第4話 生きていく

 アパルトマンに戻った後、ジャックは毒に詳しい医者を読んだ。

 『蠱毒』であるシアは、普通の人間と同じようには治療ができない。毒持ちの体には、普通の人間に使う傷薬は効かないし、ジャックが持っている毒物の知識だけで毒抜きの禁断症状と傷の治療、どちらも行うことは不可能だ。

 応急処置はしたものの、明らかに衰弱しているシアの姿は見ていて痛々しい。

「まいったな……」

 クラレンス公のゲストハウスから彼を助け出した時、もしシアが一言でも「殺して」と呟いたなら、ジャックは苦しまなくて済むように一瞬で息の根を止めてやっただろう。

 弟子である彼を、囮に使ったのは自分だ。

 彼が苦痛のあまり死にたいと願うなら、それを叶えてやるのがせめてもの情けであろう、と。

 だけど、シアは自分に助けを求めた。

 たすけて、という彼の弱々しい悲鳴を聞いた時、何としても命を救わなければと思った。暗殺者が、人の命を救おうと願うとは。

「こんなことは初めてだ。困るよ、シア。俺はどうしたらいい」

 シアはただ、ぐったりとして浅い息を繰り返している。傷に障らない程度に少しずつ毒を飲ませて、何とか痙攣は治った。ただ、呼吸はさらに苦しげになったし、傷の痛みがひどいのか絶えずうなされている。

 彼の冷え切った指先を握る。

 わずかながら、握り返す力がこもった。

 暗殺者などをやっていれば、標的から命乞いをされることなどそう珍しくない。

 それでも殺す。それが仕事だからだ。命に対して非情であることが、ジャックの生き方だった。

 切り裂きジャックの事件にしてもそうだ。妊婦だったメアリーの問題を悟らせないように、わざと他の遺体も子宮や膀胱など、下腹部の臓器を取り出した。

 暗殺者にとって、派手な殺しなど本来受けるべき仕事ではない。それでも、王家の暗部を担ってきた暗殺者として、粛々と依頼を遂行した。心など痛くなかった。そんな感情は存在していなかった。

 クラレンス公の方が、まだ自分勝手に愛や欲望を語れるだけ人間的ではあっただろう。あのひとでなしのろくでなしに、人間的感情を見るのもおかしな話ではあるが。

「この『顔のない男(ジャック)』が、お前一人の命にうろたえるとはな。まったく、こんなに入れあげるとは思わなかったよ」

 暇つぶしの弟子。もうそんなことは言えないだろう。

 認めなければいけない。

 この少年は、もう自分の弱点になってしまった。

 シアが苦しむことで、心を乱される自分を知ってしまった。

「だからお前には、強く生き延びてもらわなければ困る」



 シアが昏睡から目覚めたのは、それから一週間後のことだった。

 ロンドンの霧よりも厚いもやがかかったような意識が、ゆっくりと鮮明さを取り戻していく。長い時間をかけて、自分の目に映っている部屋の天井が、ジャックと暮らすアパルトマンのものだと理解した。

「先生……」

 自分の声が枯れている。身体が重い。

 精一杯に力をこめると、やっと腕がもちあがった。包帯が巻かれている。定期的に巻き直しているのか、血の滲みもなく清潔だ。

 ゆっくりと首を動かしてみると、寝台の傍に置かれた椅子で、ジャックが腕を組んだまま眠っていた。何日か剃っていないような、無精髭だらけの顔。テーブルの上には、消毒薬やガーゼ、包帯、洗面桶にタオル、様々な薬品の瓶が並べられている。

 もしかして、ずっと看病をしてくれていたのだろうか。

 そう考えて、まさかと思った。『顔のない男』は冷酷な暗殺者だ。気まぐれで買い付けた弟子を助けてくれただけでもありがたいのに、看病までしてくれるなんて、そんな。

 そう思うのに、その横顔から目を離せずにいた。居眠りをしているところなんて、初めて見た。

 いつも、年齢や顔立ちの印象がよくわからないと思っていたのに、不思議と今はわかる気がする。

「三十代の前半かな……」

「正解だ。三十二歳だよ。よくわかったな。シアから見たらおじさんだね」

「……っ!」

 独り言に返事をされて、シアは驚いて息を飲んだ。あくび混じりに伸びをしたジャックは、シアの額や頬を愛おしげに撫でる。

「ずいぶんと寝坊をしてくれたな、シア。お前は一週間も生死の境をさまよっていたんだよ」

「い、一週間……」

「ずいぶん元気になった。顔色も悪くないな。腹は減ったか? いきなり固形物は無理だろうから、ミルク粥でも作ろう」

 鼻歌混じりにキッチンに立つジャックの姿を見ながら、シアは不思議な感覚に囚われていた。

 ずっと、ずっと苦しいばかりの世界で生きてきた。やっと『壺』から出されても、待っているのは希望ではなかった。毒に冒された身体を持て余しながらただ無意味に生き延びるか、明日にでも死ぬか。どちらかの運命しか見えなかった。

 それなのにこんな穏やかな日常があっていいのだろうか。こんな風に、誰かが作ってくれる食事を待っていてもいいのだろうか。

 恐らく味のしないその食事を、待ち遠しく思っている自分が存在していいのだろうか。

 やがて、器にミルク粥をたっぷりと入れたジャックがもどってきた。匙にすくった粥をわざわざ息を吹いて冷まして、口元に持ってこられた。

「ほら」

「え、あの……その、先生」

「きちんと食べないと元気になれない」

「ええと……」

 そこまでしてもらわなくても、いいような。

「口をあけなさい」

「……はい」

 ――どうして、こんなに甘やかされているのだろうか。

 戸惑いが半分、恥ずかしさが半分になりながら、勧められるままに粥を食べた。味は感じなかった。というより、味を感じるかどうかを、意識する余裕がなかった。

「包帯を替える。起き上がれるかい?」

「あ……はい」

 ジャックの手を借りて、半身を起こす。鞭や棒で打たれた背中や腕の傷に、丁寧に薬を塗って包帯を巻きなおしていく。

 意識を失っている間に傷はかなり良くなっていたようで、動かなければさほど痛みは感じない。

 それよりも、不可解なほどにジャックが自分に甘いことの方が気になる。

「あの、先生」

「どうした? 傷がまだ痛むのか?」

「いえ、それは大丈夫なんですけど」

「まだお腹が減っているなら、粥のおかわりがあるよ」

「そうじゃなくて」

 どうしよう。言っていいものだろうか。

 シアは混乱して、困惑していた。何せ、こんなにも人に優しくされたのは、初めてなのだ。

 だけど無精ひげも剃らずに、いつものいまいち表情の読み取れないポーカーフェイスも忘れて、ひたすらかいがいしく世話を焼いてくるジャックを見ていると、なんだか背筋がむずむずとしてくる。

 嫌なわけではない。むしろ嬉しい。どうしていいかわからない感情がぐるぐると渦巻いていて、最終的にシアの口をついてでた言葉は――。

「えっと、僕のこと捨てないでいてありがとうございます」

 ジャックはなんとも言えない顔をした。今まで顔の印象が薄かったのに、起きてからのほんの短い間に、見たこともないジャックの表情をたくさん発見している。印象に残らないあの顔は、ジャックが意識して作り上げたものなのだ。つまり、今は素。

 素のジャックは、案外男前な気がする。世間知らずなシアが判断できることではないのかもしれないが、美形と言っていい顔立ちをしているような。

 そんなシアの思いをよそに、ジャックはぶつぶつと文句を言っている。

「シア、お前は俺を何だと思っているんだ? まさか瀕死の弟子を捨ててさっさと逃げる男だと思っていたのか?」

「だって、僕は弟子らしいことひとつもしてないし……」

「お前に何も教えてなかったのは俺だし、こんなことになるならナイフの使い方ひとつ教えておけば良かったと思ったし、ついでに言えばわざわざお前を助けるために王室まで暗殺の許可取りにいっちまったんだぜ、勘弁しろよ」

「……先生、もしかしてその口調が素ですか?」

「…………」

 しばし、気まずい沈黙。

 シアにはわからなかった。

 一週間寝込んでいる間に、この『顔のない男』に何が起こったのか。今、目の前で赤面している頭を抱えている男は何者なのか。

 だけど、ひとつだけわかったことがある。

 優しくされて、嬉しかった。助けてもらえて、嬉しかった。彼の弟子になったことは、多分シアにとっては幸福なことだった。

 シアはもう、この男のことをひとでなしだと思えなくなっていた。

「そうだ。ナイフの使い方を教えよう。毒なんか使わなくても戦えるようにならないと」

「……でも、あのナイフは取られてしまって」

「回収したよ。安心しなさい。ほら、このリンゴをやろう。ナイフで皮をむくといい」

 半身を起こしたシアに、ジャックはあの蝶の刻印入りのナイフと、リンゴを持たせた。

「ナイフの使い方って、リンゴを剥くのがですか?」

「そうだよ。まずはナイフを手になじませないと。刃渡りがどれくらいあるのか、どれくらい手になじむのか。目をつぶっても、そのナイフでならリンゴの皮を剥けるくらいにならないとダメだ」

「先は長そうですね……」

「ちなみに、リンゴの皮の剥き方はわかるのかい?」

「それくらいは」

 しかし、剥いたリンゴは毒物になるだろう。むしろそうするために剥き方を覚えたと言っても過言ではあるまい。もっとも、毒に耐性があるらしいジャックなら、平気な顔をして食べそうではあるが。

 しゃりしゃりしゃり、とリンゴの皮をむく音だけがしばらくしていた。ジャックは何も言わず、妙に満足気な顔をしてシアがリンゴの皮を剥くのを眺めていた。

 リンゴを剥き終わったら、ジャックは何も気にしていない顔で受け取って、シアの目の前でかじりついた。やっぱり、多少の毒は彼には効かないようだ。

 リンゴを食べ終えて芯をゴミ箱に投げ入れた後、彼は「そういえば」と思い出したように言った。

「今回お前を助けるために、公爵に手を出してしまったからね。しばらくは王室の言いなりになるしかなさそうだ。休業期間が長くなるな」

 ぼんやりと聞き流しかけて、シアはハッとして起き上がった。それと共に、傷の痛みにうめいて崩れ落ちた。

「うぅ……いたた……」

「お前が自分で傷口を広げてどうするんだ」

「だって、先生、公爵に手出ししたって言うから!」

「殺したよ。ちゃんと許可は得た。俺だって、渋られた分だけお前を助けるのが遅れて散々な思いをしたんだ。文句を言われる筋合いはない。向こうも、許可をしたということは結局、厄介払いを俺に押し付けたということだよ」

 爵位持ちを、それも公爵を殺して平然としているのだから、やはり『顔のない男』は根っからの暗殺者なのだ。

 だけど、シアだって迷わずに人を殺した。あの時、ジャックを侮辱されたというただそれだけの理由で、迷うことなく己の身体に流れる毒を使った。

 案外、この人と自分は同類なのかもしれない。毒持ちとかそういう以前のところで。

「先生みたいに、強くなれる気がしません」

 公爵を殺して平然としているなんて、暗殺者としての技量だけではなく、神経まで強すぎる。

 だけど、ジャックは「そんなこと」と言って笑った。

「蝶の羽は、確かに生まれてからずっと少しずつ削れて脆くなる。でも、彼らは死ぬ寸前まであの大きな翅で空を飛ぶ力を失わない。蝶はお前が思っているよりも力強い生き物だよ、シア」

 その言葉を、シアは生涯忘れることはないだろう。

 ただ身体が削れて死ぬだけの存在ではない。

 生きてもいい。生きるためにナイフを手に取り、生きるために時に毒を使う。それでいい。

 そういう風に、『蠱毒』は生きるべきだ。

 そしていつかは、この人の背中を守れたらいい。

 この人が自分の前では、『顔のない男』ではなく、ただ一人の『ジャック』でいてくれるなら、それでいいのだ。


 十九世紀英国。ロンドンの片隅。

 不思議と顔の印象が残らない金髪碧眼の紳士と、美しい青みがかった瞳の少年は、アパルトマンで暮らしている。

 明日誰かの命を奪うかもしれない手を重ねあわせて、今日を生きていく。


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切り裂きジャックの愛弟子 藍澤李色 @Liro_A

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