第12話、おまけへの応援コメント
第7話から第12話の感想。
様々な迂回路を経て「詩」を論じようとしたこの文章は、様々な論理で外堀を埋めることによって、「この外堀に囲われた《何か》こそが詩だ!」と、否定神学的に到達しているようにも読めます。
詩という捉え難い概念に対して勇気をもって挑んだ、しかし決して蛮勇ではない、そういう詩論だと私は思います。
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気に入ったフレーズひとつ。第9話の、
『私は「共同体の意識の高揚」が鍵であると考えています』
これは私も同感です。実際、戦時下の日本において小説家の多くは沈黙し、詩人の多くは戦争気分の高揚のために駆り出され、それに合わせた詩を書きました(なので批評空間系の知識人のなかには、「詩的戦争はエモに流れて戦争を励ますから駄目で、エモに流れない散文精神が、てゆーか小説だけが偉い」って言う批評家が多かったんですよねえ)
私はこのフレーズを呼んで、うお、やっぱりそうなのか? という気持ちになりました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「詩という捉え難い概念に対して勇気をもって挑んだ、しかし決して蛮勇ではない、そういう詩論だと私は思います」
そう仰っていただけただけで、この詩論も報われたように感じます。籠原さんの「迂回路」の比喩、本当にその通りだなあ、と思いました。この詩論に基づいて詩を定義しようとすると、やたらごちゃごちゃした定義になってしまうんですが、「詩」の巨大さ多様さを考えるとこれでもまだ足りないくらいでしょうから。
「それに合わせた詩を」
そうですね。
日本の詩人たちには叙事詩のノウハウがなかったため、抒情詩の技術を無理やり応用して書いた感じではあるのですが、そういった叙事詩的な目的の下に詩を書くことが求められたそうです。
それにしても、小説家のほうはそんな感じになっていたんですね。そして、批評家にはそう捉える方々が多かったんですか。知りませんでした。
当時の日本の詩壇は象徴主義や浪漫主義が中々の勢力を誇っていましたから、そういった非合理主義的な「エモ」を担わされがちだったのかも知れませんね。戦後から今日までに至る一部の詩の「分かりにくい」傾向も、そういった批評に対する回答を真正面からしようとした結果なのかもしれないな、と感じました。
第6話、イメージに関わる「あや」への応援コメント
和語、漢語、西洋語(英語や仏語)、さらには和製英語などなど。日本語の多様性もまた詩に活きていくのですね。おもしろい!
作者からの返信
コメントありがとうございます!
そうですね。ヨーロッパの詩ではラテン語由来の語とゲルマン語由来の語を使い分ける修辞が用いられるんですが、日本語の場合、和漢欧の三つが色濃く揃っているので、もっと複雑なことができそうで、夢が広がります。
第6話、イメージに関わる「あや」への応援コメント
暗闇のなかを懐中電灯片手にゆっくりと歩いていくような、そんな丁寧な勇気に満ちた詩論だと思います。
第1話で「詩とはなにか」という問題を掲げますが、すぐに「詩の定義の難しさ」を認めます。
そして第2話以降では、詩に含まれる要素、もしくは詩で使われるテクニックを論じることで、言わば外堀を埋めるように《詩》というものの正体を突き止めていくかのようです。
「詩とはなにか」という回答困難な問題に対して、「詩と呼ばれる作品にはどのような要素が技法があるのか」という迂回路から真理を導き出そうとすること。
私は実は詩がメチャクチャ苦手なので、単純に知識の面でも勉強になっているのですが、それ以上のなにかがこの詩論にはあると感じました。続きも応援しています。
作者からの返信
おしゃれな上に読みの深い応援コメント、ありがとうございます。
私自身、この詩論を書きながら「あれ……これってこういうことじゃん!」と気付くことが多いんですよね。「詩って何?」「韻律を持つ文学作品、または……」「じゃあ韻律って何?」って風に掘り出しながら書いているので。
この詩論の方法というか、目的のひとつとして「詩を分析し、分析したものを総合すること」があります。それは多分、籠原さんがおっしゃる「《詩》というものの正体を突き止め」ることと同義なんですよね。
この暗い迂回路が現状私が辿れる最短ルートと思うと、途方に暮れそうになると同時に、どこかワクワクするものがあります。
「それ以上のなにかがこの詩論にはある」、そう感じてくださったのなら、この詩論が果たすべきことのうち幾つかは果たせているのでしょう。もっと、もっと詩の奥底を探っていけたらと思っています。
応援コメントを読んで、今まで言語化できなかったものが頭の中でまとまったように感じます。ありがとうございました。
編集済
第1話、詩とはへの応援コメント
ケアレスミスとして、注5が二回続いて現れていますよ。
詩論を書こうとツイッターでおっしゃていた時から注目して待っていました。詩に私は特別疎いものですから。自分でも詩集を読んで見る処から始めらば良いものの、積読から消化していくといつまでも詩を読むことが出来ずにいたのが現状でして。
私にとって詩の概念はこちらでも書かれてある様に、韻律に則ったものという印象が強かったです――それが全てではないことも認識してますが――。
もうひとつの詩の印象というのが、短文がいくつも行替えして現れているもの、です。小説なんかだと文字がコンパクトに詰まっているのと対照的に、詩は短文が横に広がっている。表現が難しいのですが、伝わっていますかね? 「文学作品のうち、韻律を持つもの」との定義を見たとき、韻律を持って小説的に物語を書いて十万文字に仕上げても、それは詩に分類されることになると思うのですが、それも詩なのだ、ということでいいのでしょうか?
作者からの返信
わあ、ありがとうございます! 訂正してきました。感謝申し上げます。
待っててくださって嬉しいです。
詩は、本を読む息抜きに詩集をパラパラめくって適当なページを何も考えずに音読するのも一つの楽しみ方です。気が向かれた時に、いかがでしょうか。
「短文がいくつも行替えして現れているもの」 はい。何となくニュアンスは伝わってると思います。アレですね。
「それも詩なのだ、ということでいいのでしょうか」 はい。その通りです。韻律を持った十万字の小説は「物語詩」に分類できると思います。ただ、私はそれ以上に詩と小説と言うのは矛盾していないものだと考えているんですね。そういったものを書いて「小説詩」と名乗るのも可能なわけです。
第12話、おまけへの応援コメント
完走お疲れ様でした。
とってもとってもとっても勉強に
なりました。ありがとうございます。
具体的にどの知識がどのように今後に活かされるかは未定です。とても一読しただけでは詩論は手に入らないものだということがよくわかりました。
なんべんも読み返させて頂きます。
詩論を読んでいますと、藤田さんの小説論にも興味が湧きます。詩論から見える小説論などはあるのでしょうか?
作者からの返信
こちらこそ、ありがとうございます。
そう仰っていただけると嬉しいです。
数年間こつこつ詩について調べたり試してきたのをまとめた詩論ですから、中々の密度の詩論になったと自負しています。
ぜひじゃんじゃん読み返してください。
小説論ですか……。
ざっくり言うならば、小説は詩にも負けず劣らずごちゃごちゃしたジャンルだと思ってますので、大事なのは「目的を見失わないこと」だと思っています。
その時エンタメ的に面白い小説を書く必要があるのならそう書くべきでしょうし、まるで曼荼羅のような情報の濁流をぶつける必要がある時はその通りに。
そしてそれらを実現するためのノウハウを積んでいく。
根本的には、詩と小説でやるべきことは似ているのではないでしょうか。
とは言っても、私は小説についてはあんまり詳しくないので、抽象的なことしか言えないのですがね。