第2話「親父」


 


 ──火遊びしてると、いつか消えねぇ火傷負うんだからな。



 父が言う。

 

 縁側でタバコを吸おうとして、ライターのオイルが切れていることに気付いたのか、小さく舌打ちした。赤と白が印象的な空き箱を掌でぐしゃりと潰す様子を呆れて眺めた。最後の一本を惜しみながら肺いっぱいに吸う、そんな離愁じみた自己陶酔に浸ることさえできず、年甲斐もなく苛ついているように見えた。

 父は子供っぽい人だった。


 ポケットから古びた赤い百円ライターを取り出して見せれば、父はおっという表情をし、タバコを口に咥えたまま素直に俺の手元へ顔を寄せた。親指で強くヤスリを真下へ擦り下ろし、硬質な音が鳴るまでガスのボタンを押さえる。



 赤みを帯び始めた空、夕焼けの入り。俺の手元と父の顔が淡く光る。



 ──俺からちょろまかした物、随分上手く使うようになりやがって。なぁ。



 何も答えなかった。

 伸ばされた父の手をすい、と避けて、スーパーに行くけど何か買ってこようかと聞いた。



 ──赤マル買ってきてくれ。……冗談だよ。気ぃ付けて行ってこい。



 子供には買えないことを知っていて嗾けようとする。母がこの場に居たらきっと怒っていただろう。その言葉を笑い飛ばして、俺は父に背を向け出掛けた。









 それが、父との最後の会話になるとも知らず。














 寝言で親父を呼んでいた気がする。


 とても良いとは言えない目覚め。夏休み二日目の朝だった。


 このところ軋むようになってきた身体を無理矢理に起こして布団を畳む。顔を洗って、すぐに宿の台所へ向かった。


 業務用の冷蔵庫には客に出す料理の材料が全て入っている。

 劣化を防ぐために夏の間だけは米もここに入れておく。プラスチックの米櫃から五合分、あの単身の客がどの程度食べるか分からないが、余った分は俺と母が食べるため、多めに炊いておく。


 洗った米を水に漬けてタイマーをセットした。こうしておけば、起きてきた母が浸水の完了した米を炊いてくれる。


 早朝のジョギングの前にこうやって朝の仕込みの手伝いをするのが日課だ。どうせ宿を継いだら早起きも夜勤も当たり前になる。



 靴紐をいつもよりきつく締めて、まだ薄暗い外へ出た。

 東の岬の向こうを見れば、濃い紫色が夜の闇色を真上へと追いやり、その下がさらに朱色を滲ませていた。あと二十分もしないうちに朝焼けが町を照らすだろう。眩しくならないうちにいつものコースを済ませてしまわなければ。



 ふと、宿を見上げる。


 昨日訪れた客、新美由成に与えた部屋の窓は障子もカーテンも閉め切っていた。当然、彼はまだ眠っているのだろう。時刻は四時になったばかりだ。


 何となく、彼が起きてくるまで突っ立ったまま待っていたいような気もしたが、意味の分からない気の迷いを振り切って堤防沿いに走り出す。



 父が死んでから、母一人で民宿を切り盛りするのは無謀であると誰もが分かっていた。しかし、宿を手放すことを誰も強く提案しなかったのも事実だ。

 結局、近所に住む大叔父を新たに形だけのオーナーに据えて、俺が学校に通いながらアルバイトの体で手伝う、という営業形態に落ち着いた。


 繁忙期は近所のおばさん達や学生が短期アルバイトとして助っ人にやってくる。もちろん、繁忙期というのは男衆が騒ぐ時期全般に他ならないのだが。




 ──司は、悪くないよ。



 父の面布が外され、母が座る隣に置かれていたのを思い出す。

 モノクロームな部屋の中で、母は、父を見下ろしていた。

 静かに横たわり二度と目を覚まさない父を見下ろしながら、俺に語り掛けた。



 ──司は、悪くない。



 もう一度、言い含めるように。



 ──悪くないから。だから、ちゃんと泣いていい。泣く権利はあるの。



 ──お願いだから……。




 でも、きっと、俺があの日出掛けなければ、父の異変にもすぐ気付けただろう。

 救急車を呼べていただろう。

 縁側に伏してピクリとも動かない父を前に、呆然とすることもなかったはずだ。

 

 だって、父の手から滑り落ちたタバコは、庭の土の上で燃え尽き、まだ半分も残っていたんだから。間に合ったはずだ。きっと。




 汗が顎から滴り落ちる。

 いつもは立ち止まることなんかしないのに、どうにも足が重くて走る気になれなかった。


 人生に選択肢は無限にあり、選ぶということは、他の選択肢を捨てるということに他ならない。



 だから俺は。





 俺は、あの日、父を捨てた。






 熱い。

 陽が照っている。

 目を眇めて、背を丸めた。

 ああ、朝がもう来てしまった。


 いっそこの光が身体を覆って全てを焼き尽くしてはくれないかと、切に願った。

 

 でも、もう俺はライターを持っていない。

 自らに火を放って燃え尽きて消え去ることさえできない。



 父の、マルボロの香りが懐かしい。






「おかえり」


 青年の真っ黒な目に、赤い光が散っている。

 熾火だ。


 口から細く吐き出された紫煙が、海風に乗って霧散する。昨日と同じように、彼は堤防の上にいた。しゃがみこんで海を眺めていたらしい。


 思わずシャツの前を握りこんだ。

 息が、苦しい。



「朝から走り込みとはストイックが過ぎねぇか。それとも、旅館の息子に必要な素養ってやつ?」


「……うちは民宿です」



 無意識に袖で額を拭った時、既に汗が乾いていることに気が付いた。

 可愛げも愛想もない俺の答えに別段気を悪くした様子もなく、向きを変えて堤防の上から俺を見下ろす形に座り直した。



「お前、これから学校?」


「昨日から夏休みに入りました」


「ふぅん」


 じゃあ付き合え。と有無を言わさない声で由成は笑った。どこに? と聞く前に、寝起きとは思えない明瞭な発音で続きを話し始める。



「この辺、コンビニとかねぇだろ?」


「ありますよ、歩いて三十分かかりますが」


「遠いんだよ。これだから田舎は。日用品とか売ってる商店とかねぇの」


「……この辺の人間は、大抵『スーパーウチミ』ってところに行きますけどね。ドラッグストアも中に入ってるので、日用品は大体揃うかと。あとで場所を教えます」


「案内しろよ。夏休みなら暇だろ」


「……」



 昨日から続く暴君ぶりに呆れ果てるも、俺は既に、「断る」を選べなくなってしまっていた。


 分かりました、と低く答えれば彼はまた堤防から飛び降りる。今度は手を貸さなかったが、由成は勝手に俺の肩を支えにして軽やかに着地した。触れた手が冷たいのか、走り込んでいた俺の身体が熱を発していたのか分からなかった。


 その手が肩から腕へとなぞるように滑り落ちる。

 肘まで捲っていた長袖の蟠った布の山をつい、と越え、できて間もない新しい痣に触れた。


 昨日、彼のライターが当たったところだ。



「悪い」


「や、……別に、」



 やけにしおらしい声で謝るものだから、調子が狂って口籠る。謝っているくせに、痣の上をなぞる指に徐々に力を込めてきやがる。



 ぐ、と筋肉組織ごと強く押し込まれると、中指が反射的に痙攣した。

 汚れでもあるまいに、押し込んだまま拭うように痣の上で指の腹が擦れる。

 

 鈍い痛みが由成の指を起点にして、波紋状に腕全体をゆっくり痺れさせていく。



 俺はどうして、この男の好きにさせているのだろう。

 小さく、しかし絶えず指先が震えているのを自覚した。

 


 突然、向こうの林で蝉が大きく鳴き始めた。

 お互いはっとして手を離す。

 何故か由成も困惑しているような表情で、自分の掌に視線を落としていた。



「……朝食はどうしますか。基本的に和食膳なんですが、今の時間ならパンも用意できますよ」



 この微妙な雰囲気を打破するべく、早口に捲し立てた。

 彼は視線を上げることはせず、携帯灰皿へタバコを捨てる。蓋を閉めたところから、煙がふつりと途切れていた。



「いや、朝食わねぇ派だから。コーヒーだけもらう」


「分かりました。でも、一応味噌汁とポタージュだけは準備しておきますので、先にそっちを胃に入れてからの方がいいですよ」


「そう気ぃ使わなくていいっての」


「気を使うというか、新美様はお客様ですし」



 由成は双眸をゆったりと細めて顔を近付けてきた。まだ何かするつもりか。

 寝癖ひとつ無い黒髪が鼻先を掠めて、首元に埋められる。


 タバコの香りに混じって、

 何かいい匂いが、

 多分男性用の香水か何かを、

 いや、彼の薄い体臭も混じっている。


 鼻腔から吸収される匂いに視界がぐわん、と揺れた。




 すん、と鼻が鳴った音がして初めて彼の意図が分かり、顔が真っ赤に染まった。


 この野郎。



「俺の飯の心配するよか、さっさと家帰って汗流してこい」

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