世も、何もかも全部受け入れた上で、一緒に。



ちづ姉の瞳から涙が溢れ出す。





「――お義父さん」




ざっ、と音を立てて、そのまま玄関で土下座する。


その姿を見て、父さんはよろけて足を引いていた。




「数年前、千鶴子を連れ去ったのは、昔の俺です。でも、昔の自分にとって、どうしても必要なことでした。そのせいであなた方に、酷く辛い思いをさせたことを心から謝罪します」





父さんは呆然と口を開けている。




「でもこうして生まれ変われたこと、もう一度千鶴子に会えたこと、絶対に無駄にはしません。千鶴子と、――いえ、千鶴子さんと、どうか結婚させて下さい!」




玄関にその声が、幾重にも響く。


あまりに衝撃を受けたのか、ちづ姉がへたりと座り込んでいた。


そのまま抱き着くように体を寄せて、背を震わせている。



誰も言葉が落ちて来ないまま、ただただちづ姉の泣き声が玄関に響いていた。



土下座なんて、古典的。


でもまあ、もしあたしが同じ立場だったら、同じことをするかも。


いい意味で人間臭いな。


もちろん、もう《完璧》である必要もない。


この人は、いろんなものを背負って生きてきた。いつも冷え切った手をしていた。


でも今はもう違う。

あたしだって違う。



この人が、確かに今ここに存在している。




そう思ったら、ふっと体から力が抜ける。




「……とりあえず、上がったら?」




くすくすと笑いながら言葉を落とすと、全員我に返ったようにあたしを見た。




「あ、ああ。そうだな。ほら立って中へ――」



父さんは混乱しながらも、その人を立ち上がらせる。




もう全部終わり。


700年続く辛い想いも、全部。


そしてまた始まる。




ここが、今が、始まりだと実感したい。






「――早く上がりなよ、『義兄さん』」






また違った何かであたしたちは結ばれていく。




過去への逆行ではなく、未来へと向かって。


全て今この瞬間の、すべて乗り越えた先にあった再会のためだったと、信じたいから。




ここが、優しい国だったって、


信じながら、幕を下ろしたいから。







《終》



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キミノ名ヲ。文庫発売記念書下ろしSS 梅谷 百@2022/2/25『天詠花譚』 @umetanimomo

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