死にゆくあにと
仲原鬱間
死にゆくあにと
「あにさま、」
甘美なその言葉の響きを、
「あにさま、あにさま」
氷砂糖を舐るように幾度も幾度も舌の上で転がして。
「――あにさま」
わたくしは、刻みつけるようにその名を呼ぶのです。
まさに砂糖菓子のように溶けゆく、あにさまの魂よ。
どうか、わたくしの元から去らないで。
◆
わたくしのあにさまは、病の床に伏しておられます。
あにさまの美しい肉の内に巣食うているのは、決して治らぬ病。長年苦しみを耐え忍んだあにさまの命は、あと少しで尽きようとしております。
ですからわたくしは、あにさまが天へ昇ってしまわれる前に、あにさまが神の御手に引かれて行ってしまう前に、あにさまと共に此処を抜け出して、二人で仕合わせに暮らそうと計画しているのです。
わたくしがいくらあにさまを愛しているとはいえ、天の国まで御供することは叶いませんから、あにさまが苦痛に御顔を歪めて、あえかな呼吸を絞り出す間、わたくしはあにさまの白い頰に顔を寄せて、何度も囁きかけるのです。
――あにさま、早く此処から出ましょう。わたくしと一緒に、仕合わせに暮らしましょう。
――あにさま、あにさま、あにさま……
するとあにさまは、病がもたらす痛みに喘ぎながら、虚ろな目を懸命に見開いてわたくしを見つめ、
「……出ていけ」
◆
ああ、わたくしのあにさま。何とおいたわしい御姿。
あにさま、あにさま、と縋りながら、わたくしはあにさまの御身体に口接けを落とします。わたくしのあにさまがこれ以上病に苛まれずに済むように、願いを込めて、たくさんの痕をあにさまの清らかな御身体に刻み込みます。
わたくしの愛の刻印が、数えるのも倦むほどの数に達したとき、あにさまのお口がわなないて、何か言葉を紡ぎました。
……ええ、楽しみですね、あにさま。
わたくしは微笑んで、最後に、あにさまのお口を、自分の唇でそっと塞ぎました。
あにさま、今夜は二人でこっそり逃げ出すのにふさわしい、真っ暗な新月の夜ですよ。
◆
とある患者が、長きに渡る闘病の果て、その人生の半分近くを過ごした療養所で生涯を終えた。
……死神に憑かれているんです、って言ったら、信じてくれますか?
その患者が語る『死神』は、患者の事を兄と呼び、夜毎に囁きかけるのだという。
此処を出て、一緒に暮らそう、と。
彼は、連れて行かれてしまったのだろうか。看護婦に呼ばれて向かった先、ベッドに横たわる男の顔は、眠るように安らかだった。
ふと、その首元に痕を見つけ、何気無しに、肩の上まで律儀に被せられた布団をめくる。
――夥しい数の鬱血痕が、はだけた胸元から首筋にかけて広がっていた。
仕合わせに暮らせているといいな、と。死神に愛されてしまった男の遺体に手を合わせた。
死にゆくあにと 仲原鬱間 @everyday_genki
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