霧の城

増田朋美

霧の城

ひな祭りの日だった。女の子なら、誰もが嬉しがる記念日だが、男性にとっては、縁もあまりなく、つまらない日だなと思われる日である。

さて、その日、蘭は、何故か広見公園に行っていた。しかもスケッチブックを持って。理由は簡単である。お客さんにシロツメクサを入れてほしいと言われたからである。いわゆる和彫りばかりしていた蘭は、シロツメクサなど彫った経験がなく、広見公園に生えていると聞かされて、写生に行ったのであった。シロツメクサは、公園の中にすぐ見つかったが、これを蘭が一生懸命、スケッチブックに描いていると。

「ごせいがでますね。」

いきなり声をかけられて、振り向くと、ジョチさんであった。

「お客さんに頼まれて、写生ですか?」

蘭は、答えたくなかったが、とりあえず、

「まあ、そんなところだな。」

といった。

「そうですか。蘭さんもいろんな人から頼まれるんですね。みなさん、大変な人ばかりでしょうけど、蘭さんが、彫ってあげることによって、皆さん、生きようとするんでしょう。まあ、頑張って、仕事をしてください。」

と、ジョチさんにそう言われるが、蘭はそういう言い方が嫌だった。何だかそう言われると、自分が相手にしているお客さんたちが、可哀想というか、なんだかバカにされているような気がした。

ちょうどその時。

「蘭さん、理事長さん!」

と、いきなり子供みたいな声がして、誰かと思って二人がその方を向くと、派手な着物に身を包んだ女性が、スケッチブックを持って立っていた。その隣には、左腕のない男性と、中年の女性が立っている。誰だと思ったら、小濱秀明、いまは前田秀明か、と、前田恵子さんが一緒にいた。恵子さんと、スケッチブックを持った女性は、親子と思われるくらい年が離れているように見えた。

「恵子さん、どうしたんですか?今頃は林檎畑では?」

蘭が思わず聞くと、 

「いえ、こちらの吉田曙子さんが、僕のところに絵を習いたいと、申し入れて来たものですからね。それで、月に一度、こちらで絵のレッスンをしてるんです。」

秀明は、にこやかに笑っていった。ということはつまり、恵子さんは、その手伝いだろう。

「ほら見てよ蘭ちゃん。曙子さんが描いた絵よ。あちらにあった、旧宅を描いてみたのよ。タイトルは霧の城。」

と、恵子さんに言われて彼女が得意げに見せた絵は、たしかに家を描いたものであるが、まるで幼稚園の子供が描いたような絵であった。

「ああ、お上手な絵ですね。ちゃんと家の形もしてますし、色使いも幻想的で素敵じゃないですか。きちんとした絵も素晴しいけど、こういうファンタジーアートというのもまた良いものです。」

ジョチさんはそう感想をいったが、蘭は、何を言ってよいかよくわからなかった。

「そうですね。僕はなんと感想を言っていいものか。」

蘭がそうとりあえず言うと、

「いやねえ蘭ちゃんは。せめてさあ、可愛い絵だとか、そういう感想くらい言って上げればいいのにい。」

と、恵子さんがそう言うので、蘭は困ってしまう。

「そんな困った顔しないで良いのよ。ただ、曙子さんが描いた絵なんだから、素直に褒めてあげればいいの。ほんと、曙子さんが、こうして絵を習いに来てくれなかったら、今頃彼女だって、どうなってたかわからないわよ。いくらご主人がいてくれるって言っても、それでは限界があるわ。彼女が、彼女自信が、そうして外へ出るきっかけを作らなくちゃ。それを小濱くんが作ってあげたんだから、こういうときは、うんと喜んで上げること、思いっきり彼女を応援してやることじゃないかしら。」

恵子さんは、まるで曙子さんの保護者の様に言った。

「恵子さん、変わりましたね。前に、製鉄所で働いていた頃よりも、ずっと明るくなりましたね。やっぱり、結婚されて、所帯を持ったほうが、あなたには、良かったということかな。」

ジョチさんが感心した様にそう言うと、恵子さんは、あら、やだわと照れくさそうな顔をした。

「いいえ、あたしはただ、小濱くんの応援をしてあげてるだけです。どうせあたしが、世の中に出ても、今まで食堂のおばちゃんをやるしか仕事ができなかったんだし。それではとても、あたしなんて役に立つことは無いわよ。だったら、画家として活動している小濱くんの応援役になったほうがいいと思ったのよ。」

恵子さんはそう言うが、それは、家の家計を、秀明にすべて委ねているということでもあった。でも、食堂のおばちゃんをできたんだから、それで仕事にありつけるのではないかと蘭はいいかけたが、ジョチさんに止められてしまった。そういうときに、仕事がどうのとか、家族がどうだから、自立しろとかそういう言葉は、曙子さんが傷ついてしまうというのだ。でも蘭は、それは必ず直面することでもあると言ったが、ジョチさんは、それでも行けないと言った。蘭は、嫌な気持ちになった。

「それで、製鉄所のみんなはどうしてる?水穂ちゃんは元気なの?」

恵子さんがそう言うと、ジョチさんが、

「ええ、皆さん変わりありません。水穂さんの方は、容態が芳しくありませんが、寝たり起きたりして、過ごしております。」

と答えた。

「そうなのね。せめて、好き嫌いなく、ちゃんと食べるように、水穂ちゃんには言っておいてね。あたしが食事を作るのは、もうなくなっちゃったけど、今でも、水穂ちゃんのことは、心配だわ。」

と、恵子さんがそう言うと、ジョチさんは、はい、彼に伝えておきますと、したり顔で言った。

「そんなことより、秀明さん。この絵のモデルになった家ですが、これは、どこかの家ですよね?ということは、誰かが住んでいることになる。ちゃんと、その家の住人んに絵を描かせてくれと、許可はもらったんですか?」

蘭は、嫌味と言うか、そういう気持ちで、秀明に言った。

「ええ、ちゃんと彼女が、絵を描きたいといったので、そのお宅に行きましたよ。この公園の近くにあるお宅です。ですが、もう空き家になっていました。」

と、秀明が答える。

「はあ。でも、それはちゃんと空き家になっていたのか、市役所とか、そういう人に調べてもらったんですか?」

蘭が急いでそう言うと、

「ええ。インターフォンを押しても出ませんでしたよ。だから、僕は、彼女に絵を描いてもいいかなって思ったんです。彼女は、絵を描きたくて、ウズウズしていたようでしたので。」

と秀明が答えた。

「そうですけど、それでもし、人が住んでいたら、勝手に絵を描いたということで、なにか、訴えられるかもしれません。それが嫌なら、ちゃんと住んでいる人に許可をもらうべきじゃないでしょうか。」

蘭がそう言うと、曙子さんがちょっと不安そうなかおをしたので、

「じゃあ、もう一度確かめに行きましょうか。もし、空き家になっていなかったら、家主さんに、謝ればいいし。まあ、悪事でつかったわけではないので、きっと許してくれますよ。」

「そうですね。僕も、その様にしたほうがいいと思います。彼女が、重い知的障害があることを言えば、わかってくれるでしょう。」

秀明とジョチさんは、そう言い合った。確かに、人の家を勝手に絵にして、作品として発表してしまうことは、ちょっと法律違反というか、そうなってしまう可能性も会った。

「歩いてすぐなんです。今から行きましょう。」

と、秀明が言ったので、一行は、その家に行くことにした。確かに、公園から歩いて五分もかからないところにある家だった。確かに一戸建ての家で、普通にどこにでもありそうな、一軒家だった。これがなんで霧の城となるのだか、蘭はよくわからないが、曙子さんには、なにかそういう意味を持つものが、浮かんでくるのだろう。表札には、佐藤と読めた。ということは、やっぱり、佐藤という人が、住んでいるんだろうと蘭は思った。

「すみません!佐藤さん。先程もお伺いしましたけど、お宅を絵にさせていただきました。勝手にしてしまってすみませんが、正式に、発表してもよろしいでしょうか?」

と、秀明がそう言ってインターフォンを押すが、やはり反応はない。

「おかしいなあ。なんで、反応が無いんだろう。」

と、秀明は、思わず、そのお宅のドアノブを握ってみた。

「あれ。開いてる?」

と、秀明は、思わず、家のドアを開けてしまう。

「佐藤さん!あの、佐藤さん!」

秀明は、家の中を覗いてみると、思わずわあと言ってしまった。それをみたジョチさんが、ちょっと失礼と言って、その中を覗いてみると、玄関ドアの前で中年の女性が倒れていた。ジョチさんが、その女性の体に触ってみると、もう冷たくなっていた。ジョチさんは、警察に通報するようにといった。恵子さんが、わかりましたと言って、急いでスマートフォンで電話し始めた。ジョチさんが、その家の廊下を見ると、もうひとり女性が倒れている。ジョチさんと秀明は、急いで中に入り、もう一人の女性にはまだ息があることを確認した。恵子さんが、急いで救急車を手配する。

まもなく、パトカーと救急車がやってきて、その家は、すごい騒ぎになってしまった。ジョチさんや秀明は、第一発見者として、警察からの質問にいくつか答えなければならなかったのでその場に残った。蘭は、曙子さんにこういうところを見せたくないという恵子さんの言葉に応じて、近くの喫茶店で待つことにした。曙子さんは、何が起きたか理解できなかったようで、喫茶店でいつもどおりピラフを食べて、絵の話ばかりしていた。好きな画家は彼女の話によると、ちょっと変わった絵を書いた、ブラマンクのようなものが好きだと言う。数時間かかって、ジョチさんと秀明が戻ってきた。全く、今日は、最悪ですね、なんて二人は言っていた。なんでも、警察は第一発見者に疑いを持ってしまうのはよくあることで、二人は結構ひどく詰問されてしまったらしい。なので、ひどく疲れていた様子だった。その日は、とりあえず、曙子さんを、連れて帰るということで、秀明と恵子さんは、彼女と一緒に、車で帰っていった。ジョチさんと蘭は、それではとだけ言って、その日はとりあえず別れた。

その翌日。製鉄所に、警視の華岡が訪ねてきた。

「ああー、疲れた疲れた。昨日の事件だが、妹の方は、一命はとりとめたぞ。姉の方は、傷が深くてだめだったけどね。」

と、華岡はジョチさんに言った。昨日の事件のことだとすぐわかったジョチさんは、

「はあ、それでは、あの二人の女性は姉妹だったんですか。」

とりあえず、そう言っておく。

「おう、身元もわかったぞ。えーと妹の方は、佐藤みゆき。そして、姉の方は、畑中ゆみえ。旧姓佐藤だ。」

と華岡が言うと、

「ああそうなんですか。お姉さんの方は、結婚されていたんですか。」

ジョチさんは、急いで答えた。

「それで、あの二人は、事件性はあったんですか?」

続けて華岡にそう言うと、

「いや、それは多分、姉の畑中ゆみえが、佐藤みゆきを刺して、ゆみえのほうが自殺を図ったと俺たちは見ている。ゆみえの近くに刺身包丁が落ちていた。それには、ゆみえの指紋しか検出されなかった。それに、ゆみえの体には、躊躇い傷があった。」

と、華岡は答えた。

「わかりました。ゆみえさんのほうは、自殺を完遂させたのですが、みゆきさんの方は、できなかったということでしょうかね。」

ジョチさんがそう言うと、それまで四畳半の布団で眠っていた水穂さんが目を覚ました。そして、縁側で話していた、ジョチさんと華岡に、

「佐藤みゆきさんというのは、あの、広見公園近くに住んでいた人ですか?」

と小さい声で聞いた。

「ええ、そうですが、どうしてそれをあなたが知っているんです?」

ジョチさんがそうきくと、

「はい。よく覚えてます。佐藤みゆきさんが、僕のところに、ならいに来たことがあるんです。その時はまだ、中学生で、お母さまと一緒に来ていました。その時、彼女の話から、お姉さんがいて、ゆみえさんという名前も聞かされました。」

と、水穂さんはそう答えた。

「そうですか、水穂さんのもとへ習いに来てたんですか。それでは、彼女たちも、心中を図る前は、一般的な学生だったんですね。」

ジョチさんがそう言うと、

「どんな学生だったのか、お前その当たり知っている?」

と、華岡が水穂さんに言った。

「ええ、普通の学生でしたよ。最も、僕は音楽学校に行くとか、コンクールに出るような人でないと、レッスンしていなかったので、あまり彼女のことは詳しく知りませんでしたが。ちなみに、公立の中学校に通われておられると言われました。お姉さんの方は、確か、大学をやめて働いているとか。」

「はあ、なるほどねえ。」

と、華岡は言った。

「それでは、佐藤みゆきが、発症するときは、畑中ゆみえは、結婚して別の家にいたのかなあ。」

華岡はまた腕組みをして考え込む。

「まあそのあたりは華岡さんのする仕事ですね。もうちょっと頑張って、捜査してください。被疑者が亡くなっているからと言って、手を抜いてはいけませんよ。警察は、二度と同じことを繰り返させないためにもあるんでしょうからね。」

と、ジョチさんに言われて、華岡ははいとしょんぼりして、頷いた。

一方その頃。蘭は、あの佐藤さんという家を、訪れていた。あの事件のことは、死体として発見された女性の名前など、テレビがうるさいくらい報道したため、なんとなくでも知っていた。蘭としては、亡くなったお姉さんの方にお悔やみをしたいものだった。妹さんも確かに可哀想でもあるが、お姉さんのほうは、出戻りしなければならなかったのだし、本当に可哀想だと蘭は思うのだ。

「ここで何をしているんですか?」

玄関先に花を置いた蘭は、いきなり声をかけられて、後ろを振り向いた。そこにいたのはジョチさんこと曾我正輝であった。

「お前こそここで何をしているんだ?」

蘭は、ジョチさんに聞くと、

「はい。僕は、この家の名義人変更の手続きを代行しています。とりあえず、この家の世帯主さんは、佐藤みゆきさんと、畑中ゆみえさんのご両親ということになっていましたが、今ご両親は等に他界されて、生存者は佐藤みゆきさんだけなので。」

と、ジョチさんは言った。

「お前は、また、そうやって人の生活に手を出して、それで善人ぶった顔をしているんだな。」

と蘭は、嫌味を言った。

「そうかも知れませんが、いずれにしても佐藤みゆきさんが、良くなってこっちへ帰ってきたら、まず、住む家がなければ困るでしょう。そのために、この家を保持して置かなければなりませんよね。また収入が無いと困りますから、生活保護の手続きもしなければなりませよね。まあ、そういう事もやっておこうと思ってます。もし、彼女が思想的におかしなところがあったら、彼女を再度教育するところも必要でしょうから、そちらにも問い合わせておこうかと。」

「お前は、地位があって、財力もあって、すぐに人になにかしてやることで、自分の地位を更にあげようと思っているんだろうがな。そんなものは、偉いやつがする自己愛だ。人には何もためにならない。そんな事したって。」

ジョチさんの話に、蘭は、すぐそういった。

「そうですが、誰かが何をしなければ、何もできませんよ。まして、ああいう病気を持っている女性はただでさえ、誰かが一緒にいなければなりませんね。あの佐藤みゆきさんは、ピアノで大学を目指していたようですが、入試に失敗していらい、家から出ることができなくなってしまったようです。それで、ご両親が彼女を世話していましたが、最近になってふたりとも亡くなっており、それに逆上したお姉さんの、畑中ゆみえさんが、口論の挙げ句に彼女を刺した。それが警察が出した結論だそうです。まあ、警察はそこまでですよね。」

蘭は、事件の概要は報道で知っていた。でも自分がしたいことは、被害者である佐藤みゆきさんのことではなかった。お姉さんの佐藤ゆみえさんが、みゆきさんのために、離婚されて、強制的にみゆきさんの世話をしなければならないというのが、悲しかったのだ。

「とりあえず、佐藤みゆきさんが、意識を回復したら、色々手続きとかしようと思います。まあ、結果は最悪の結果でしたけど、僕達は、生きていかなきゃいけないことも伝えないとね。それは、お姉さんからの、メッセージかも知れませんよ。」

「そうか、僕にはただ、彼女を救うことで、お前が知名度をあげて、議員として当選したいという、気持ちしか見えない。」

蘭は、ジョチさんに言った。蘭にとって、ジョチさんという人は、そういう人にしか見えなかった。確かに、地盤も看板も、カバンもある、そういう人だけど、なんだか彼のような人が、人助けをするのは、嫌な気持ちがしてしまうのだった。

「そうならそう思ってくださって結構です。僕は別に、国会議員になりたいという気持ちは持っていません。ですが、彼女には、誰かが手を出してあげないとだめなんですよ。もしかしたら、あの事件があって良かったと思いませんか?あの事件で、彼女はそういう福祉などにやっと触れられたのかもしれませんよ。もし、本当に死んでいたら、そうすることはできませんでしょうからね。それで良かったと思ってください。」

「お前がしていることは、ただ、お前の知名度をあげたいだけじゃないか。もし、お前がそうしたいんだったら、お姉さんの、畑中ゆみえさんの方を助けるべきだったのではないか?あのときの、恵子さんの話をお前も一緒に聞いたじゃないか。恵子さんは、秀明くんのそばにずっと着いていると言ったんだぞ。きっと、自分の人生を捨てて、そうするつもりなんだろう。お前もさ、偉くなりたいんだったら、そっちの方をなんとかしてやることを、考えるべきではなかったの?」

蘭は、ジョチさんに言ったが、ジョチさんは平気な顔をして、

「ですが、死んだ人間をどうのこうのよりも、生きている人間を何とかするほうが、先ではありませんか?」

と蘭に聞いた。蘭は、

「そうだねえ、、、。」

と、口をつぐんでしまった。そして、目の前にある、一戸建ての家をじっと見た。なんだか、霧の城は、霧が晴れなかったほうが、良かったのではないか。でも、霧はいつかは晴れてしまうものなのである。

蘭は、霧の城の玄関先に花を置いた。ジョチさんは、持ってきた塔婆を隣に置いた。

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霧の城 増田朋美 @masubuchi4996

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