第30話 もう一度会えますように 捌

 めいが家族になってから、私の人生は急に慌ただしくなった。


 めいは泣き虫だった。どんな時間も、何をしても、ふとしたタイミングでたくさん泣いていた。


 そんなに泣けるものなのかと心底驚かされたけど、不快感は全く感じなかった。


 めいの泣き顔と声は暖かく感じた。


 私の肌と髪はボロボロになったし、睡眠時間も生活習慣も不安定だったけど、私の心は常に満たされていた。


 めいが私の手を掴んだ時、私の腕の中で眠った時、寝起きで泣き出した時、ぼーっと天井を見上げている時。


 些細な時に私はめいを見て涙が流れた。


 その涙は胸の中からじんわりと湧き上がるような、穏やかな涙だった。


 初めて嬉し涙を知った。


 めいはたくさんのことを教えてくれた。


 私はめいの反応と思っていることを知りたくて、元気に育ってほしくて、たくさんの育児本を買った。


 初めて必死に勉強した。


 でも、どれだけ勉強して覚悟していても、めいが体調を崩した時には我を失って、パニックになった。


 めいが死んでしまうと、何度思っただろう。


 病院で何度も涙を流した。


 私も泣き虫になった。


 私は良い母親では無かったと思う。


 おむつを替えるのに慣れるのも遅かったし、寝かしつけるのも下手だった。


 そのたびに申し訳ない気持ちでいっぱいになったけど、翌朝元気に泣いてくれるめいをみて励まされた。


 そんな情けない育児だったけど、めいは元気に成長してくれた。


 私は頻繁に病院に行っていたけど、先生に元気に育っている、丈夫な子だと言われてからはそれも少なくなった。


 体の丈夫さは私の唯一の特徴だったから、それがめいの役に立っているのだと思って嬉しかった。


 私は自分の時間の全てをめいに注いでいた。


 そして、いつからか彼が変わっていった。


 めいが生まれてから、彼は家に帰るのがドンドン遅くなった。


 仕事が忙しいと言われれば、そうなのかと納得していた。


 私は昔使っていた自分の口座に、余分に引き出した生活費を貯金するようになった。


 それを始めたのは何となくだったけど、間違ったことをしているとは全く思わなかった。


 彼があまり目を合わせなくなったことに私は気付いた。


 彼の心が私から離れて行っていることを感じていた。


 私はそのことを何の抵抗もなく受け入れていた。


 たしかに、悲しいとも寂しいとも思ったけれど、苦しくなることは無かった。


 それ以上に、彼がいなくなった後でもめいをきちんと守ってあげられるかが不安だった。


 めいが一人で立てるようになったころ。


 彼が家に帰らないことが増えた。


 私は他に彼が拠り所を見つけていることに気付いていた。


 そして、自分の口座に貯金する金額を増やし、様々な契約を見直した。


 そう遠くない未来に、彼がいなくなっても私とめいが生きていけるように、静かに準備をしていた。


 我ながら、自分は冷たい人間だと思ったけれど、それで自己嫌悪に陥ることは無かった。


 何より、めいを守らなくてはという思いが強かった。


 めいの1歳の誕生日、彼は家に帰ってこなかった。


 私はめいの誕生日が近づいても、彼に何も言わなかったし、彼は何も聞いてこなかった。


 彼はめいの誕生日を忘れていた。


 私はそのことが許せなかった。


 ドキドキして、考えがまとまらなくて、無性に叫びたくなって、全身に力が入った。


 私は他人に対して初めて怒りを抱いた。


 でも、それを表に出すことは無かった。


 普通の自分を演じ続け、彼は私の怒りに気付かなかった。


 ただ静かにその時を待った。


 それから半年もしないうちに、彼は私に離婚届を渡してきた。


 彼は憔悴したような表情をしていたし、申し訳ないとも言っていた。


 彼は本心のつもりだったのだろうけど、それが自己弁護のためにしている、彼の弱さだということが分かっていた。


 それが分かるくらいには長い付き合いだったんだと、少しだけ寂しくなった。


 でも離婚届に私は淀みなく名前を書き入れた。


 これからは、私が自分だけでめいを育てていくんだと、改めて決意が出来た。


 彼が自分の荷物を持って出て行った。


 彼の存在が消えた部屋を見て、一筋涙がこぼれた。


 でも、それだけだった。


 職場に連絡して、二週間後から再び働き始めることになった。


 いくつもの保育園に連絡をとって途中入園させてもらえる園を見つけた。


 めいと過ごす時間が少なくなることを考えると、どうしようもないほど心が締め付けられた。


 自分が小さかったころ、父親が仕事に呑まれて私から離れていったことが思い出された。


 自分もそうなっていくことが怖かった。


 1人で暮らしていた時は働くことに恐怖なんて感じたことは無かったのに。


 めいに寂しい思いを、怖い思いをさせるんじゃないかと、不安で仕方なかった。


 だけど、めいには幸せになって欲しいから。


 その思いだけで私は頑張れた。


 再び始めた仕事は昔と比べてかなりきつく感じた。


 体力が落ちていたのもあるが、育児と両立する時間が少なかった。


 そんな中、必死に過ごしているとめいが言葉を話すようになった。


 一歳になっていたから、そろそろだと思っていたのだけど、帰りの車でママと言われた時は車を駐車場に停めてママをもう一度聞こうとして、帰宅するのが1時間も遅くなってしまった。


 初めての言葉は遅い方だったが、一度言葉を話すようになってからはどんどん話すようになっていった。


 保育園の先生からの報告で、あまり泣かなくて、きちんと言葉にするえらい子だと教えてもらった。


 めいはもしかしたらすごく賢い子なのかもしれないと思って、まだ先の話なのに市立中学校や高校を調べ、奨学金の制度についても勉強を始めた。


 めいの成長と将来を考えるだけでどんな疲れも吹き飛ばされた。


 私がめいを守らなくてはいけないのに、私がめいに励まされていた。


 三歳の誕生日には図鑑で動物と花のページをよく私に見せてくれていたから、動植物園に連れて行った。


 ずっとキョロキョロしていた。


 保育園の運動会では、入場の時に誰より胸を張って歩いてくる姿を見て思わず吹き出してしまった。


 お遊戯会での発表時には緑色のヒラヒラした衣装を着ていて、誰かにいじめられないか不安になる程可愛かった。


 めいは私の不安を全部打ち消すくらいにすくすくと成長してくれた。


 そして、あっという間に小学生になった。


 めいはとても色に敏感で、1日かけて優しいピンク色のランドセルを選んだ。


 お気に入りのランドセルを自分の布団の枕元に置いて寝ているめいの写真は、私の宝物だ。


 仕事は大変だったけど、若くて安定した出勤日数が評価されて私は一つ昇進していた。


 送り迎えが不要になった私は、前から話を貰っていた隣町の工場に地下鉄で勤務することになった。


 他の家庭に比べると貧乏だっただろうし、めいに我慢させることも多かった。


 でも、めいはたくさん笑ってくれた。


 全てが順調で、今が、そしてこれからが幸せだった。


「めいー、お母さん仕事行くからねー!」

「んー、まってー」


 遠くから寝ぼけためいのゆっくりとした声が聞こえてくる。


 朝ご飯をのんびり食べていためいが、リビングから玄関まで見送りに来てくれた。


 めいはいつも行ってらっしゃいを言ってくれる。


 今日は少し寝坊していたからか、いつもより眠そうで、右手に箸を握ったままだ。


「家を出るときは鍵をしっかり閉めて、車に気をつけてね」

「うん、わかってるー」

「迎えに行くまで、みんなと仲良くね」

「はーい」


 こくこくと頷いているけど、その目はあまり開いていない。


 出来れば朝一緒に家を出たいのだけど、私に合わせたら1時間以上めいの睡眠時間を削ってしまう。


 一抹の寂しさを感じるが、のんびりもしてられない。もうすぐバスが来てしまう。


 今日も早く、迎えに行こう。


「じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」


 ほんわかと笑うめいに見送られて私はいつも通り家を出た。



 これが私の最後のめいの記憶だ。




 ドゴゴゴゴゴゴgゴゴゴggゴgゴgggggっごおおおおおおおおおお



 経験したことの無い、何もかもが壊れていくような音がする。


 同時に、平衡感覚も、視界も、痛みも、何もかもがごちゃ混ぜになるような振動が地下を駆け巡る。


「うわあああああああああああ!?」

[きゃああ,あああ、ああああ」

「ああああaaaaaaaooooo-]


 地震か、爆弾か、それ以外か、何が起こっているのかさっぱりわからない。


 ただ、響く悲鳴と轟く爆発音で耳の内側から心を引き裂かれていく。


 地下鉄のホームの電灯は全て消え、暗闇が視界に広がる。



 死ぬ。



 本能的に頭に両手を乗せながら、その単語だけが辛うじて理性的に発せられる。


 そして、理性の外で、心の中から一番大切な人が滲み出る。


「………めいッ!!」


 何よりも大切な、最愛の娘の笑顔を幻視して、最後かもしれない名前を叫ぶ。


 それを最後に私の意識はプツリと途切れた。














「―――っ」


 わたしは目をさます。


 あたりは暗い。


 ふらふらする足でゆっくり歩き出す。


 どんと、何かにぶつかって転んでしまった。


「…えっ?」


 私がつまずいたのは横たわっていた人間だった。


 私にけられたというのに、起き上がるそぶりはない。



 しんでる?



「い、いやぁッ!」


 私はそこから逃げ出す。


 ホームの階段にたどり着くまで何回もナニカにぶつかるが、それをたしかめることはしない。


 ただただ、この場所から離れたかった。


 必死に階段を上ると、上から白飛びした光が差し込んでいる。


 ようやく、ここから出れる。


「はぁ、はぁ、はぁ」


 全身からは冷たい汗が噴き出して、息は絶え絶えになり喉がひりついている。


「ぅ!?」


 出た瞬間、とんでもない異臭に鼻を摘まむ。


 生ごみのような、鉄のような、埃のような。あと数秒吸い込んだら吐いていたのではないかと思うほどの、異臭。


 強烈な光と異臭に五感が奪われる。


 白ずんだ視界がようやく戻ってくる。


 戻ってくるが、視界には何も映らない。


「……?」


 いや、映っている。


 のっぺりと広く、薄暗い灰色の空と、それより濃い、黒、白、灰、茶、赤、緑。複数の色が混ざり合った泥色の地面。


 その二色だけが地平線を境に広がっている。


 それだけ。



 なに?


 完全に視界を取り戻して周囲を見渡すが、何もかもなくなっている。


 毎日利用していたバス停も、影を作っていた大きなビルも、家も、車も、木も草も。


 ひとも。


 すべて、消え去っている。


 遠くに人影が見える。


 ぽつりと揺らめくそれは煙のようだ。


 私と同じ生きた人だろうか。


 それすらも怪しい。



 …めい?


 いつもの癖であの子はいま何をしているのか考える。


 この時間なら、学校に…


 このじかん?がっこう?


 なにもないのだ。


 なにも。


 ………



「めいっ!?」


 私はとっさに走り出していた。


 もはや道もなく、建物もなく、影もない。


 そんな、ただの地を、記憶にすがって走る。



「はぁ、はぁ、、はぁっ、はぁ」


 息が吸えない。


 心臓がうるさい。


 めがあつい。


 からだが、つめたい。


 あたまが、こころ、が、やける。



 私は走った。走って、走って、走る。


 どこまでいっても、どこまでいったのか、どこなのか、わからない。


 それでも、めいがいるはずのところに、私たちの家に。


 今朝の寝ぼけためいの顔が、いってらっしゃいが。


 だいすきな、えがおが。


「めいっ、めい、めぃ………」




 分かっている。誰もいないことも、何もないことも。


「ぃ、い、ぃわ、あ、ああああああ、ああああああ”ああああ”ああ”ああ”あ”あ”あ”」


 めいが、死んでいることも。


「いやああああああああああああああああああああ」




 数時間前まで日常があった場所には


 ただ、絶望だけが残り


 地獄が蔓延っていた。




 未曽有の大災害。


 地面の揺れも、爆発も何も観測されなかった、原因不明の大規模消失現象。


 その現象は一つの街を建物も環境も人も全てを奪っていった。


 人口の99.8%がこの災害で行方不明となり、時が経ち、死亡者として扱われた。


 そんな中、地下にいた人間は辛うじて生き残っていた。


 私は、0.2%の生存者になった。


 そこから、あまり覚えていない。


 私は被災者として隣の都市に出来た臨時避難所で数年間を過ごした。


 被災地の立ち入りが許可されてからは毎日、めいがいないか探しに行った。


 誰も理解できない事件なのだから、もしかしたら生きているかもしれない。


 誰も見つけられていないだけかもしれない。


 私は捜索隊に加わり、何年も探し続けた。


 でも、年が経つにつれて、捜索隊は縮小していき、解散した。


 行方不明者だっためいが、死亡者リストに加わった。


 時間が流れていった。


 私は一人で行政に生活援助してもらいながら、スーパーのパート勤務で得たお金で生活していた。


 何十年か生きて、パート先で倒れた。


 肺がんだと言われ、転移も確認された。


 もう長くない。


 私はシラクサ総合病院に移った。


「藤原さん」


 病室のカーテンを開いた先生に話しかけられる。


 そういえば、今日はいつもの痛みがこない。


「最後にやりたいこと、決まりましたか」


 そうだった、やりたいことを考えていたんだった。


 これまでの人生を思い出して、何か、やり残したことが無いか、探していたんだ。


 最後にやり残したこと、最後、なら。


 …私の、願い。


 …。


(         )


 そんなの、許されないのに。


 私だけ、生き残ってしまったのに。


 めいを、守り切れなかったのに。


 ごめんなさいと、謝らなければ。


 私が母親で、助けてあげられなくて、一人にしてしまって、ごめんなさいと。


 そして、もし許してくれるなら、もし、めいが私のことを恨んでいないのなら。


 その時は、もう一度だけ、笑ってほしい。


 また、そばにいて欲しい。


 そんな資格、あるはずないのに。


 もう、会えないのに。


(         )


 心から出る願いを、私は止められなかった。


 でも、それは許されないから。


「………いえ、なにも」


 迎えに行ってあげられなくて、ごめんなさい。

 

 




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