第12話 月光の日々
小説を置いて旅に出る。最低限の衣服と貴重品だけを持って電車に乗った。鞄を手に乗る電車は、街の日常を置き去っていった。行きたい場所はなかった。どこか遠くに行きたい。冷房のそれほど効いていない列車から外の景色が置き去られていく。
一度も選ばれなかった俺の小説。売れた小説家や学者は友人に感謝している。友人に感謝すれば売れるのか。そうではない。きっと友人がいたから売れたのだろう。感謝をするために書くのではなく、感謝を得るために書いているのだから売れるはずがない。人間のことなど皆目分からないのに人間を書いたって共感は得られない。分かっているが動けずに嫌気がさしている。
駅で人が列車から降り、席が空いた。俺はそこに座る。俺の一生など取るに足らないものだ。売れて俺を馬鹿にした奴らを見返したいのにいつまでたっても売れない。伝えたいことが売れて見返したいであるだけの小説家が評価されるはずがない。そこには高尚な芸術心などない。分かっていても体が動かない。俺は踏みつぶされないように逃げ惑うだけの蟻だ。明らかな実力不足で、この車窓の情景さえ物語にできない。
太陽が山の向こうへ沈んでいく。黄金色の稲の海に敷かれた線路を古びた電車は進み続けた。
「ほら起きて。次の駅で降りるんだよ」
肩を叩かれて顔を上げる。そこにいるのは黒い髪の少女だった。黒地に赤橙色の花柄が彩られた着物を着ている。
「君は、誰?」
「あら、あなた、ここがどこかも知らないみたいね。外を見てよ」
女の子は外を指さした。外には見知った山と田畑と住宅街などなかった。ただ闇が広がっていた。
「何も見えない。ここはトンネルじゃないか」
「違うよ。あっ、あなたまだ歩いているのね」
「歩いているってなんだよ。俺は今座っているだろ。からかっているのか」
「もう。それはこっちが言いたい」
女の子が怒り出した。俺はなんだか悪いことをしたような気がしてくる。
「ごめん。何か変なことを言ったみたいだ」
「うん。素直に謝られるとちょっと困っちゃう。それにしてもここは綺麗ね。みんなの光がきらきらしていて楽しそう。きっとここは空気が澄んでいるんだ」
「そうなのか。俺には人間ばかりが見える」
「えっ。人間」
「あぁ人間だ」
途端にそれを盗み聞いた車内の乗客の空気が一変して殺伐としたものに変わっていく。誰かが人間と怒号をあげた。堰を切ったように車内の声の多くが荒れたものに変わっていく。
「俺、何かしたか」
「そうね。きっとみんなあなたたちが忘れられないのよ」
「忘れられないってなんだ。さっきから何を言っているのか分からない」
「分からなくていいよ。あなたまだ歩いているんでしょ。もし危なくなったら一緒に逃げてあげる」
俺はこの場に敷き詰められていく俺への否定が怖かった。しかし見ず知らずの女の子の言葉に少しばかり安心している。
「待ってください。彼は飼われてそう思い込んでいるだけかもしれません。それなら哀れです」
白髪の老人が老いに負けない声を車内に響かせた。途端に喧騒が落ち着いていく。俺を憐れむような目線が四方八方からちらちらと向けられる。俺は一体何をしたというのだ。俺はただ電車に乗っているだけじゃないか。
俺は何か言い返したい気持ちにかられたが、何を言えばいいのか分からなかった。何もできないまま俺はうつむく。そこにあの白髪の老人がやって来て、お若いのと俺に声をかけた。
「お若いの。大丈夫ですかな」
「あっ。はい」
「大丈夫だよ。私がいるから。何か起こったら私が逃がしてあげるんだ」
女の子は頼りにしてほしいと言わんばかりだ。俺よりも幼い子がそう言うと、安心もするが、急に俺が頼りない人であるかのように思えてしまう。
「そうですか。それなら安心です。皆見たいものしか見えません。ここはそういう列車です。だから注意した方がいいんです。特に人間という言葉には。それでは」
そう言って老人は去っていった。俺はまともな返事の一つもできないままそれを見送ってしまった。
「見たいもの、か。なぁ、どうして君は俺にそんなに優しくしてくれるんだ」
俺は彼女にそう聞かずにはいられなかった。それほど俺は、恨んだ、恨まれているの世界に住みついてしまっていた。彼女は悩んでいるのか、少し言葉を選んでいるようだ。
「それは。どうしてだろう。分かんない」
「分からないのに、どうして俺に」
「えっと。また会える気がしたの。ここじゃないどこかで、いつかどこかで、会えるんだって。だからちょっと話してみたくなった。不思議だよね。どうしてこんなこと言えるか分かんない」
小旅行も終わりです、ご同乗いただきありがとうございました、お疲れさまでしたと車掌と思われる声が響く。誰もが押し黙って一様にその声を聴いているようだった。列車が止まっていく。もう終わりかあという誰かの声がひっそり響く。そろそろ駅に着くみたいだった。車窓からは駅も街も何も見えない。
「もう着いちゃう。私たち、あっと言う間だったな」
「さよならなのか。それなら名前を教えてくれないか。いつか会えるんだろ。それなら教えてくれよ」
「名前なんていらないよ。でも、そうね。私は蛍。蛍だよ」
「蛍か。綺麗な名前だな」
列車が少し大きく揺れて止まった。一番前のドアが開く。人が一人ずつ降りていく。俺は少し一緒にいただけの彼女と名残を惜しんでしまっている。そこにやって来たのは若い大男だった。
「お前がこれから歩かされると聞いた。俺にはみんな猪にしか見えないんだがな。それが突然人間だなんて言い出すから怒ってしまった。さっきは怒鳴ってすまん」
そう言って大男は謝り、じゃあなと言い残した。おそらく怒声をあげた人だろう。俺が名前はと聞くと、猪だと叫んだ。よく通る声だった。するとあちこちから声が聞こえてくる。
「猪か。おいしかったぞ」
「おいお前か」
「はっはっは。もう関係ねぇや。」
先ほどの凍てついた空気が嘘のように穏やかになっていく。ただ同じ電車に乗り合わせただけの乗客が笑い合って降りていく。俺はその様子を見ながら、彼女に話しかけてみる。
「さっきの怒声は何だったんだってくらいなごやかだ」
「きっとみんな気づいたんだよ。さっき私が一人ぼっちだったときに車掌さんが教えてくれたんだ。どんなに悲しい顔をしていても、恨めしそうな顔をしていても、この列車が終着駅に近づくと、みんなあんな風に穏やかになるんだって」
「そうなのか。君もそんな気持ちなのか」
「分からない。私たちがもう続かないんだなって思うと、ちょっと寂しいかも。でもそう思っていても、違くても、みんなきっと穏やかにならなきゃって思っちゃうんだよ」
「どんなに悲しい一生でもか」
「うん。だって列車を降りていくみんなも、きっと大変な目にあってた。だからあんなにあなたたちに怒ったんだよ。でも最後は笑っていた。私も行くね」
「もう行くのか」
「うん。じゃあね」
「あぁ。蛍、またね」
俺があえてそう言うと、彼女は表情を輝かした。
「うん。待っててね」
彼女は何度も振り返っては、俺に手を振る。その仕草が俺をなんとも穏やかな気持ちにさせた。彼女がドアの向こうへ行って、俺も降りようと思った。彼女となら一緒に行きたい。俺は彼女が降りたあとを追う。
「だめですよ。あなたはまだ歩いている」
そう言って制服姿の車掌が行く手を塞いだ。俺はドアの向こうへ行きたかった。しかし車掌は頑として動かなかった。
「お願いだ。彼女と一緒に行きたいんだ」
「ではあの娘が見えますか」
「見えない。暗闇があるだけだ。それでも行かせてくれ」
「だめですよ。あなたはまだ行けません」
ドアが無慈悲に閉まる。俺は恨めしさを込めて車掌を見上げた。
「きっとまた会えますよ」
そこにあるのは車掌の暖かな笑みだった。
「それでも今行きたいんだ」
「できません。しかし帰りに明かりを照らして外を見せることはできます。この列車にはあなたしかいませんから」
車掌に諭されて俺は何も言い返せずに席に着いた。電車が動き出す。一人になっても彼らの声が残響のように耳に残り続けた。彼女の表情もまだ目に残っている。
列車が走り出し、しばらくしてから車窓の向こうの景色がぱっと明るくなった。そこには無数の小さな光の粒が輝きながら、惹かれ合うようにゆっくりと近づきあい、また離れ、はるか遠くの闇まで浮かび上がっている。それはまるで光の海だった。その光景にくぎ付けになっている俺のそばに、車掌がやって来た。
「光っているように見えるでしょう。これは列車の明かりに照らされているだけです。しかしどんなに小さくても輝き返してくれています」
「俺みたいな人間だったとしてもか」
「えぇ。蟻も蛍も猪もノミもたんぽぽも」
「それはいいな。月光の海だ」
この数えきれないほどの粒のどこかに蛍というあの女の子がいる気がした。車掌がこれくらいにしましょうかと言って立ち去って、外の景色は闇に戻る。どこまでも揺れる電車のなかで俺はだんだんと睡魔に襲われていった。
「お客さん。終点ですよ」
俺は顔を上げた。そこには駅員がいた。
「すみません。寝てしまったみたいです」
「そうですか。降りたい駅は通り過ぎましたか」
俺は辺りを見回した。どうやら眠ってしまったみたいだ。見慣れない街がそこにある。駅の明かりが眩しい。住宅の明かりや店の広告が輝いている。俺はどこに行くのか少し悩んで、帰ることに決めた。
「そうです。この電車は折り返しますか」
ただ電車に乗って眠ってしまっただけだけれども、俺は気持ちが軽くなっていた。眠ったおかげで疲れがとれたんだろう。駅員の向こうのドアの外から駅のホームが見えている。それにどうしてか安心していた。待っていてねと顔を輝かす誰かが、俺が寝ている間ずっと隣にいた気がした。少しずつ気持ちが上向いていく。
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