第3話「弟」
結局、スーパーへ案内したのは日もすっかり落ちた頃だった。日中の気温が今年最高を記録したためだ。急ぐ買い物でないのならばこんな熱い中アスファルトを歩いて行くのは自殺行為だ、と母と二人で説得した。由成は俺達母子の勢いに押されて、戸惑い気味に提案を飲んだ。
旅先でお客様が熱中症になっては困る。それに、由成の白い肌が痛々しく焼けて赤くなってしまうのを見たくなかった。母もどうやら同じ気持ちだったらしい。
由成が食べた後の膳を片付けてから、連れ立って出掛けた。碌に電灯もない田舎道だ。懐中電灯を持って、俺が先導した。
海辺から離れ、防潮林の中の小路を通って町の中央を目指す。虫の鳴き声が四方八方から多重奏となって聞こえる。由成が何か言ったような気がして、振り返った。
「なんです?」
「だから、この辺に住んでる奴は虫がうるさくて眠れなさそうだな、って」
「ああ……」
何のことはない世間話だったらしく、少し拍子抜けした生返事を返した。
「長く住んでいる人ばかりだし、慣れがあるんでしょうね。眠れないって話は聞きません。新美様は、虫の大合唱を聞いたことは?」
「ねぇな」
「どちらからいらっしゃったんでしたっけ」
「都会」
「東京ですか」
「まぁ……そんなとこ」
彼の住所なんて宿帳を見れば分かる。しかし、パスポートの提示を求める必要がある外国の旅行者と違って、日本人はチェックイン時の身分証明の義務はない。現に、過去にもデタラメな連絡先を書いた客がいた。
こうして言葉を濁すということは、宿帳の内容は信用しない方がいいだろう。まぁ、だからといってそれを糾弾するのはリスクのあることだから、指摘なんてしない。
「自然に囲まれていることだけが売りの田舎です。日焼けも、虫も、コンビニが遠い不便さも、存分に楽しんでいってください」
「嫌味なやつだな」
「自虐ですよ。……足元、気を付けて」
ライトの光を揺らして注意を促せば、タイミングよく由成が枝付きの枯れ木を跨いだ。
跨いだのは良いが、思った以上に前のめりになってぶつかりそうになったのか、前を歩く俺の肩を手で掴んで倒れ込みそうになるのを堪えた。彼の体重が預けられる。体勢を戻すのが早く、俺までよろけることはなかったものの、彼の手が肩から離れないのが気になった。
由成は潔癖そうな顔をしておいてスキンシップ過多のきらいがある。他人に触れていないと不安になる友人を知っているので、そうされることは何となく慣れてはいた。
小路を抜けるまで好きなようにさせてやろうと思い、何も言わなかった。
「お前、兄弟は」
彼は質問が多い。まるで無言の時間を恐れているかのようだった。
「一人っ子です。……ああいや、本当なら兄がいたんでしょうけれど、死産だったそうで。母には聞かないでくださいね」
「……」
世間話のつもりだったのだろうが、予想外に重い事実を話されて次の言葉を探しているようだった。悪い、とまた謝る声が背後から聞こえる。
「別に、謝ることじゃないでしょうに。こちらこそ気まずくさせてしまって」
「いや……」
「新美様は、ご兄弟いるんですか」
「……弟がひとり」
「へぇ、じゃあお兄さんなんですね、意外です。俺と同じ一人っ子かと思いました」
由成はそれっきり口を噤む。やはり素性についての話題はNGらしい。
◇
由成は歯ブラシ、下着、シャンプーとコンディショナー、シェービングローションと化粧水などの日用品を買っていた。宿にも勿論シャンプー等は揃えているが、長期滞在するからには普段から使っているものの方がいいのだろう。町の人間がこぞって利用する唯一のスーパーであるためか、彼に言わせてみれば“田舎にしてはまずまず”の品揃えらしい。
「え、じゃあ電気シェーバーとか買わなくていいんですか」
「髭脱毛してるし、宿にあるやつで十分だよ」
「ひげだつもう……」
知らない概念が彼の口から飛び出し、強いカルチャーショックを受けた。髭って脱毛するものなのか。都会の人間はやっぱり違うな……。
その後、碌にラベルも見ずに缶チューハイを5本カゴへと放り、地元で作っている加工品を吟味して、つまみを買っていた。
俺はと言うと、やかましく機械音を鳴らす古臭い冷凍庫の上蓋を開けて、迷いなくアイス・ボックスを手に取った。最近こいつの美味さと、どことなく洒落た感じに気が付いたのだ。
その様子を後ろから見ていた由成は同じものを数個カゴへ入れた。アイス・ボックスに酒を注ぐという飲み方があるらしい。
会計時に俺の手の中のものも払うと言い出したので慌てたが、制止する前にレジのおばちゃんがバーコードを読み取ってしまった。また母さんに言えないことが増えてしまい、内心頭を抱える。
「こういうの困ります、」
「案内代だと思えよ。それでも少ないくらいだけどな」
「でも、」
「あと赤マルも。カートンで」
自分の内側から、心臓の跳ねる音が聞こえた。おばちゃんは面倒臭そうにレジ下のスペースからタバコの束を取り出し、続いて安ライターが並んだケースを突き出してきた。カートンを買うと、おまけに1つ付けてくれる。
白、黄色、オレンジ、緑、青。……赤いライターは品切れのようだった。背中にじわじわと冷汗が流れていく。
「あー、要らないっす」
軽い調子で由成が断れば、店員はライターを引っ込めて会計額を伝える。そういえばこの男、財布さえ持ってきていない。手ぶらでスーパーへ来たような。
俺の心配をよそに彼はジーンズのポケットに手を突っ込み、折り目のついた裸の万札を2枚、コイントレーの上に置いた。端数を出さなかったため、返ってきたお釣りはじゃらじゃらと音を立てる。
由成はその中で4千円だけを受け取って折り畳み、またポケットに仕舞った。コイントレーを逆さにして残りの釣り銭を掌にざっ、と受け止めたかと思えば、レジ横の募金箱へ全て入れてしまった。プラスチックの箱の底に叩き付けられる大きな音が暫く止まず、俺とおばちゃんは啞然とする。
彼は気にした素振りもなく、会計済みのカゴから品物をさっさと袋詰めして、店を後にしようとしていた。俺は慌ててその背中を追う。
「い、いいんですか」
「なにが」
「だって、いや、ええっと。勿体ないじゃないですか」
「俺の善意を勿体ないとか言うなって」
「いやいや、小銭が嫌だから募金箱に突っ込んだんですよね?」
「そういう捉え方もあるのか。勉強になったわ」
「……財布も買えばよかったんじゃないですか?」
由成は俺の言葉を黙殺する。
母は確か、現金一括前払いで宿泊代を貰ったと言っていたような。俺と5歳も違わないような青年の金回りの良さに、訝しく思わずにはいられない。
暗い、という彼の呟きに、慌てて懐中電灯を尻ポケットから取り出そうとする。
キン、といつものあの音が聞こえる。前方を歩く彼の手元が淡く光る。いつの間にか咥えていた真新しいタバコに火を付け、煙が香った。
◇
朝。
といっても、10時を回っている。漁港の朝市も片付けがぼちぼち始まっている頃だろう。
学校指定のジャージを着て、掃除道具と共に由成の部屋の前を訪れる。襖の堅縁を手の甲で軽く叩きノックの真似事をした。
「おはようございます、新美様。本日はお部屋の掃除させていただきますので、ご面倒ですが暫く外していただけますと……。新美様?」
返事は聞こえない。何度か声を掛けてみても結果は同じだった。
襖に耳を付けて、聴覚に気を集中させる。部屋の中は空に思えた。
何だか嫌な予感がして、失礼します、と一言断りを入れて開け放つ。布団には人ひとり分の膨らみがあった。それでも、人の気配がしない。
机の上に視線を走らせると、既定の倍以上開けられた形跡のある錠剤のシートが置かれていて、血の気が一気に引いた。
布団の側に膝をつき、掛け布団を捲る。そこには眠る由成がいた。呼吸の有無を確かめるために口元へ手をかざし、それでも確証が持てず胸元に耳を当てる。
碌に筋肉も脂肪もついていない薄い胸板だ。肋骨の凹凸が頬でも感じられた。
酷くゆっくりとした鼓動が耳に届き、やっと、安心することができた。よかった、生きている。死んだように眠っているだけだ。まったく紛らわしい。
ふと、由成の腕が持ち上がったのを、視界の端に捉えた。髪を緩く撫でられる。
恐る恐る彼の顔を盗み見ると、目は開けられていなかった。寝ぼけているようだ。
掌は髪から頬へと滑る。指先で耳も軽く擽られた。
どうやって彼に気付かれずこの手から逃れて身体を離そうか。そうぐるぐると頭をフル回転させているうちに、緩慢とは程遠い速度で由成の目が開いてしまった。何度か瞬きをし、眼球がくる、とこちらを向く。
「……どぉした、よしはる、」
寝起き然としたどこか舌足らずな声で、知らない名前を呼ぶ。しかし俺には何故か、それが彼の弟の名前だと分かってしまった。
早く否定した方がいい、俺の保身なんかどうでもいいから、彼の慈愛の笑顔を、怜悧で人を寄せ付けないいつもの顔が緩んでしまっている様を、彼が自覚しないうちに。
だけど、口が動かない。声が出ない。頬が、耳が、首まで赤くなっていくのを感じる。体重を支えている腕から力を抜いて、彼の腕の中に身体を預けてしまいたいとすら感じてしまう。そんな誘惑に取り憑かれた。
そうして硬直しているうちに、彼の表情が見る見るうちに驚愕と愕然に満ちたものへと変貌していく。何事かを叫ばれる前に勢いよく身体を離して、廊下に置きっぱなしだった掃除道具を手に取り戻って、大声を上げた。
「3日に一度掃除するって言いましたから! 今日は掃除の日なので! 暫く留守にしていただけると!」
例の如く早口で捲し立てると、客であるはずの由成を追い出すことに成功した。
◇
動悸が止まないのを無視して、無心に掃除を開始する。とは言っても、存外綺麗に使ってくれているようだ。スーパーウチミのレジ袋の中に、酒のつまみや歯ブラシのパッケージ等のゴミがまとめられていた。近くには吸い殻が山となっている灰皿。その他に目立ったゴミといえば、先ほど目についた薬のカラだ。
印字された小さな文字を読む。エリミン・デパスという2つの薬を飲んでいたらしい。
持病の薬か、もしくは睡眠導入剤か何かだろう。酒と一緒に飲むのだけは、宿の人間として、本当の本当にやめてほしいものだが。
喫煙者の客を泊める時は床の間から掛け軸を外す。その代わり、竹製の花器に季節の花を生けたりしている。
萎れかけの小ぶりな向日葵を捨て、代わりに庭に植えていた夏椿の枝を新しく生けた。
何となく、彼にはこちらの方が似合うような気がした。
消臭のために暫く窓を開け放つ。彼の部屋からは西側の海と岬がよく見えるので、夕暮れ時には常に絶景が味わえるだろう。
彼が先ほどまで使っていた布団を抱え、リネン部屋から新しいものを取りに向かう途中、ロビーとも言えないようなフロントの、古びた赤いソファーに由成は座っていた。彼が備え付けの浴衣に袖を通したことは見たことがない。Tシャツ姿で熟睡している。昼夜逆転している夜型人間なのだろうか。そういえば、昨日も朝方5時に起きていた。あれは早起きしたのではなく、一睡もしていなかったのだろう。
覚醒したら入るだろうと思い、風呂の掃除も終わらせておく。時刻は正午近くになっていた。
「……新美様、掃除終わりましたよ。布団は新しいのを敷いておきましたので、そちらでお眠りになってください」
そう言って彼の肩を軽く叩く。
小さく唸る声と共に、眉間に深く皺が寄る。目を開ける前に腹筋を使って、無理矢理ソファーの背もたれから身体を引き剥がし、こめかみを揉んでいた。
「ヴ、」
「もうお部屋に戻って大丈夫です」
そぉか、と不明瞭な声で答えて部屋に戻ろうとするも、壁や柱に身体のどこかをぶつけながらフラフラした足取りで階段を上ろうとしていたため、溜息を吐いて介助に向かう。
由成が布団へと倒れ込んだのを見届けると、開け放っていた窓とカーテン、障子を閉じて刺すような日差しから部屋を断絶した。
よく効いた冷房の音が和室に重く響く。
由成はぼんやりとした様子で花器を眺めていた。竹の花瓶に支えられ、白い花弁が俯きがちに咲いている。
「沙羅双樹……」
「よくご存じですね」
「庭に、あったから」
散歩の時に見かけたのだろう。俺や母が住んでいる母屋の庭に、夏椿の樹があるのだ。
すぅ、と寝息が深いものに変わった。かろうじて敷布団と掛け布団の間に身体をねじ込んでいたので、掛け布団を彼の身体の上で整えてやる。
恐らく、夕方まで起きてこない予感がしたので、間接照明だけを灯して部屋を出る。
──よしはる。
彼の、弟の名前。
何となく胸がざわついた。
※エリミン
某製薬会社が販売していたベンゾジアゼピン系の睡眠導入剤の一種、ニメタゼパム (nimetazepam) の商品名。中時間作用型。2015年に販売中止。(作中は2010年夏頃)
熾火の男 横嶌乙枯 @Otsu009kare
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