熾火の男

横嶌乙枯

第1話「ライター」



 小学校に上がる前の、幼い頃の話だ。親父から拝借してきたライターの焔先ひさきを足元の枯草に掠めさせると、予想を遥かに超えてすぐさま燃え上がった。その日は無風であったから良かったものの、使われなくなった漁師小屋の隣で遊んでいたものだから、軽いボヤ騒ぎとなった。


 まったく懲りればいいものを、それ以来、淡い火種を身体の奥底に宿したまま、今日まで生きてきた。火の魅力に取り憑かれたのだろう。




 ──だから、彼が現れた時も、熾火おきびに中てられたかの如く、燃え上がるような熱に身体が犯された。都会の洗練された空気の中で育てられた孤高じみた出で立ち、日に焼けた地元の男達とは同じ人間とは思えないほど白く、皮膚の下の血管さえ透けて見えそうなほど。ともすれば温室育ちの軟弱者と嗤われそうな姿であったのに、黒々と艶めく前髪から時折見えるその眼だけは煌々と光っている。


 よく見ると眼鏡の奥の瞳に、赤い色が本当に小さく散っていた。


 激しく燃え上がり、酸素を失くしてなお熱を発しているような、鮮烈な美しさを持った青年だった。


 夕立は止んでいる。

 燃える空が海に反射している光景を背に、彼は佇んでいた。





 ◇





 噎せるような葉の生々しい匂いが気化熱で巻き上げられ、日中熱されて雨で急激に冷やされたアスファルトが激しい夕立の名残を訴えてきた。

 ナイロン製のカバンについた水滴を袖で拭い、中の教科書が無事であることを祈った。明日から夏休みだというのに、本当にツいていない。体温で温められたぬるい雨水に浸された靴下が張り付く不快感。歩く度にぎゅぽ、と奇妙な音がスニーカーから聞こえ、一層気分を沈み込ませた。


 もう一度全身のポケットを探ってみる。幼い日に父親から拝借したままのライターは、やはり何度探しても無い。急な夕立に降られ慌てて家まで走ってきたものだから、その道中に落としてしまったのだろう。

 何てことはない、ただの百円ライターだ。透明な赤色のライター。コンビニに行けばまったく同じようなものがレジの横に並べられている。


 三年前に父が急死してからというもの、返すタイミングを失ったそれは図らずも形見となってしまった。ライターは棺桶に入れてはいけないのだと火葬場の人に釘を刺された所為だ。線香はそのライターの火で灯した。




 祖父の代から営んでいる民宿は、俺の家であり、バイト先でもあった。バブル期とか言われている景気の良かった時代、全国でホテルや旅館が乱立したらしい。祖父もその勢いに便乗して、屋敷の離れを民宿として改築したのが始まりだ。

 とは言っても、観光名所もなく遠出してまで見に来るものは何もない海辺の田舎町になかなか客は来なかった。


 沖合や遠洋から帰ってきたよそからの漁師達を酒でもてなし、広間に雑魚寝しているのを起こさないよう転がった瓶を片付けたり、二日酔いの男達に水やら味噌汁やらを炊き出しの如く配ったりと、そういったことならよくあったが、今では彼らも姿を見せない。




 それから、家族連れやカップル、友人同士に紛れてやってくる一人客は、大抵何をするでもなく部屋の中から海を眺める人が多かった。

 そういう時、母は決まって俺をけしかけて「お茶はいかがですか」だとか、「今から夕食を作りますがお嫌いなものはありませんか」だの聞きに行けとつついた。しぶしぶ行ったところで、大抵は気分を害されたとでもいうようににべもなく追い返されたものだ。


 客が宿を去る時、母はその背中を呼び止めてアルミホイルに包まれたおにぎりを二つ手渡し、肩を両手で掴んで何事かを小さく囁いた。客は大きく目を見開き、言いづらそうに何事か答え、踵を返して二度と姿を見せなかった。


 彼らは単身で、海以外は何もないこの場所へやってきた。今思えば、自殺志願者だったのかもしれない。母は、客室で死なれては敵わないとしつこいほどに俺をけしかけ、チェックアウトの時におにぎりを必ず渡していたのだ。かすかな希望とエールを込めて。


 自殺を諦めさせるほどその努力が結実したのかは、最期まで分からなかった。





 ◇





 道路を挟んだ堤防に立つ長身の男を見た。先立って降った雨で濡れたコンクリの上に、長い脚を肩幅に開いて立ち、海を眺めている。懐かしい匂いがした。青年が口から離した手にはタバコがあり、海風に乗って紫煙がたなびき、消えていく。


 燃えていると形容するのが正しい真っ赤な空を、水平線に溶けていく西日を全身に浴びている。声は掛けられなかった。波の音さえ聞こえなかった。


 息苦しさは、夕立の後の噎せ返るような湿気の所為だと自分に言い聞かせた。


 キン、キン、と不思議な音がする。青年が手慰みにジッポライターの蓋を弾いて開け閉めしているのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。


 彼は振り返り、俺を見下ろしてくる。



「何、」


「……いいえ、あの」



 ぶっきらぼうな物言いをされることには慣れているが、彼の声音には他人と関わり合いになりたくないというよりも、むしろ敵意のようなものさえ滲んでいるような気がして、思わず口籠った。



「そこはさっきの雨で濡れているから滑って危ないよ。もうすぐ暗くなるし降りたらどうですか」


「親切心?」


「というか、多分正論です」


「……違いない」



 何がおかしいのか青年は笑いを嚙み殺し、軽やかに堤防の上から飛び降りる。

 咄嗟に両手を広げて着地地点まで駆けると、彼は片手だけ俺の腕の助けを借りて安全に道路へ降り立った。掌と腕の間に、さっきのジッポライターが挟まっていて、軽くとはいえ金属の塊を叩き付けられた痛みに眉を顰めた。



「悪い、痛かったな」


「平気です」


「この辺のガキか?」


「……」



 その物言いで、彼が余所者であることを知り、そして恐らく母が言っていた今日から長期で予約を入れている客だというのを悟った。

 また単身の客か。もっとも、こいつは死ぬ気などさらさらなさそうだ。ただ単に嫌な客なんだろうな。


 パッと手を離すとさっさと道路の向かい側へと戻り、家である民宿の引き戸をガラガラと開ける。既に玄関とフロントの明かりは点いていたから、先ほどチェックインを済ませたのだろう。



「何だ、ここの息子だったのか」


「どうも。邪魔しませんのでごゆっくりお寛ぎください」


「連れないね、お前」



 形だけの会釈をして室内へ入ろうとしたが、スニーカーも靴も濡れていることを思い出して溜息を吐き、裏口へと回った。彼の横を通り過ぎる時にまた紫煙が香る。


 彼の胸ポケットに入ったものを見て、合点がいった。青年は父と同じ銘柄を吸っていた。





 ◇





「司、これ持ってって」


 夕飯の膳から湯気が立っている。母は割烹着を脱ぎながら俺にそう指示すると録り溜めていたドラマの消化に勤しむためにさっさと母屋へ戻った。夜中の交代の時間まで戻っては来ない。


 袖を捲ると、やはりライターが当たったところが痣になっていた。

 あの客の態度を思い出してじわじわと嫌気が脳を支配する。足が完全に萎えてしまう前に、その膳を持って二階の客室へ向かった。


 うちは海に面していることを売りにしている宿ではあるものの、彼が泊まっている部屋は西日が直接射し込んでくる。母はしきりに、「一日二日程度なら夕陽も良い思い出でしょうが、それ以上となると眩しくてうんざりしますよ。別のお部屋にしてはいかがです」と説得したが、何故か聞き入れなかったらしい。意固地で変な客だ。


 彼は窓の桟に腰掛けてまたタバコを吹かしていた。嫌味なほどに画になる。

 挨拶もそこそこに膳を部屋の中央に置き、座布団を軽く叩いて膨らませて敷いてやれば俺の仕事は終わりだ。



「お食事がお済みになりましたら、膳は部屋の外へ出しておいてください。お風呂は階段を下りて左奥。布団はご自分で用意されると聞いておりますので、そのようになさってください。三日に一度、布団やシーツを洗濯してお部屋の掃除をいたしますので、その際は外出していただけると助かります。それじゃ」



 口に慣れ親しんだ案内口上を述べてさっさと立ち去ろうとしたが、青年がこちらを振り向いて仕草で制止を掛けてくる。電灯の下で見ても、相当整っている顔の造りをしているのが分かった。

 そういえば彼は眼鏡をしていない。机の上をちらりと盗み見ると、度の入っていない黒縁の眼鏡が置かれていた。伊達だったらしい。



「食べ終わるまでそこにいろ」



 傍若無人な要求に形だけの笑顔を完全に消し去るも、別に「今すぐ伝説の魚と、アワビ・ホタテ・サザエのバーベキューを用意しなきゃ許さないぞ」だとか無茶ぶりをされているわけではない。


 小さい民宿だ。できるだけ客の要求には応えることでリピーターを増やすことだけが生存戦略だ。そう自分に言い聞かせると、襖に程近い、彼から離れたところに正座した。


 食べる所作は美しい。その箸使いが、彼がいかに厳格な家で育ったのかを物語っていた。時折「この料理は?」「この魚は?」と質問されるので、その度に皿の説明をした。


 切り込みを入れた身がふっくらと割れているメバルの煮付け。焼物は甘鯛を使い、すだちを添えた。骨まで柔らかい鱚は天ぷらと、刺身盛りの中にも。手作り豆腐は練りごまのタレを掛けて香り高く仕上げている。小鉢は地の物を使い三皿ほど。特産の果物で作ったムースとゼリーの二層で構成されたデザート。


 女将である母が腕によりをかけて作ったうちの宿で最も高級な膳だった。この男はよっぽど上客らしい。



「美味いよ。お前らは食べ慣れてるだろうけど」


「いや、勿論食べている食材は一緒ですけれど、ここまで手の込んだものは客にしか出しませんよ」



 素材が良ければ何でも美味い、と余所者は決まってそう言うが、地元の人間は祝い事の席でしか凝ったものを食べない。普段は質素で、なおかつジャンクだ。そう暗に伝えると青年は手招きをした。



「じゃあ、お前も食えば」


「御冗談を」


「いいから」



 有無を言わさない声音に抗えず、母に怒られることを覚悟しながら膝でにじり寄る。俺の口元に、甘鯛のほぐし身を載せた箸先が近付けられ、意を決してぱくり、と口に含んだ。焼いてなお弾力のある白身は、噛み締めるほどに甘い。客がいないときは野菜炒めなんかで済ます母親が本気を出せば、こういうのを容易く作ってしまうのだ。



「美味いだろ」


「……はい、」



 咀嚼する様子を見られるのが気恥ずかしく、最低限の返事を返しながらもぐもぐと口を動かす。

 青年は小鳥を餌付けしているかのような心持ちなのか、箸に次の皿のものを載せて俺の口が空くのを待っている。流石に固辞しようとしたが、唇に押し付けられると反射的に口を開けてしまう。彼はその様子を見て笑った。



「女将さんに美味かったって言っとけ。あと、量を減らしてくれて構わないとも。少食なんでな」


「かしこまりま、むぐ」


「ほら、桃美味いだろ。デザートも食え」



 玩ばれている。結局、膳の四分の一は俺が腹に収めてしまった。


 膳を片付ける時、青年が熱燗を望んだので台所で準備をし、再び部屋へと持っていく。甘鯛の皿だけ膳から取り出していた彼は、ライターの火でじり、じり、とヒレを炙っていた。猪口に温まった酒を注いで渡せば、その中に端の焦げたヒレを入れる。若そうに見えるのに、ヒレ酒とは渋いことをする。


 未だ彼の手の中にあるジッポライターも、その「渋い」趣味の一環に思えた。



「気になるか?」



 キン、とまたあの音がする。蓋を開閉しただけで、澄んだ音が室内に響いた。ともすれば、湿気が充満していた外で聞いた時よりも良い音で鳴っているような気もする。



「ジッポですね」


「Zippoだよ。金属製オイルライターを出してるブランド。まぁ有名だよな」



 彼はジッポ、ではなく、ジッポーと伸ばした。形状の名称ではなくブランド名だったのか、と自分の勘違いを密かに正されたがそれを口にするのは何だか悔しかったので、勿論存じていますよ、という表情で頷く。


 不意に、父の形見を失くしてしまったことを思い出した。赤い百円ライターの、安っぽいながら子供の掌に十分収まるあの小ささを懐かしく思った。右手がまだその感触を覚えている。俯きがちにその感覚を想起している俺に構わず、青年はジッポーを手に落としてきた。百円ライターの軽さに慣れた掌には、あまりに重い。右腕の痣が鈍く痛んだ。



「銀製のレギュラーってやつ。まぁ、定番中の定番だな」



 そんなに種類があるのだろうか。手の中でくるくると弄り、彼の真似をして蓋を親指で弾いて開けてみる。さほど良い音は鳴らなかったが、なるほど、小気味は良い。

 側面に筆記体で何か書いてあるのを見つけた。意味を聞くと、名前だという。



「ヨシナリ・ニイミ……」


「そう、新美由成。お前は?」


「……真壁、司です」


「これから一か月よろしくな、司」




 由成は、ぞっとするほど美しく笑う。

 酒に浸っているはずのヒレが、じり、と焦げる音がした。

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