アイちゃんのこと

蕃茉莉

アイちゃんのこと

 アイちゃんは、知的障害の女の子。一時間に一本しかないローカル線で、施設に通っています。

 朝の電車に座る席は、みんななんとなくいつも同じ。アイちゃんも、いつものドアから入ってくると、空いていればだいたいドア横の席に座ります。

 席に座ると、アイちゃんは携帯電話を取り出します。そして、ちいさな声で、

「はいもしもし。うん、今乗った。うん、うん、ありがとう。じゃあね」

 と話して、二つ折りの電話をぱたん、と閉じ、うっとりと電話に貼られたプリクラを見つめます。

 つながっていない電話の相手は、アイちゃんの大好きなアイドル。アイちゃんは、いつだって彼と一緒です。


 三月最初の金曜日。アイちゃんはいつもと同じドアから電車に乗ってきました。いつもの席にはおじいさんが座っていたので、アイちゃんは隣のボックス席に座っていた私の向かいに腰をおろしました。席に座ると、いつものように携帯電話を取り出して、

「はい、うん。今乗ったところだよ」

 と大好きな彼に報告して、ぱたん、と電話を閉じてカバンにしまうと、嬉しそうに窓の外を見ていました。日差しは少しずつ春の気配に変わって、杉の木が茶色くなりはじめています。やがて電車が不器用に減速して、車掌さんが停車駅の名前を告げました。ドアが開き、最初に乗ってきた二人連れの女子高生がアイちゃんを見て、

「おはよう、アイちゃん」

 と声をかけました。

「おはよう」

 と、アイちゃんもにっこり笑いました。

 通路側の席に向い合せで座った女の子たちは、おそろいのカバンから教科書とノートを取り出しながら、

「アイちゃん、彼氏の写真は?」

 と聞きました。

「あー、忘れちゃった」

「ほんとはいないんでしょ?」

 女の子たちは、明るい声でアイちゃんをからかいます。

「いるよ」

「彼氏じゃないんでしょ?」

「ほんとは持ってないんでしょ?」

 突然、アイちゃんが携帯電話を取り出しました。

「はい、もしもし」

「また始まった」

 女の子たちは、くすくす笑いながら教科書を開き、勉強を始めました。アイちゃんは窓の外を見たまま話し続けています。

「ほんとに話してるみたい」

「うまいよね」

 やがて、話し続けるアイちゃんの声が、次第に大きくなりました。

「アイちゃん、うるさい」

 隣に座っていた女の子が注意しましたが、アイちゃんはいつもにない大きな声で話し続けます。

「ううん。大丈夫。うん」

 ついに女の子が携帯電話を取り上げて、自分の耳に当てました。

「つながってないじゃん」

 アイちゃんはその電話を取り返し、なおも必死で話し続けます。女の子たちはあきらめて、自分の勉強に集中することにしたようでした。

 電車がふたたび減速し、次の駅にとまると、アイちゃんは逃げるように立ち上がり、ふたりの膝を太い足でかきわけてドアに向かいました。

「アイちゃん、ばいばい」

 女の子たちが言いましたが、アイちゃんは振り向きませんでした。

 ざわざわと人が降りて、乗って、ドアが閉まり、電車がふたたびゆっくりと動き出します。アイちゃんの声が聞こえなくなった車内は、急に静かになったようでした。

「ばいばい言わなかったの初めてだね」

「うん」

 女の子たちは、それきり黙って宿題を続けました。電車は次第に速度を上げます。がたごと揺れる席で教科書に向かっていた女の子のペンが、次第に止まりがちになりました。やがてすっかり動かなくなると、女の子は顔をあげてため息をつきました。

「あたし、なんでこんなにアイちゃんのこと考えてるんだろう」

「うん」

 女の子は、泣きそうな顔でアイちゃんが座っていた席のむこうの車窓に目を向けました。

 頬の産毛に、朝日がきらきら光ります。

 私は、女の子たちを抱きしめたいと思いました。


 翌週から三年生は休みに入り、女の子たちの姿を見ることはなくなりました。アイちゃんは相変わらず同じドアから乗って、席に座ると彼氏と短い通話をかわしています。


 秋の終わり。私は珍しく帰りの電車でアイちゃんと一緒になりました。

 アイちゃんは、私が向かいに座ったのも気づかない様子で、彼氏の新しい生写真を、それはそれは嬉しそうに、ずっと見ていました。


 アイちゃんの思いは、きっと彼氏に降り注ぎ、彼をますますキラキラと輝かせるのだと思います。そして、キラキラと輝くアイドルは、ますますアイちゃんを幸せにするのだろうと思います。


 みんなが幸せでありますように。

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アイちゃんのこと 蕃茉莉 @sottovoce-nikko

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