第13話 後日譚

 由梨は目覚めた。新品のベッドの上で。朝日の眩さが真新しいカーテンごしに伝わってくる。由梨は下着を穿いて、隣で眠る彼を見た。彼は少しばかり筋肉質な体つきで、自信と優しさのある顔立ちのまま静かな寝息を立てている。今日から彼との同棲生活が始まる。

 彼は優しい好青年だ。好青年と言うには少しばかり年を取っているかもしれない。ホワイト企業で働く彼は、ちょっと上から目線な物言いが玉にキズの優良株である。しかしどうしてか、彼女には今目の前にある新生活が画面越しに進行する歌劇の一幕に思えてならない。ここに私はいないと、不思議とそんなことを考えている彼女がいる。

 由梨は、静かに部屋を出て、朝食を作り始める。といっても沸かしたお湯を粉末のスープの素を入れたカップに注ぎ、市販のサラダと焼いたハム、そして卵にパンをそえただけの朝食だ。彼の分も作っておく。しかし、今まで彼を恋愛対象にして順風満帆の恋を二人でしていたはずが、いつの間にかその恋を遠巻きに眺めている。私はきっとおかしいのだとそんな自分に嫌気がさす。

 あぁ私はきっと一人なのだと出来上がった目玉焼きをお皿にのせ、由梨は気づく。彼女も、心がときめくラブストーリーに憧れていたのだ。それに何より恋愛物語が好きだ。しかし私は主役にはなれないと彼女は気づいた。一人だ。いつまでも一人にしかなれないのだ。この孤独は誰にも理解されるはずがない。なぜなら彼女はどこまでも幸せな人生の女の子なのだから。

 いつの間にか彼女の心が体から遠ざかっていた。優しさはいつまでも残っているはずだが、いつからか自分の人生を遠くから見ていた。彼女は自分の感じる肌触りにさえ違和感を覚える。泣くつもりもないし、いたって健康であるはずがなぜかひとりでに涙がこぼれているときがある。ここは私の物語じゃないと由梨には分かってしまった。

 由梨は大学にも通えて、就職も乗り越えて彼と出会った。しかしそんな彼女の人生ですら、今の由梨にはまるで自分のものではなかった。きっといつか彼との生活が嫌になると彼女には分かってしまった。幸せなのに幸せを感じられないなんて馬鹿みたい、まるで悪役ねと小さく言ってみる。しかし彼女の心は何一つ快方に向かわなかった。

 なら彼なんて放り出して扉を開けたらいい。いつまでも誰かと出会って嫌になっては扉を開けて部屋を出る日々が続いて、彼女はどこかで死ぬのだろう。そんな人生を、誰かが自己中心的で話す気にもなれないという。馬鹿みたいな人生だ。死んだら地獄行きだ。彼女には分かりきっていた。今から扉を開けて幸せがつかめるはずがない。むしろ彼女は転げ落ちるだろう。

 いつか後悔するのだろう。あのとき扉を開けなければ幸せな家庭で安泰の老後が掴めたのにと彼女は思うのだろう。誰も彼女を善人だとは思わない。そして誰一人彼女に同情しない。全部由梨には分かっていた。しかし彼女は自分の体から引っ切り無しに感じる違和感が抑えきれない。

 処方箋は死かもしれない。死んで地獄に行けば楽になれる気がした。だが彼女には死ぬつもりなどなかった。どうしてかこのまま扉を開けて部屋を出るだけの人生を歩こうと思えていた。それはあまりにくだらない彼女の決意だった。

 恋人と二人三脚で笑って二人で幸せになるわけでもない。孫の顔を親に見せて親孝行をする絵に描いただけの人生でもない。ただ一人を選んで優良株を投げ捨て坂を下り続ける人生。よいことなんてこれからないかもしれない。それでも彼女はもうよかった。その方がなんだか自分にはぴったりで、お気に入りの人生になる気がしている。

 いつか彼女は後悔するのだろう。一人ぼっちで誰かに助けを求めることもできず、老いぼれた体が死に向かっていくのを彼女は苦しむ。そしてあのとき扉を開けなければこうはならなかったと思うのだ。めちゃくちゃだ。あまりに自暴自棄な人生だ。どこかの哲学者が、あれはひどい人生の一例ですとしかめっ面して言うのだろう。それでもいい。もう彼女はそうなってもよかった。

 朝食を作り終えた由梨は、二人分の盛り付けをして、すぐに荷物を軽くまとめる。もう、よそわれた目の前の二人分の朝食には見向きもせずに鞄を手に取る。彼はいつも寝ぼすけだ。だから今扉を開けたら問題ないと彼女は考える。そのまま化粧もせずに出ようとして、彼女はその手を止める。それから玄関にメモ書きを置いた。

 こんな支離滅裂な行動をしておきながら、どうしてか由梨はまだ、彼の幸福が続けばいいなどと馬鹿げたことを本心から考えていた。だから彼女は急いで書き記す。それから靴を履いて、音を立てないように扉を開け、部屋を出てからそっと閉める。

 青空が何棟ものマンションの向こうの雲間から少しだけ垣間見える晴れだ。これから彼女はまた寂しくなって誰かと恋をして、また扉を開けて部屋を出るのだろう。いつか誰にも見向きもされなくなるほど老いて行くあてもなく死ぬのだろう。それのどこが悪い。何が幸せな人生なのか。もう彼女はそんなことはどうでもよかった。いつまでも扉を開け続ければいいのだ。

 職場に行くまでにどこかで化粧をしようとぼんやり考える。スーツはどこかで用意すればいい。まだ時間はある。そこまで考えて由梨は我に返る。いつだって好き放題跡を濁していけばいい。彼に書き残したメモ書きを小さく声に出す。 

 「一人で行くね。二人で食べてね。幸せを願うわ」

 手近な場所で身支度を軽く済ませ、化粧は念入りにする。スーツを奮発すればそれだけで駅の人波に埋没できる。先行きの悪い雨雲ばかりだけれども、もう由梨は雨でも構わなかった。好き放題生きよう。何をしようと今の彼女は、どこまでも幸せな人生の女の子なのだ。

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耽美譚 小西オサム @osamu55

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